永遠を彷徨うコンドルの噺-2-

 その言葉に続き、まるで示し合わせたかのように、その場の全員がわらいだす。「確かに」「そうだ」「その通り」迎合する彼らの口元から香る、アルコールの臭いが鼻につく。それを見るや、ヨセフの父親は酔いのためか、あるいは羞恥のためか、顔を真っ赤にしてヨセフの胸ぐらに手をかけた。

 そうされてすら、ヨセフ自身は眉一つも動かさない。こんなことで心を揺らしてなるものかと、自尊心が彼の全てを支配している。父親に半ば引っ立てられるようにして部屋を出、乱暴にタイを解かれたヨセフは、それでも何の不平も漏らさず、されるがままでそこにいた。

恥晒はじさらしめ」

 そう言い捨てる彼の父は、常日頃から、自分自身がヨセフに本国人らしく着飾るよう命じていることなど、すっかり忘れているのだろう。忘れている、あるいはこの一時いっとき、なかったことにしているのだ。一介の船乗りから、それなりに豊かなクェスピ領の管理官へと成り上がったこの男は、己の過ちをけっして認めようとはしない。

「さっさと失せろ。今晩はもう、客人の前に顔を出すな」

 言われずとも、と心の中で言いおいて、「そうします」と口にした。しかし再び大部屋へと戻ろうとする父親の肩へ、咄嗟に手を置き、引き止める。

「毎週のことですが、念の為……。明日は授業の後、少し帰りが遅くなります。その、聖歌隊の練習に、参加するので、──」

 強い口調で念押しすれば、赤ら顔の父親は、「わかっている。耳にタコができそうだ」とうざったそうに言い捨てる。のしのしと歩いてゆくその背中を、ヨセフは黙って見送った。

 耳にタコができるほど、覚えているならそれでいい。この父親はヨセフのことを持て余しながら、一方でヨセフを──、ヨセフのその美しい容姿を、我がものとして溺愛している。それで、ヨセフの帰宅が遅れたりすると、癇癪かんしゃくを起こして周囲に当たり散らすのだ。癇癪の矛先は大抵の場合、ろくに言語も通じぬヨセフの母に向けられるのだから、それだけは、なんとしてでも避けなくてはならなかった。

「ヨセフ、……」

 背後で名を呼ぶその声に、はっとなって振り返る。心配そうな表情で、こちらを見るのは数名の女達であった。ヨセフと同じ褐色の肌に、黒い髪、黒い瞳。タワンティン・スウユの地に古くから住むインティ人そのものの風貌をした女達は、身を寄せ合って、廊下の端、使用人達の用いる裏口近くから、ヨセフのことを見つめている。ヨセフは即座にそちらへ歩み寄ると、その中心に立つ女、ヨセフを生んだ母の肩を掴み、彼女らを裏口まで押しやった。

「こんなところで何をしているんです。本邸にいるのを父さんに見られたら、ただじゃすみませんよ」

 相手に伝わるよう、インティの言葉で話しかける。母は、老いても尚美しいその眉間に皺を寄せ、「ごめんなさい」と目を伏した。

「軍人が来ていると聞いて、お前のことが心配になって」

「俺のことなんて、心配してもらう必要はありません。客が来ているのを知っていたなら尚のこと、本邸に近寄るべきでないことは、考えればわかるでしょう。あの醜男はいつだって、母さんを他の男に奪われやしないかと、そのことにばかり気を張り詰めているんだから……。もし母さんの姿を客人達に見られでもしたら、それだけで、あの男は気が触れたかの如く騒ぎ立てますよ」

「そうかもしれない。だけど、だけどね、……その、ヨセフ、」

「──母さんまで俺のこと、あいつらの洗礼名で呼ばないで!」

 思わず声を荒げてしまってから、はっとなって息を呑む。裏口の戸へはめ込まれた窓硝子に、己の顔が写り込んでいることに気づいたのだ。そこに一人の男の姿があった。行き場のない怒りを他者にぶつける、父によく似た男の姿が。

 傍に控えていた女達が、ヨセフから母を庇うかのように立ち塞がる。それでも母はヨセフに手を差し伸べて、その輪郭をなぞるように、──きっちりとボタンを止めたシャツの上から、ヨセフの胸を強く撫ぜる。

「何故、

 絞り出すようにとうその声が、苦悶の色に満ちていた。ヨセフはそれに答えない。己自信、どうしてそれを手放せないままでいるのか、うまく説明できないのだ。母を納得させられるような答えなど、用意できるはずもない。

 ヨセフのシャツの内側には、──今も昔も、首飾りがかけられている。

 古来よりインティの民を見守ってきた、太陽神を象った首飾りが。

「……、今日はもう、おやすみなさい。明日も、朝早いのでしょう」

 目は合わせぬまま、母が言った。

「だけどどうか、その首飾りだけは外して頂戴。白き人々にそれを見られては、お前も、私も、身が危ういのよ。私がどんな思いで、それを捨てたと思っているの。何故お前は、それを取り戻してしまったの──。太陽の神は、もう私達を守ってはくれないわ。母さんはね、お前がの人々の子に混じって、神学校に通えることになって、本当に安心しているのよ」

 旧大陸。征服者達が言う、彼らの故郷の大陸のことだ。遥か東方にあるというその大陸から船を漕ぎ出で、この火の大陸を『発見』した彼らは、故郷のある大陸を旧大陸、新しく見つけた大陸を新大陸と呼称した。ヨセフやこの母のように、火の大陸で生まれ火の大陸しか知らぬ人間が、旧大陸・新大陸とそれぞれを呼ぶのは奇妙な話であったが、しかしそれ以外に適切な呼び名が浸透していないのだから、仕方あるまい。

「お前は私の息子だけれど、同時に、白き人々の血を引く子でもある。どちらの言葉も理解できる。……お前は賢い選択をなさい。どちらの神を選ぶのか、どう生きてゆくべきなのか」

 ヨセフはぎゅっと拳を握りしめると、いくらか後ずさり、「ええ」と低く頷いた。

「わかっています。父さんの後を継ぎ征服者の子として、インティの人々を支配する立場にいろというんでしょう」

 途切れ途切れにそう言えば、母は静かに頷いた。そしてもう一度、「ごめんなさい」と呟きながら、手を延べて、ヨセフの頬をそっと撫ぜる。

「おやすみなさい。どうかいい夢を見てね、──私の可愛い

 母はあくまでも、彼のことをヨセフと呼んだ。

 彼が幼い頃は、けっしてこうではなかった。ヨセフが母と二人きりになると、彼女は父の目を盗んでインティの歌を歌い、彼にインティの言葉を教え、彼女がつけたインティの名で、息子を呼びさえしたものを。

(母さんは、インティを見限ったんだ。白き人々とインティの間には、あまりにも力の差がありすぎる。弱い立場のインティは、白き人々に支配されて生きてゆくより他にない。そう諦めたからこそ、……俺にインティの名を捨てさせようとする)

 母は優しかった。優しく、そして強かであった。

 自らはインティの民の生まれでありながら、征服者の血を引くヨセフには、あくまでも、征服者たらんことを望んだのだ。

(けど俺は、……俺は征服者にも、インティにも、きっとなれることはない)

 宴の音が響いている。この酔狂な乱痴気騒ぎは、また明け方まで続くのだろう。

 ヨセフは溜息を付き、一人とぼとぼと、己の寝室へと戻るのであった。

 

 その夜、ヨセフは懐かしい夢を見た。

 ヨセフの母がインティの歌を歌い、彼をインティの名前で呼び、笑いかけてくれた頃の夢である。

「──お前は私に残された、宝物のその片割れ。お前は気高く飛翔する、コンドルの最後の子。太陽の神に愛された、コンドルの最後の子」

 彼女はヨセフの頬を撫で、よくこう言って微笑んだ。そうして彼女は己の胸元に隠した首飾りを見せ、ヨセフに触れさせると、優しい声音でこう言ったのだ。

「これは母さんの宝物。今は遠くに行ってしまった、古い神様の忘れ形見……。だけどいつか、インティがその翼を取り戻した暁には、──お前はこれを携えて、人々の前に立ちなさい。今となっては私の兄も、その子供達ももういない。インティを導く太陽の血族は、もう、お前以外にいないのだから」

 幼いヨセフには、その言葉の意味を理解することができなかった。ヨセフがそれを問うたところで、母も、母の世話をするインティの人々も、誰も、口を開こうとはしなかった。己の身を護るために、希望を守り抜くために沈黙を貫きながら、彼らはじっと耐えていたのだ。征服民に抑圧され、軽んじられる暮らしから、いつか解放される日が来るはずだと。その日の為の切り札を隠し持ち、宝物だとそう告げて。

──太陽の神に愛された、コンドルの最後の子。

 しかし歳月をるにつれ、そのうち彼らは段々と、過去の暮らしを顧みることを辞め始めた。以前とは違うかたくなな表情で口を閉ざすインティの人々は、もはや未来への希望を持たず、彼らが宝物を告げたを、太陽の神への最後の供物として捧げようとした。

 とぷんと静かな水音が、今もヨセフの耳の内側に残っている。その時何が起きたのか、ヨセフの母は恐らく知らない。彼女はただ、己の大切にしていた首飾りを、山間の泉へ投げ捨てただけなのだ。

 それを何故、どのようにしてヨセフが持ち帰ったのか、彼女には不思議でならないのだろう。けれどヨセフはその理由を、彼女に告げることはしない。

 それを告げてしまえば、全て知られてしまうからだ。

 ヨセフがもはや、母の言葉が隠したものを、その首飾りが意味するところを、知ってしまっているのだと。ヨセフが自らの境遇を、誰からも告げられず、誰にも問いただせぬまま、孤独に理解したことを。

 その日、その時、その場所で、一体何が起きたのかを。

 ふとヨセフの耳元で、透明な水面に波紋が浮かぶ。続いて訪れたのは、繰り返し見る、あの夢だ。

──我が友人との縁もある。お前がそれを望むなら、の世界を見せてあげよう。

 男はヨセフにそう告げた。

──なあに、気にすることはない。ほんの少しところで、

 

 悠久の時の流れの中では、瑣末な違いなのだから。

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