第8話 全ての事象が必然か偶然か-3-
地底の暗闇を歩き続けるのはただの徒労である。されど、徒労は嗜好足り得る。さぁ、続けよう。
今回は2で私の触れた、「第三の目」について考察を深める。つまり、仮定としての「第三の目」は果たして現実に存在し得るか?という疑問に対してである。
2の私の仮定をもう一度取り出そう。
「第三の目は感情、感覚、思考を持たない、またはそれを完全に超越した概念である」
私は例として、自然、神、統計的情報などを挙げた。自然と統計的情報は存在する。神に関しては存在しないとは言えないが、逆に存在するとも言い切れないと言ってよかろう。
だが、現実に置き換えた時、問題となるのはそこではない。
すなわち、「現実においては第三の目を『観測』するものが感情、感覚、思考、を持つものでなければ成り立たない」のである。
ああ、待って欲しい。ややこしいのはわかる。私もそろそろ頭を抱えそうである。…
我々の現実的体験は、あくまで我々の感覚器官、思考を通して認識される。そして「存在は観測されなければ存在しない」とする。
ならば、「第三の目は我々に観測されない限り存在しない」わけである。
…聡い方は既にお気づきだろう。酷い堂々巡りもあったものである。もう少し考察を続ける。
自然は観測可能である。情報もまた然り。神も…「思考という中では」観測可能である。
ならば「第三の目は現実に存在する!」と言いたくなるが、落ち着こう。
ここでの観測者は我々であり、2で言うところの「観測者であり体験者であるもの」でしかあり得ない。つまり噛み砕くと、2のBに関して、「観測者たる第三の目を『観測』する体験者が存在しなければ、現実に適用ができない」仮定であるといえる。
この仮定が出来上がると、さていよいよ堂々巡りが始まる。
「2のBを現実に適用する場合、必然的にAに戻る」のである。…
何を考えているのかよくわからなくなってきたというのが本音である。別に私は頭がいいわけではない。ともかく、この章の結論だけ投げておこう。
「第三の目が観測者である限り、事象には必然しか存在し得ない。しかし、現実においては『第三の目を観測する体験者』が存在せねばならないため、偶然は存在し得る」
はっきり書いておく。私は混乱している。だが、一応考えたものだ、書き記しておこう…。
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