真・バレンタインデー

平中なごん

Ⅰ 聖ウァレンティヌス記念日

 それは今月の初め、登校途中でのこと――。


「なんとも変わり身の早いことで……」


 俺は誰に言うとでもなくそう呟くと、高校へ向かう道を歩きながら、この国の年中行事について改めて考えていた。


 通りかかった駅前デパートのショーウィンドウ。ふと見れば、ディスプレイのマネキンが昨日までの和風路線から一転、キューピットの羽と弓矢を持った洋風なものに様変わりしている。


 つい先日前までは、どこへ行っても豆やら鬼やら恵方巻やらが目についたというのに、ふと気づけば一転、街はチョコレートの甘い香りと、赤やピンクに彩られたハート型のデザインで溢れ返っている……。


 クリスマスが終われば正月。正月が終われば節分。節分が終われば今度は……と、節操なく和洋入り乱れてのこの路線変更の目まぐるしいこと……イベントなら、とりあえず何にでも便乗しておこうという彼らの商魂たくましさにはもう脱帽である。


 そして、次なる便乗のターゲットは2月14日――いうまでもなくセントバレンタインデーだ。


 すでにかなりの市民権を得て、クリスマス、ハロウィンと並びすっかり定着した感のある西欧由来の祝日の一つであるが、このキリスト教の聖人記念日を、多くの日本人は「女子が好きな男子にチョコレートをあげる日」なのだと一ミリの疑念を抱くこともなく信じられている。


 また、今は下火となりつつあるが、かつては会社の同僚や男友達に配る、いわゆる〝義理チョコ〟なるものが隆盛していたし、最近では異性にあげるよりも女子同士や野郎同志で渡し合う方が主流になっていたりもする。


つまりはまあ、「チョコレートの日」として認識されているわけだ。


 しかし、そんな「チョコレートの日」としてのバレンタインデーは日本だけで独自に発達したものであり、いわばガラパゴス・バレンタインデー――携帯電話風に略せば〝ガラバー〟である。


 対して、もともとこの日を祝っていた欧米の国々ではどうかというと、男女問わず恋人や親しい人間に花やお菓子、カードなどを送る〝恋人の日〟とされているのだが、そもそもは西暦269年、時のローマ皇帝クラウディウス2世の迫害により殉教したキリスト教の聖人、聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)の絞首刑にされた日に由来する。


 西方教会系のカトリックやプロテスタントの伝承によると、その頃のローマ帝国内において2月14日は家族と結婚の女神ユーノーの祝日であり、翌15日の豊穣を祈るルペルカリア祭では、普段別々に暮らしていた若い男女がお目当ての相手と一緒に過ごし、多くの者はそのまま結婚するということが慣習となっていたが、愛しい者を故郷に残すと兵士の士気が下がると、皇帝クラウディウス2世はこれをを禁止したと言われている。


 当然、その禁令に嘆き悲しむ兵士達へ救いの手を差し伸べたのが、キリスト教会の司教であったウァレンテイヌス――その後、殉教して聖人に叙せられた聖バレンタインだ。


 彼は兵士達の禁じられた結婚式を密かに執り行っていたが、その噂はやがて皇帝の耳へも入ることとなり、怒ったクラウディウス2世は二度と行わないよう彼に命じた。


 しかし、ウァレンテイヌスはその命に従おうとはせず、最後は絞首刑に処せられて天に召されることとなる。


 クラウディウスのあてつけか? その処刑の日はあえて〝結婚〟の女神ユーノーの祝日である2月14日が選ばれたが、そのために教会は聖バレンタインを記念した聖人の日をこの日と定め、また、その生涯にちなんで彼が〝恋人たちの守護聖人〟になったことから、セントバレンタインデーは「恋人の日」にもなった……


 と、まあ、これが一般的に云われているその由来だ。


 もっともこの話は史実ではなく、ローマ帝国の国教と定められた後、祭礼から異教的要素を排除しようとしていた初期のキリスト教会が、うまいことでっち上げたものである可能性の方が高い。


 やみくもに禁止してもただ無駄に反発を招くだけなので、女神ユーノーの祝日とルペルカリア祭という異教起源の祭を、キリスト教の聖人ウァレンティヌスゆかりのものに書き換えたというわけだ。


 それは、もともとは冬至の太陽を崇めるソル・ウィンウィクトゥスやミトラス神の祭であったものを、キリストの誕生日――即ちクリスマスへ変化させたのと同じである。


 また、東方正教会オーソドクス系の教会においては、そのように聖ウァレンティヌスの記念日を〝恋人〟と関連づけるようなことはなく、こうした傾向はなぜか西方教会系の国々でのみ見られるのであるが、ともかくも14、15世紀頃からそんな話が広く語られるようになったらしい。


 他にも、ウァレンティヌスは結婚したばかりのカップルに庭から摘んできた花を贈っただとか、監獄に入れられた際、目の見えない看守の召使の娘が説教を聞きに来ていたが、ある日、娘の目が見えるようになるという奇跡が起きたことで彼女の家族がキリスト教に改宗、それに激怒した皇帝により処刑される前日、彼がこの娘に宛てて「あなたのヴァレンタインより」と書かれた手紙を送ったなどというエピソードもあって、それがバレンタインデーに花やカードを送る習慣の起源となっている。


 いずれにしろ、この「恋人の日」であるというのが欧米におけるセントバレンタインデーの本質であり、けしてチョコレートの日などではない。


 プレゼントとしてチョコレートを贈ることもなくはないが、それはあくまで選択肢の一つであって、むしろウァレンティヌスの故事にちなんで花や「From Your Valentine」もしくは「Be My Valentine」と書かれたカードを送る方がメジャーだ。


 なのに、日本のバレンタインデーがこんなことになってしまったのは、お菓子業界や百貨店の売上向上戦略だったと一般的には云われている。


 しかし、意外やそのキャンペーンを張った当初はまるで流行らなかったらしく、消費者側が自主的に飛びつかねばこうまで浸透しなかっただろうし、本当の原因はよくわかっていないというのが実際のところだ。


 だが、理由はどうあれ、日本のバレンタインが「チョコレートの日」であることはもはや動かしがたく、かくいう俺の通う高校においても――


「ねえねえ、センパイにあげるチョコ、どんなのにした?」


 だの……


「ええ~どうしよ~! 手作りチョコとか引かれたりしないかな?」


 だの……


「今日の帰り、みんなでチョコ買いにいこうよ!」


 ――だのと、教室内で耳をすませば、女子達が弾んだ声でキャピキャピ騒ぎながら、明日14日に向けて浮足だっている空気が嫌でも肌に感じられる。


「なんとおめでたい日本人の多いことでしょう……」


 俺は片肘をついてその平和な光景を眺めながら、今月の初めと同じように独り言をぽつりと呟いた。


 今の会話を聞いても、やはり「チョコレートの日」なのは公然たる事実であるようだ……。


 それでも、あえて俺はこの本質を見失ってしまったセントバレンタインデーに異を唱えてみようと思う。


 といっても、本来の欧米式に「男女でお互いに親しい相手にプレゼントを送ろう」などという甘ったるいものではない。


 俺に言わせれば…いや、俺達・・に言わせれば、そんな後付け話を基にしたものなどはまだまだチャラい。


 2月14日は、聖ウァレンテイヌスという聖人が絞首刑に処せられた日なのだから……。


「聖人の記念日なんだ。もともとの意味を忘れた輩に、ちゃんとその聖人のことを思い出させてやらないとな……」


 明日の一大イベントをネタに、女子達の弾む声があちこちから聞こえてくる朝の喧騒の中、教室の窓辺の席に独り座る俺は、若年層なら誰しもが使っている某SNSを使って、俺が主催するこの学校の秘密結社的部活動〝原点回帰倶楽部〟の同志たちへメッセージを密かに送った。



〝以前よりの計画通り、各自、決められたエリアでの務めを実行されたし。また、女子結社員は協力のもと、霊のものの準備、怠りなきよう〟



「さて、明日が楽しみだな……」


 そして、またも誰に言うとでもなくそう呟くと、淡い期待を抱く一般的な男子とはまた違ったドキドキ感に胸をときめかせながら、2月14日の訪れるその時を待った――。

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