残響

天神大河

残響

 歩くということが、これほど長く苦しいと思ったのは、多分今日が最初で最後だろう。冷たく乾いた風を肌で感じ、私はあらためて今この時の自分を再認識させられ、小さく溜息を吐いた。

 小学生の頃に両親と住んでいた古い団地の階段を、私は一段一段ゆっくりと踏みしめる。灰色のコンクリートに、所どころクリーム色の塗装が剥げ落ちて、赤錆が露出した手摺。じっくりと団地の様子を眺めれば眺めるほど、何もかもが懐かしく感じられた。それゆえか、私の両親の記憶が、歩を進める毎に鮮明に脳裏に蘇っては、すぐに消えていく。




――おかえりなさい、真美。今日は学校、どうだった?


――またテストでこんな点取って。あんた、ホントにやる気あるの? ママはあんたの将来を心配して言っているのよ。


――お前がいるから、わたしは、パパと別れても幸せにはなれないんだ! お前なんか、生まなければよかった!




 最初に思い出すママの顔は、ルネサンスの絵画に見る聖母のような美しい笑顔。だけど、パパとの関係が悪化するにつれて、ママはだんだんと私に辛く当たるようになった。

 ママ、私あの時クラスで一番だったんだよ。先生や友達からすごいねって言われたよ。

 頭を優しく撫でてくれたママの手の感覚が、不意にフラッシュバックする。私は、その記憶を必死で拭い去る。だって、今現実にいる私のママは、その手で私の頭や頬を叩くだけの存在だから。




――真美はいい子だなあ。将来、パパがお嫁さんにもらっちゃうぞ~っ。


――ごめんよ、真美。パパ、お仕事が忙しくて、帰れないんだ。今日はお誕生日、おめでとう。


――真美。パパ、ママの他に好きな人ができたんだ。だから、お前たちとは一緒に暮らせない。……分かってくれるね?




 パパはいつだって笑顔だった。家にいたときは、いつも私とママを励ましてくれる、太陽みたいな人だった。

 私の世界には、いつだってパパとママがいた。それが、幼い私にはかけがえのない幸せだった。だからこそ、二人には別れないでいてほしかった。

 ……私はいつから、パパの笑顔に騙されていたんだろう。どれだけ考えてみても、今となってはもう分からない。分かろうとも思わない。






 手摺のみに囲われた団地の踊り場に、冷たい木枯らしが吹きこみ、私の身体をにわかに震わせる。ふと、踊り場から外に目をやると、四、五人の小学生ぐらいのグループが楽しげな声を上げながら追いかけっこをしていた。

 ぼんやりと判別できる子どもたちの無邪気な笑顔を目にして、私は、彼らはまるで、傷つくことを知らなかった私そのものだ――そう直感する。

 私は、小学三年生の頃から数人ほどで構成された女子グループの一員として、常に彼女たちと好きなものや価値観を共有していた。私はその中でも、亜依ちゃんというピンク色の眼鏡をかけた控え目な女の子と特に親しかった。

 そんな私たちの関係が脆く軋みだしたのは、中学校に入ってすぐのことだった。亜依ちゃんが、ある日突然私たちのグループで共有していたSNSサイト上で、いじめられるようになったのだ。見るに堪えない悪意ある書き込みが、私の眼前で展開されていく。




――亜依って、ネクラだしまじキモイ。近づかないでほしいw


――あのメガネちょーダサい! ありえないっしょ。


――決めた、明日からみんなで亜依シカトね。誰か一人でも裏切ったら……


 絶 交


だから。




 たちまち周囲から孤立していく亜依ちゃん。私は、誰にも相手にされずに目元にいっぱい涙を浮かべた亜依ちゃんを見るのがたまらなく辛かった。だから、私はある時みんなにこう言った。




 もうこんなことやめよ。




 その次の日から、私はみんなのいじめの標的になった。




――正義の味方ヅラとか、今時ださい。


――クッサwww真美の髪まじクサなんだけどwww汚すぎwww


――コイツのこと、正直言ってはじめから気に入らなかったんだよね。みんなもそう思わない?




 やがて、私へのいじめは女子グループから、クラス全体、果ては学年全体へと、あっという間に広がっていった。休み時間や授業中を問わず、私が毎日のように嫌がらせを受けている光景に、先生たちは、必死で見ないふりを貫いていた。

 まるで、醜い汚物に手が触れるのを避けるかのように。

 ある日、私が片思いしていた男の子から、とても卑猥な言葉を言われた。そのとき、彼の周りでは、数人の男子がニヤニヤといやらしい顔つきで、私の頭のてっぺんから足先までを、じっくりと舌なめずりしながら眺めていた。


 やめて。


 そんな目で、私を見ないで。


 また、女子たちのやり方も、日々着実に進化を遂げていた。机やイス、教科書に落書きをされるのは当たり前だったし、体育が終わった後、制服が所々破かれていた日だってある。そんな日々の中で、私が一番印象に残ったのは、性描写を含んだ女性のヌードに、私の顔をコラージュして、学校中にばらまかれた時のことだ。

 その時は、校長先生からママとともに呼び出され、事実とも虚構ともつかぬ罵詈雑言が私に向けられた後、ママから何度も殴られた。クラスのみんなは、そんな私をにやにやしながら見てるだけ。




 ある日の夜、家に帰ってから、私はスマホで女子グループのSNSサイトを開いた。そのことに特に理由はなかったけれど、愚かな私は未だその中に一抹の希望を求めていたのかもしれない。けれど、そんな考えはいとも簡単に打ち砕かれた。あの書き込みを見た瞬間に。




――ねえねえ、明日はどうやって真美をいじめようか、ゆきチャン?


――あいつのパンツを無理やりにでも脱がせて、クラスの男子に売り捌くってのはどう、亜依チャン?


――それいいね! ゆきチャンまじ天才!




 どうして。


 どうして、亜依ちゃんが。




 ……簡単なことだ。


 私は、親友にも裏切られたんだ。




 私は頭が混乱して、それから一晩の記憶がない。朝気がついたら、私の両目は真っ赤に染まっており、ベッドの上に乱暴に置かれたクッションにはうっすらと濡れた跡が広がっていた。


 その時、私は決めた。私の居場所がどこにもないこの世界から、永久に私自身を消してやろう、と。




 その時の決意を、あらためて心の中で呟いているうちに、私は団地の屋上に着いた。冷たくも心地よかった秋の風はもう感じられず、冬の肌寒さだけが私の身体を貫いていく。そのまま、私以外に誰もいない灰色のコンクリートの上を静かに歩き、取ってつけたかのように立っていた私と同じぐらいの高さの柵を乗り越える。屋上の隅にまで来たところで、下から吹き上げる風が、私の長い黒髪を揺らしていくのを感じ取る。私はふと、眼下にある駐車場と道路、その先に広がる民家や川、ビルを一望する。そこにいる人たちは、一人で歩いていたり、親しい人と一緒に会話をしていたり。

 多種多様に生活する彼らの目に、団地の屋上に立つ私の姿は映ってはいない。私の思いにも、気づくはずもない。




 きっと、ここには、私が望んでいた未来なんてなかったんだ。




 私は、ぽつりと口にして、ふと一匹の猫へと思いを馳せた。あの子も、同じだったのかもしれない、と思ったからだ。

 今朝、この団地へと向かう途中にいた、黒色の仔猫。その子は、中学校の通学路でいつも目にする野良猫で、私が話しかけるとあくびをしては決まってどこかへ行ってしまう、ちょっと変わった子だった。


 その子は、今朝、大通りの道の真ん中で、全身に血と泥と、タイヤの痕をつけて死んでいた。通り過ぎる車は、誰もその子を気にしないどころか、またさらに轢いていく車さえあった。


 その時の光景を脳裏に浮かべながら、私は思う。あの仔猫は、孤独こそが至高なのだと知っていたのではないか。だから、私が話しかけても馴れ合おうとはしなかったし、無論、特別な誰かと生活を共にしないまま、独り寂しく死んだのだ。私も、あの子とおんなじだ。誰にも愛されることなく、最期まで一人のまま、十三年の生涯を閉じるのだ。後悔なんて、ない。






 私は、そっと、両方の瞼を閉じる。


 そのまま、私の身体は、踏みしめていたコンクリートから地を蹴って、はるか大空へと旅立った。


 その瞬間、私の耳には、ありとあらゆる世界の残響が、一瞬とも、永遠ともつかぬ時間の中で、不協和音を奏で続けていた。



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残響 天神大河 @tenjin_taiga

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