何もない日、或る物思い
鹽夜亮
第1話 何もない日、或る私小説
何もない日というのは、往往にしてある。
言葉遊びから始めるのも良いだろう。たまには巫山戯なければ、退屈に膿んでしまう。得てして真面目ぶって普段から、たまにはマトモな小説でも書いてみようかと四苦八苦などしていると、いよいよ人間は巫山戯て見たくなるものだ。それは退屈によるものなのか、いたずら心のなすものなのかは私の知るところではない。
さて、私の毎日には何もない。ただ日々が過ぎてゆくだけだ。これは比喩ではない。ただ単純に、事実として、有り体に言えば、というものである。馬鹿らしい言葉の羅列はこれくらいにしよう。執拗なものは好ましいが、それは飽きを招きかねない。
仕事を休職し始めてから、二ヶ月が経つ。時が経つのは早いものだ。人は、多くの場合、楽しい日々は早く過ぎ去るというが、それは半分嘘だ。どんな日でも早く過ぎ去るというのが正しい。それが悪夢に満ち溢れた日々だろうと、至上の幸福に満ち溢れた日であろうと、時は平等に過ぎ行く。私は特に何もしていないというのに、二ヶ月が過ぎてしまった。私は、この間に一つ年を取り、一つ年を越えた。
日中何をしているか?そう問いかける者がいるのは、誰もが頷くところであろう。日々を仕事や学業、その他の何やらかに忙しなく過ごしている世間一般の人々にとって、私のように「何もない」日々は不思議でならないのだ。それもそうだ。彼らには日々予定が詰まっている。私にはそれがない。あるとしても、精々病院に行くとか、某CD屋に借りたCDを返しに行くとか、そんなどうでもいいことだ。
ああ、待ってほしい。そんな軽蔑の目で見るのはやめていただきたい。私とて、好き好んでこの状況に甘んじている訳ではない。それなりに理由はあるのだ…理由は。
しかし、その理由をここに書き連ねる気はない。私は同情を引こうとも、反感を買おうとも思っていない。理由とやらを書き連ねれば、そのどちらかを招くことになるだろう。最も賢いのは沈黙だと、様々な哲学者や偉人が口を揃えていうが、まさにその通りだ。まあ、沈黙を守るのならば、このような私小説など綴らなければよい話ではあるのだが、それは目をつぶっていただこう。これも、一種の暇つぶしだ。病人の戯言だと思って、奇遇な諸君は付き合ってくれたまえ。
何もない私の朝は、喫煙から始まる。煙草は一種の趣味だ。私は、様々な種類をローテーションで愛煙することにしている。寒空の下、玄関の外で喫煙を終えると、私は朝食と薬を体に摂り入れる。精神病というのは厄介なものだ。完治には時間も手間も、労力も、そして金銭もかかる。世間がそれを待ってくれることは稀であるし、配慮してくれることはある種の奇跡だ。ともあれ、私は毎日朝昼晩と忘れずに薬を飲み、睡眠薬で眠りにつく。ああ、何もない日々というのは嘘だったかもしれない。私は毎日規則正しく、大抵の人々よりも大量の薬を飲んでいる。
どうだ、偉いだろう。…わかっている。あまりにも惨めで馬鹿らしい誇りだ。
他にしていること?動画サイトを四六時中見ている。それと、音楽を常に聴いている。その二つに私の時間の八割が使われていると行っても過言ではない。眠っている時間よりも音楽を聴いている時間の方が多いのかもしれない。決して大言ではなく。
それと趣味程度に小説を書いている。無論手書きではない。理由はある。漢字が苦手だからだ。読みが得意でも書きが苦手な諸君、君たちと私は同類だ。気持ちはよくわかる。これはインターネットと携帯に日常を奪われた世代の弊害だろう。
小説と書いたが、さて小説と読んで良い代物かどうかは評価が分かれるところだろう。なんせ、私は読者というものを想定して書いている訳ではない。誰かに読んでもらうことを前提に、わかりやすく面白く書こうと思っていない。私の小説は、つまり個人的な心の吐き出し口に近い。まっさらなノートに好きな言葉を書きなぐる経験をしたことのあるものはそれなりにいるだろう。そのような感覚に近いのだ。私は、私のために書きたいものを書いている。無論、それを公開している以上、読んで気に入ってくれる方々がいるのならば、それは僥倖だ。私にも自己顕示欲や肯定されたい気持ちはある。私にも、というよりかは私はむしろそういった感情が多いのかもしれない。少なくとも、自己顕示欲や他人に認められたい欲、肯定されたい気持ちがなければ、小説をネットで公開などしないだろう。もし私にそれがなかったのならば、きっと百均かどこかで仕入れた適当なノートに、コンビニで仕入れた安いシャープペンシルを使って、苦手な漢字をスマートフォンで調べながら綴っていたはずだ。無論、それは私の机の奥深くに、誰の目にも触れないように大切に保管してあることだろう。
書くことがなくなってきた。いやはや、大して何も書いてすらいないのだが。
そうだ。最後に一つ考察らしきことをしておこうか。私の心を支配する、不安という悪魔についてだ。
不安は、必要な感情だ。それは危険を避けるために重要な役割を果たすし、もう少し見えにくい役割をあげれば、不安を克服するための行動が当人にとって喜ばしい効果を与えるということもある。この不安だが、お見知り置きの通り、時に大変厄介な代物となる。私は、この不安という怪物を飼い慣らせないでいる。
明日のことを思い描いて、ああでもないこうでもないと、思い悩んだことのない人間はこの世に存在しないだろう。仮に存在するとしたら、それは人間ではないか、神に選ばれた幸福なほんの一握りの人間だ。少なくとも私はそういった人間には該当しない。人並み以上に不安に敏感な私は、それに延々と悩まされ続けている。
無論、これはある種の将来を見通す視野の広さを表しているとも言えるだろう。最悪の結果を常に予測することは、リスクの管理という観点から言えば、悪いことではない。あくまで、その観点から見れば、という話ではあるが。
度を超えた「先見の妙」は、人の行動を制限し、心を荊で縛り付け、血みどろにする。
私はまさしく、それに苦しめられている。何から何まで、その裏を見つめようと躍起になり、その行く末を案じて右往左往し、終いには布団に包まって震えるのだ。こうして文章にするといかに滑稽なことかお分かりだろう。自分で自分を痛めつけ続けているに過ぎないのは、自らが一番よく見知っている。それを、認識しているからといって、すぐにやめることができるのならば、今目の前にある水で睡眠薬を飲む必要などなくなるだろうし、おそらく私はお気楽に毎日仕事に行くだろう。
戯言をダラダラと書き連ねているうちに、日をまたいでしまった。またこうして一日が終わって行くと思うと、憂鬱にもなる。というのは嘘だ。どうせ今から眠ってしまうのだから、大して憂鬱な感情はない。明日にも何という困難が待っている訳でもない。
今の私には、何もないのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます