Heroach 〜ヒーローチ〜

堀岡玖哲

アルファローチ編

Prologue

 その日は梅雨明けと宣言された翌日のことだった。深く黒くどこまでも続いていそうな曇天は、星空の明かりを塵程も漏らすことなく、この街の空を覆っていた。

 風は吹き荒び、轟々と大気の擦れる音がする。草木がざわめいて、闇夜の恐ろしさを一層に掻き立てた。


 そういえば台風が近づいているんだっけ——とうに日を跨いで丑三つ時、人がてんで見当たらない細道を寂しそうに歩く彼女は、靡く髪の毛を押さえながら思い出した。

 ボディラインに自信がなかった彼女は、全体的にゆとりのある服を着ている。その所為で暴風に攫われそうになる衣服が鬱陶しかった。雨が降ってしまったら、折角の充足感が台無しだ。きっと、この天気のように気分も荒れるだろう。


 陰鬱な心持ちになる前に急いで帰らなければ、と少し速足で帰路を行く。


 非常識な風が、惑わす時間が、先の不安など忘れさせ、彼女の気持ちをくすぐる。誰一人として見当たらない世界に、自分ひとりだけがいるという非日常的な現実が、己を全知全能の神だと冗談交じりに錯覚させている。


 きっと酔いの所為だろう、と彼女はどこか俯瞰して酒気を帯びる自分を見つめていた。


 そんな彼女の後ろに、一台の車が近づいていた。街灯の少ない道に溶け込むような黒塗りのハイエースである。その車は誰がどこからどう見ても、怪しさを覚えざるを得ない、訝しい存在だった。停車と発進を繰り返し女性との距離を一定に保っており、透過性が基準を満たしていないフルスモークの車窓、夜間だというのに前照灯を点けていないその様子から、何か良からぬことを企てていることが、ありありと見て取れた。


 しかし、背後の魔の手など知るよしもない彼女は、走りにくそうなヒールをカツカツと鳴らし、雨に濡れないことを祈りながらほんの少しだけ速足で歩くだけだった。


 女性は道を右に折れた——車が一台通れるかどうかのより細い小道へと入っていった。


 漆黒の車に搭乗していた者たちはそれを見逃さなかった。

 意気揚々と、されど、尚も冷静沈着に後部座席から降りてきたのは、これまた黒色の上下の衣服に帽子と、怪しさそのものを身に纏っているような男二人組だった。唯一の白色のマスクをしたところで、様相の不審さは増すばかりだ。


 二人は緊張した様子もなく、むしろ慣れを感じさせる軽やかな動きで、女性が入っていった路地を覗き込んだ。

 背の低い男が、もう一方——横方向に大きい男——を向いて大きく頷いて見せる。それに応えるように、巨漢の男も肩で息をしながら首を縦に振った。

 それが彼らの合図だったのだろう、二人は荒れ狂う暴風に気配を忍ばせ、まるで忍者のように彼女の背後を取った。


「————っ!」


 いくら唸る風が五月蠅かろうとも、背後から大人二人——その内一人は奇態な腹の持ち主だ——が近づいていたら気付くはずだ。男たちもそのつもりで、真っ先に狙うは、口と首と決めていた。


 しかし、彼女はことが始まるまで異変の『い』の字も感じ取ることは出来ていなかった。


 酩酊初期であり気持ちが大らかになっている彼女にとって、周囲に気を向けるというのは、至難の業だったのである。

 つまり、彼女のミスは、酒を飲んでしまったこと、台風の日に出歩いてしまったこと、夜の帳が掛った時間にたった一人でいること、そして、彼女が男性から見て非常に魅力的に見えてしまうことだった。


 このことを簡単な言葉に換言するとこう言い表せる。運が悪かった——と。


 どれか一つでも欠けていたら、彼女はこうして拉致されることはなかったはずだ。仮に、無謀にも輩が一時の蛮勇を見せて彼女の拘引を強行したとしても、何らかの抵抗や助けを呼ばれるなどして、上手くいかなかった可能性だってあった。

 それらの可能性すら潰えてしまっていた彼女を、運が悪いと言わずして何と言おう。


 四肢を乱暴に動かし最大限——だが最低限の抵抗をしてみせる彼女だったが、その巨漢に似合うだけの圧倒的な力の前には為す術もなく、男たちに抱えられ車へと押し込まれてしまった。


 車の初速は著しいものだった。先程まで亀のように遅かった車は、狂ったようにエンジンを唸らせてたちどころに姿を消した。

 後に残るのは風のどよめきと、彼女の悲しみと恐怖を知らせるかのように降り出した雨——そして、物陰から不意に現れた、一人分の影だった。


 車の進路は迷いがなかった。また、計算しつくしているのか、赤信号で止まらないように速度の調整や道順を選んでいるように見える。


 そんな車を運転する、これまた真っ黒な衣服に身を包んだ男が小さく舌打ちをした。


 後ろの仕事仲間は、これから売り飛ばす女——いわば商品をぞんざいに扱い過ぎではないかと思ったからだ。一時の慰めで仕事料が減額されたら堪ったものではない。自分が発散出来るのなら百歩譲って、まあ良い思いが出来た、と割り切ることに頷けないでもないが、バックミラーで見るに収まる彼が、怒りを覚えないわけがなかった。


「助け——!」


 一瞬口から離れた手だったが、すぐさまガムテープで塞がれる。幾重にも貼られたテープは、口の動きや舌の圧力だけではどうすることも出来ない。


 男たちは、悲涙に塗れ助けを懇願する彼女の姿に、耐えがたい興奮を覚えた。


 それがすぐさま発散出来なかったのは、下品な笑いを憚ることなくする巨漢の腹部に、彼女の蹴りが炸裂したからだ。


 火事場の馬鹿力というものだろうか、女性とは思えない脚力によって、百キロはゆうに超える男は後ろに吹き飛ばされ、運転席と助手席との間にすっぽりと収まった。

 そのコミカルな様相に呵々大笑した背の低い男と、それに中てられ羞恥を隠すために苦笑いをする大男。すっかり興奮の色は沈下していた。


 女はここぞとばかりに暴れ出したが、背の小さな男が容易に取り押さえる。いくら低身長とは言え、それは成人男性という枠組みの中での話だ。喉を引き裂かんばかりに叫んでいるこの女性と比べたら勝るとも劣らない。


 小男は女の両手両足を口同様ガムテープで幾重にも固定する。前腕を肘までぐるぐる巻きにしている所為か、胸部を前へ突き出している形に拘束されており、低くはない隆起を前に男たちは歓声を上げた。


「お前ら、ぶっ壊すのだけは止めろよ?」


 バックミラーを一瞥した運転手が、茹蛸のように真っ赤な顔色をした女が見えたことにより、耐え兼ねて自制するよう口にした。勿論、そこに心情を察し同情したため、などという綺麗ごとは全く含まれていなかった。


「報酬を減らすなよ」

「あ、遊べねえっつー理由で取り分は四三三にしたじゃねえか。も、文句言うなよ」


 汗を滝のように流しながら大男は反論する。仕事の報酬の取り分を、運転手四割、大男と小男が三割と譲歩しているのだから、その分遊ばせてもらう、と言いたいらしい。が、無論運転手はそれについて憤慨しているわけではない。


「そうじゃねっつーの……これだから馬鹿は……」


 運転手は誰にも聞こえない声で独り言ちる。


「もう早いとこ引ん剥くか!」


 そう言って小男が取り出したのは小型のポケットナイフだった。

 女はもう一段階声量を上げる。既に彼女の声帯は傷つき、最悪出血していることだろうと想像出来る。それ程までに痛ましい絶叫だった。


「あんまり動くなよぉー? 怪我したくないだろ? 俺はぶっ刺してもいいと思うんだけどよ」

「おい!」

「ほらぁ、あいつがうるっせーから。な? 動くなよ?」


 小男もこれが商売だとは認識している。それに短くはない間このチームで行動している。己が欲望の為に報酬を減らすような馬鹿はしないし、張りぼての信頼にしろ、せっかく築き上げたコミュニティを蔑ろには出来ない。それに車の中に血痕が残るのも不味い。シート交換も安くはない出費だし、出さなくていいのなら極力節制するのが賢い選択だろう——そもそも賢い人間であればこんな犯罪はしないだろうが。


 ——あいつをキレさせんのもヤベえし程々にしとくか。

 小男は過去に思いを馳せてそんなことを考える。


 ナイフを突きつけられ、女は身動きを止めた。それは男の発言に同意したから——誤って切り裂かれ痛い思いをするのが嫌だからではない。


 単純な本能——恐怖だった。命を脅かされ、抵抗することも出来ない弱者と化した自分に出来る唯一の行動。昆虫などで良く見られる擬死反射のようなものだろう。身体を縮こませて恐怖の対象が去るのを待っている。


 男たちはどうでも良い様子だ。むやみやたらに動かなければ、女の心情など慮る必要もない——否、どんな状況であれ、商品に対して心を読み解こうとする意思が働くはずもなかった。


 ナイフはシャツ越しに女の腹部を伝う。女の鼻息が荒くなったのに気付き、小男はもっと脅してやろうかと、今しがたの考えはなかったことにするように、加虐心を沸き立たせた。しかし、大男には痛めつける趣味は持ち合わせていないようで、「お、おい! 時間もねえんだし、じ、焦らすなよぉ」と首を右側へ動かし、お前に言っているんだぞ、と遺憾な旨を表情付きで伝えた。その顔は醜悪そのものだった。反抗しようものなら、そのふとましい腕で殴り殺されかねない。


 小男は少しでも立場を崩さぬよう、苦笑いを交えつつ「分かったよ……」と言い、ナイフで女の衣服を切り裂いた。

 女は布が切れていく感覚が肌で伝わるのか、その度に声にならない呻きを上げる。


 上半身は下着も残らず切断されている。金具が無いタイプのものだったのだろう、下着は真ん中から切り裂かれ観音開きにされている。


 下半身はジーンズパンツだったため、切り裂かれはせず膝のあたりまで降ろされていた。脛辺りまでガムテープで止められているが、ジーンズパンツによって、更に拘束が強化されたと小男は考える。それと同時に、足が開けねえのは面倒くせえが、使えねえこともねえか、とも。


 勿論下着は破られており、大男が握りしめていた。


「なかなかいい女じゃねえかマジで! 数サイズ大きいブラをしてたことは頂けねえけどよぉ?」

「い、いやぁこんくらいが丁度良いっしょー。び、微乳ってやつー」


 当然彼らが最初にするのは猥談だ。もはや二人の男は目の前の獲物しか見えていない。この欲望を如何なる方法で発散するかだけを考えていた。


 その言葉を聞いた運転手は、より不快感を露わにする。助手席に人が乗っていたら、そのあまりの悍ましい表情に悲鳴すら上げていたかもしれない。それ程の不愉快さを無意識で顔に出していた。


 ——ドウンッ。


 運転手の表情が元の厳しい顔に戻り、大男がパンツを口に含みながら呆けた表情に変わり、小男がポケットにしまったナイフを取り出そうと、腰に手を当て怪訝な表情に変わったのは、車の上部からそんな音が鳴ったからだ。


 彼らの乗っている車に二階などという空間は存在しない。普通車と同様、上には屋根しかない。であればその音の発信源は屋根からということになる。


「何だ!?」

 運転手が叫んだ。


「あんはおひふぇひはんははえー?」

「うっせえんだよ、パンツ出してから喋れや、デブ!」

「何か物が当たったんじゃねえか? ボールとかよ」


 小男が多少警戒しながら、しかし気にすることはないだろうという思いを滲ませ言う。だが、気が立っており、失敗を許せない性格の運転手は、危機感が足りない後部座席へ怒声を浴びせ掛けた。


「こんな速度の車にか? しかもこんな時間にか? 馬鹿じゃねえのか?」

「たとえだろうがよ……」


 怒っている時の運転手は手が付けられないと、経験で知っている小男は多少真剣みを帯びさせて、相手を宥める。


 しかし、運転手の怒りは留まるところを知らない。それは何が起こるか分からないという不安によるものだろう。人を連れ去ったらどこの道をどれくらいのスピードで走るかを入念に下調べをして、計画的に実行してきた程の運転手は、想定外のことが起こると人一倍焦ってしまう。その焦りを隠すため、憤怒という形で誤魔化しているのだ。


「それに何か物が当たったていう衝撃じゃなかったろうが! もしかして人が——」


 そう言って運転手は口を閉ざした。運転が蔑ろになって事故を起こしそうになったわけではない。先程の物音の原因が分かったからだ。そしてそれが普通ではありえないことで、どうしてそうなったのかを思案しているからだ。そしてそれが——どちらなのかを判断しようとしているからだ。


 フロントガラス越しに見えるそれは、トイレに入室している人がいるか確かめるかの如く、軽い握り拳を作ってみせ、手の甲でノックをした。


「何だよっ!」


 運転手が取った行動は、車を停止させることではなく、より速度を出して振り切ることだった。力いっぱいに回るエンジンの音が、アクセルペダルをべた踏みしていることを知らせてくれる。


 急激に加速した車に、車内で立っていた後部座席の男たちはよろめく。同じようにフロントガラス越しに見えるそれは、ゴトンゴトンと音を鳴らして後ろへと移動していく。


「何だ? 何だったんだ?」


 小男は運転手に訊ねた。正体を見た彼が取り乱して速度を上げたのだ。気にならないわけがなかった。


「分かんねえ! 分かんねえけど多分ヤベえ!」


 運転手が狂ったように焦る姿に、ことの重大さを悟る後ろの二人。何が起きているのか、全くわけの分からない女は、何とか身体を動かしなるべく露出を減らそうと身を縮めていた。


 運転手はバックミラーを見るが、あれが落ちた様子がない。おそらくまだ、天井にへばりついているのだろう。

 その執念に恐れを抱いた運転手は、後続車や対向車がいないことを確認して、車を大きく左右に振った。

 車が横転せんばかりに揺れるが、横転することもなければ、上にいるであろうあれが落ちてくることもない。ただ後部座席にいる三人——特に身を構えていない男二人——が左右に打ち付けられるだけだった。


「おいおい、落ち着けって」

「んあ、んあいおうふはー?」

「分かってんだよ!」


 後ろの二人から心配する声が上がるも、間近で見た運転手の脳裏には、あれが焼き付いて離れない。もはや彼の持ち味である冷静さを完全に欠いていた。パンツを食べながら喋る大男に、何一つとして言葉を掛けないのが良い証拠だ。


 目的地までまだ距離はある。どうにかして振り下ろさなければ——彼の考えに、止まる選択肢は未だ過らなかった。しかし、彼を責められる者など何処にもいない。あれの正体——その可能性——を知っていれば、動きを止めた瞬間、自分がどうなるかくらいは容易に想像が出来る。


 車は既に時速百キロメートルを超えていた。深夜で車通りがなく走りやすい道路だったからこそ出来たのであって、いつまでもこの好環境が続くわけはない。実際運転手の頭の中にある地図では、後数キロ進めば急カーブが現れる。いつかはスピードを落とさねばならないし、最終的には商品を降ろすために止まらなければならない——流石に焦っている運転手も、この状況で目的地に降ろそうなどとは考えてはいないが。


 しかしそう逡巡している内に、運転手は次の一手をひらめいた。

 アクセルに構えてあった右足をブレーキペダルへ移動し、渾身の力で踏み込む。車は甲高い悲鳴を上げてその速度を殺した。


 慣性の法則に従い、車内の人物——覚悟とシートベルトをしていた運転手以外——は吹き飛ばされるように前部座席のシートへ激突する。


 女は柔らかくも弾力のある脂肪をクッションとしたおかげで、一切の怪我を負わずに済んだが、当の大男は腹を押さえ苦しそうにしている。小男は圧力に抗いながらも、さりとて苦しそうではなく、急停車せざるを得ないと運転手が判断した状況に、いよいよ危険なのだと思い知り、彼本来の表情——小心者らしい怯えた表情——へと変化していた。


 そして車の前方には何やら白い物体が転げ落ちているのが見える。先程まで男たちの車の上へ乗っていた何かだ。


 運転手はやっと離れたことへの安心感と達成感の余韻に浸っており、すぐさま発進させることはなかった——それが過ちだった。


 勢いよく吹っ飛ばされたあれは、死んでいなくとも少しの間は動くことも無いだろうと高を括っていたが、誰がどの角度から見ても分かるくらいにはっきりと、ゆっくりと立ち上がった。そして、脚や肩、手についているであろう砂埃をことも無げに振り払うと、車を見据えて歩き出す。


 運転手は人生で最大の恐怖に苛まれながらも、確固たる意識の下——やるしかない、そう決心した。


 再び限界まで踏まれたアクセルペダルに呼応して、エンジンがけたたましく稼働する。異様な加速度で速くなる車を前に、それは右手を差し出した。


 ——まるで車の衝突試験のようだ。

 運転手はエアバッグが徐々に近づいているのを感じながら、そんな風に思った。


 ——もう何なんだよ! どっかに行ってくれ!

 小男は前方で微動だにしない謎の人物を見止めて、懇願にも似た思いを抱いた。


 ——腹が痛い、気持ち悪い……。

 大男はパンツを噛み千切らんばかりに食いしばり、みたび女に蹴り飛ばされた。


 車は激しい音を立てて凹み、駆動音らしき音は鳴り止んでいた。代わりに、何処かの金属のパーツが落ちる音がする。車は完全に大破していた。


 中にいる人物たちが怪我はあれど命に別状がなかったのは、車とあれとの距離がさほど離れていなかったからだ。いくら凄まじい加速度とはいえ、実際の速度は時速五十キロメートル程。

 それに、ぶつかった相手は固定されたものではない。白い存在は車と衝突した位置から少し後退していた。微動だにしていないように見えたのは、上半身が一切動いていないからだろう。

 つまり、相手が後ろに下がった分、衝撃が多少和らいだのだ。それでも運転手は額から血を流しているし、小男は左肩を押さえているし、大男は腹部を押さえて蹲っている——これに関しては、事故云々と直接的な因果関係はなさそうだが。そんな実状を鑑みると、間違いなく大事故だ。


 白き人物は助手席側から後部座席のドアへと周り、ドアを開けようとする——が、鍵が掛かっているらしく開かない。


 それに焦った様子はない——否、焦った様子など分かるはずもない。人は人の感情を読み取るのに相手の表情を見る必要がある——無論、身振り手振りに感情が表れる人もいるが、初対面の人間の行動心理など分かるはずもない——しかし、この謎の白い人物は表情が読み取れなかった。

 何も突き詰めて無表情というわけではない。マスクをしていたのだ。マスクと言っても風邪をひいた時や予防のためにするマスクとは趣が違う。仮面という意味合いともまた違っていた——ただし、その役割を鑑みれば、仮面と同じと言っても差し支えはないのかもしれない。


 頭まですっぽりと覆い隠すそれは、フルフェイスタイプの覆面マスクのようだ。そしてそれに合わせるように、身体も首から足先まで真っ白なコスチュームに身を包んでいる。

 純白なそれは、弱きを助け悪しきを砕く、清廉潔白、勧善懲悪を体現しているかのように思える。

 人々は、彼——彼女かもしれない——を見て口を揃えてこう言うだろう。


「ヒーロー……!?」


 滲み出る疑問が含まれていたのは、その言葉を発した人物が小男だったからだ。

 小男は自身から無意識に洩れた言葉に気が付き、そして恐らく命の危険にさらされていると思い至った。


「——じゃない!?」


 そこからの行動は目まぐるしいものだった。すぐさま身を翻し、純白な人物のいるドアとは反対のドアへと這いつくばって向かう。縛られた女性を横目に、未だ倒れ伏せている大男を乗り越えて、ドアに手を掛ける。こちら側から女を連れ込んでいたため、鍵は掛かっていなかった。勢いよく開け放ち、その勢いのまま這う這うの体で転がり出て、ドアを力強く閉めると、脱兎の如く逃げ出した。元来臆病である彼らしい行動だ。


 それと同時に、純白は右腕を引き絞る。まるで銛——しかも、手銛ではなく捕鯨砲をイメージさせる。

 引き絞ったならば解き放つのが道理だ。


 放たれる先は車のドア。通常であれば車を殴る蹴るなどしても多少の凹みを与え、多大な痛みを与えられるに留まるが、遅くはない速度で走る車を、片手で止めることの出来る存在にとって、車などスポンジと何も変わりはなかった。


 目にもとまらぬ速さで繰り出された突きは、車をいとも容易く突き破った。そしてそいつは、その右手でドアを掴むと、さほど力を入れている風でもなく、轟音を立てながら車とドアとを引き剥がす。


 普段聞くことのない異音によって気が付いた運転手は、すぐさま前方を見て、奴がいないことを確認した後、音が鳴った方向——左後ろ——を確認する。そこには目に突き刺さる程の純白が屹立していた。


 白無垢を思わせる汚れの無い白だが、その姿は戦闘に特化したような動きやすいボディスーツだ。表情を読み取らせないように顔を覆い隠しているマスクも、どこまでも白かった。

 その人物の衣装は単純な造りをしている。唯一の特徴と言ったら、その顔に他ならない。目の位置がある高さは、その先を保護するように硬質な物質で出来ている。そしてそれは縦に三本、その三本を中央で両断する形で横に一本、細く隙間が空いており、そこからは仄かで淡い紫色の光が漏れ出ている。更にそこに浮かぶ、一つの真っ赤な丸い目がぎょろぎょろと存在を主張していた。所謂モノアイと言われるその赤い光は、どんな悪事も見逃さないのだろう、とそんな考えを起こさせる程に、冥々としている。


 それ以外はこれと言った特徴の無いシンプルな格好だ。身体にしたって、ところどころ強さを顕示するように鋭利になっている部分もあるが、やはり特徴というものはこれと言ってなかった。


 だからこそ恐ろしかった。


 数々のヒーローや怪人を知っている運転手であっても、これがどちらなのか判別つかなかったからだ。

 だが今の運転手は十中八九怪人なのだろうと確信を得ている。だとするならば、運転席に縛られたまま居座り続けるのは愚行極まるだろう。


 運転手は白き化け物が巨漢を軽々と持ち上げている最中に、大慌てで逃げ出した。先を見ると、小男が無様な走り方で逃げ出している。


 ——バラバラに逃げるか?


 だが、その考えはすぐ破棄した——こんな犯罪を思いつく卑しい犯罪者らしい、最低な考えの基で。


 純白は大男を両手で持ち上げると、車の外に放り出した。そして遅まきながらやっと自分の命が危ないのだと気が付いた大男は、腹部の痛みに堪えて急いで立ち上がり、背中を見せて逃げ出す。

 だが、束の間の努力も虚しく、首根っこを掴まれた大男は身体を反転させられる。

 眼前に迫るのは、ありとあらゆる悪事を見逃さんと見開かれた赤く光る一つだけの目玉だ。

 純白の人物は、大男の顎に素早く拳を入れる。だらしのない残心は、その一撃がとことん手加減されているものと思わせた。大男はその一撃により失神して、両手両足投げ出して倒れる。


 踵を返し車に向かう純白は、芋虫のように車から這い出ようとしている女性へと近づいていく。

 女性からはちらりと巨漢の男が倒れているのが見える。自分もああなるのだろうか、と違う種類の恐怖が彼女を襲い、わなわなと身を震わせて叫び声をあげる。当然その声は強固なガムテープによって遮られる。


 狼狽えることも勇むこともなく一定の歩幅で近づいたそいつは、ゆっくりと彼女の頬に手を伸ばすと、その口を塞いでいるガムテープを一思いに剥がした。


「——ッ! ……え?」


 何故猿ぐつわ代わりのテープを剥がしたのか分からず疑問を蓄えていると、続けて腕に巻かれたテープを強靭な拳に付いている強靭な爪で切り裂いた。小男が持っていたポケットナイフより鋭利だろうと思わせる切れ味だ。


 急いで胸部を隠す彼女に、そいつは当然のように足部に巻き疲れているテープも切り裂いた。


「えっと、あの……ありがとう、ございます?」


 敵か味方かは分からなかったが、助けてくれているみたいだし取り敢えず敵ではないだろう、そう思った彼女は、ひとまずお礼を言ってみた。果たしてそれが通じるのかなど、考えてはいない。


 しかし、彼女の思いは通じたようだった。

 純白の人物は、大きくそしてわざとらしく頷いてみせる。そして——


「ちょっと待ってな」


 その慈愛に満ちた声色は女声だった。声変わりのしていない男性や声の高い男性ということもあり得るが、彼女はそう確信した。

 白き女性が走り去って行ったかと思うとすでに彼女の視界から消えていた。


 彼女は自身を抱きながら思う。

 ——彼女こそ、本当のヒーローなんだ、と。


 息も絶え絶えに逃げていた男たちは、壁に背を預けて息を整えていた。

 そこは小さな路地裏。奥には一時的に置いておくゴミ置き場とエアコンの室外機が並んでいる。


 誰も入ってこないような辺鄙な場所だ、ひとまず安全だろう。二人は肩をそろえてそう感じた。ただ一つ懸念があるとするならば、ここが袋小路であることだ。もし仮に、あいつが現れたら、逃げ出すのは至難の業だ。

 まさかここが見つけられるわけがない、そう思いながらも嫌な予感が拭えない運転手は、信じてもいない神に縋るように願った。


 すると、上から何かが降ってきた。項垂れている小男は気付いていない。

 それは運転手の祈りによって遣わされた神の使者、天使だろうか——否、同じ白でも全く違う。天使がいたとしても、あそこまで邪悪な無垢色はしていないだろう。


 運転手は諦観を抱きつつあった。そこにいる純白からは、どう足掻いても逃げ出すことは出来ないのだ。死刑囚のように黙って首を差し出すしかないのだ。


 運転手の息を呑む様子を感じ取った小男は、何ごとかと前方を見る。


「うわぁ! 何なんだよっ!?」


 躍動とすらとれる動きで身体を震わす小男は、自分でも驚くくらいの大声で相手へと威嚇する。


「かくれんぼも私の勝ちか?」


 ——女だったのか。


 今更どうでも良いことを、現実逃避のためか考えた。それと同時に、二人は絶望を感じ取った。話しが出来るということはコミュニケーションを図れるということであり、むしろ希望を感じてもおかしくない場面だったが、実害を受けている彼らはそうは思わない。コミュニケーションを取れる存在だというのに、あれ程の所業をにべもなくこなす様相に、恐怖をしていたのだ。


 追いついた雨が、ようやくしとしとと降り出す。


「——っ! うぁああああ‼️」


 零れだした雨粒のように、止めどない感情が溢れ出た。とうに我慢の限界だった。小男は眼前の戦慄そのものに耐えうるだけの精神力を持ち合わせていなかったのだ。雄叫びを上げながら、ナイフを構えて突進する。


 車すら造作もなく止めるのだ。たかが男一人、そよ風にも値しない。

 運転手は嘲りを向けたが、しかしこれは良い案なのかも知れないとも思っていた。

 あの化け物が奴に構っている間に何とか横をすり抜けられないだろうか、と考え始めていたのだ。先程まで一緒に仕事をしていた仲間を、逡巡する間もなく囮にしようとしている。けれども、そのために小男についてきた運転手にとって、気に病むような問題ではなかった。


 小男のナイフを握りしめた腕が片手で難なく捕縛される。相手は余った左手で小男の首を掴んでいる。


 ——今だ! 運転手は脇に置いてあったゴミ袋を握りしめ駆け出した。男はゴミ袋を引き千切りながら力任せに投げ飛ばす。中身が散乱し異臭を放つ生ゴミなどが二人目掛け飛散した。


 首根っこを鷲掴み持ち上げている小男を、素早く盾として構える純白。水気を含んだ生々しい音を立てながらゴミが小男の背中へとぶち当たる。


 その小男の背中の陰に、運転手は潜り込んだ。そして身を屈めたまま一思いに走り抜ける。死角を突いた脱出劇に、我ながら見事だと胸中で感涙しながら、全力疾走で路地を駆ける運転手。


 だが、突然左肩に激しい痛みが走った。それが純白の怪物の手だと気付くには、その痛みが邪魔だ。

 上半身は左肩を始めとして、まるで空間に結わいつけられたかのように全く動かない。しかし、走っていた下半身は急には止まれない。両足を投げ出すように前方へ振り上げ、男は地に尻をつける。


「鬼ごっこはもう飽きた」


 純白の彼女はうんざりしたような口調で男に告げる。

 左肩を押さえ、尻を引きずりながら後退する男は彼女を見る。


 血も汚れも先程の生ゴミも何も付いていない、澄み切った白がそこにはあった。

 奥を見ると、小男が芸術的体勢で転がっているのが見える。何をされてそのポージングを取っているのか、想像することは難しかった。


「お、お前、何なんだよ……!」


 運転手は問うた。それは恐怖からだ。

 未知というものは恐ろしい。知らないが故に痛い目を見たり最悪死ぬ場合だってある。人はそれを本能的に拒んでいる。つまり、その問い掛けは、運転手の生存本能から生まれたものだった。


「うーん、悪を断罪する執行人かな?」

 彼女は本気なのか冗談なのか分からない風に言った。


「悪……? お前は怪人じゃないのか?」

「それこそあり得ない。ぶち殺されたいのか、お前」


 今しがたの台詞とは打って変わって、その言葉には溢れんばかりの敵愾心が籠っていた。きっとそれは本心なのだろう、と男は思った。


「……ってことは、ヒーローだってのか? ……おいおい、ヒーローだって?! あっはっはっは! おいおいおいおいヒーロー様よ! 何一般人を襲ってくれっちゃってんだよ! あん?」


 男は勝機見たりと、一転攻勢の強気で彼女を言い詰った。

 勢いを増し続けるこの雨のように、男の口調は激しいものへと様変わりしていた。


「ヒーローは一般人の事件に不介入じゃなきゃいけないはずだろう!? 何どっぷり関わっちゃってくれてんだよ!」


 男は立ち上がり、不敵な笑みを浮かべる。左肩の痛みなどこの際どうでも良かった。

 この女のやったことは犯罪の中でも重罪に位置するものだ。然るべき機関に通報すれば、女のヒーロー資格は剥奪——どころか怪人として討伐対象となるだろう。


 男は絶対的な勝利を確信して、ポケットから携帯電話を取り出した。この世界に住んでいる人間であれば誰でも——特に男性ならば尚更——知っている番号を入力していく。

 しかし、純白の女は無造作に男の手から電話をもぎ取り、スナック菓子を思わせる軽さで握り潰した。


「……え?」


 その行為の意味が分からなかった男は茫然自失としてしまった。この女の弱点を突けば、勝利出来ると確信していたのだから。だが、そいつは臆するどころか、むしろより邁進するように悪事を働いたのだ。一体この大馬鹿者は何をしたいのだろう。


 その行動の意味を一瞬の内に理解した男は、再び戦慄する。


 通報されるのは通報する者がいるからだ。通報する人間、目撃した人間がいなければ、その現実は闇へと消える。


 やはり、この女は殺す気だ、ヒーローなんて嘘八百だ。この女、間違いなく——


「……ヒーローなんかじゃねえ! やっぱり怪人じゃねえか!」


 男はがなる。一瞬でも希望を持たせたことにやるせない怒りを感じて。


「さっきから、ヒーローだとか怪人だとか、うるっせーな!」


 そんな些事にかまけてないで、自分の罪でも償ったらどうだ、そんなことを言いたげな怒声を浴びて、男は少し下着を濡らした。とは言え、男にとってはどちらなのかが重要なことだった。一方であれば女の罪を逆に断罪出来る——その手立ては軽々しく粉砕して地に落ちたが——もう一方であれば、間違いなく死ぬ。


「な、何なんだよお前! か、怪人なんだろ?」

「違うっつーの」

「はあ? じゃあやっぱりヒーローなのかよ!」

「ヒーローか——いや、あんたが想ってるようなヒーローじゃない」

「……? だ、だからお前は何なんだよ!」


 要領を得ない女の回答に、男は恐怖より怒りを色濃くしていった。


「さあね? お前が知らないのに私が知るわけないじゃん」


「……は?」


 普通逆だろう。そんな突っ込みをしようかと喉元まで出かかったが、続けて女が喋り出したことで、男は口を噤んだ。


「でも、お前がヒーローだと信じて疑わないあいつらは、こう呼んでるな」


 彼女は左手で男の襟を優しく掴むと、右手を固く握りしめる。

 雨が痛いくらいに降っている。雑音が煩わしくてたまらない。

 だが、不思議と彼女の声は、激しい雨音にかき消されることなく、澄み切った音として男の耳に届いた。


どちらでもないナイザー、と」


 男が殴り飛ばされ意識が途絶える寸前、衝撃と共に眩く光る霹靂が、一日の終わりを告げた。

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