アカシア年代記
里見透
鬼の棲まう窟の噺
都を出、ある探しものの為に旅を続ける王燕仙は、道中、一つの噂を耳にする。「鵺岩窟には鬼が出る」はたしてその真偽とは?
鬼の棲まう窟の噺-1-
鵺岩窟には鬼が棲む。そんな言葉が、そこかしこから聞こえるようになっていた。
「鬼が棲むとは面白い。して、その鬼には角でもあるのか。それとも牙? なんにせよ、鵺岩窟に鬼とは奇異なことだ。あの辺りは修験者のたむろする、霊験あらたかな場と聞いたが」
「あの辺りには、修験者様もたんとおります。霊験あらたかな場には違いねえ」
「しかしお役人様、西から荷を積んで鵺岩窟を越えてきた商人達は、みんな口を揃えて、あそこには鬼が棲むと、そう言って震えるんでさあ」
お役人様。恐らく、明らかに農夫のそれとは違う燕仙の身なりを見て、そう言ったのであろう。それなりの観察眼だが、正しくはない。いや、今は正しくないと言うべきか。続く言葉を促せば、彼らはまた雁首揃えて、燕仙にこう訴えた。
「あの辺りの砂地には、自然にできた石窟が多くあるんですわ。その中に、目を覆うほど沢山の鬼の姿を見たとかって」
「角のあるのも、牙のあるのも、そりゃあ大勢おるそうです。最近じゃ、その噂のせいで、行商人の足も遠のく次第で」
「北神山路を避けて、最近じゃ
ある者が恐怖に首を竦める一方で、またある者は訳知り顔で溜息を吐く。困り果てた様子の人々を見て、しかし燕仙は扇の内にすっぽりと己の顔を隠すと、にやりと深く笑みを浮かべた。
「──なるほど。鵺岩窟には、鬼が棲む」
鵺岩窟にて鬼退治。そんな話を聞かせたら、一体彼は、どんな顔をしてみせるだろう。
鵺岩窟。
燕仙が噂に聞いた限りでは、宮殿のような広さのものから、小部屋のような広さのものまであるそれらの石窟には、そこでの修行を求める修験者達が暮らしている。だが彼らは、ただ石窟を家代わりにしてそこに暮らしているというわけではないらしい。過酷な岩肌に寝起きをし、岩を削り、窟を掘り進めるこの修験者達は、手ずから拡げたその窟の内に、
窟の岩壁には極彩色の絵の具で壁画が書き付けられ、内には
絵画に彫像、そして何より妄信的な神への献身。およそ燕仙の興味からはほど遠い、それらについての詳細な説明を聞き流し、ある時は人を雇って
噂に聞く景観を目にしたことによる、感嘆の溜息などではない。そもそも鵺岩に着いたというのに、燕仙はいまだ噂の窟を視界の端にすらおさめていないのだ。
「ええ、と、王燕仙様、王燕仙様でございますね。
「髭のことなどどうでもいい。それで、私の滞在補助書は見つかったのか」
「いや、その、もう少々お待ち下さい。なにぶん田舎なものですから、こうして都のお役人がいらっしゃることなど滅多になく、」
「役人としてきたのではない。先にも伝えたとおり、個人的な用があってきたのだ。ああ、まさか公的書類を漁っていたのではあるまいな。そっちの箱はどうだ。おい、そこのお前はなぜ手伝いもせずに座っている」
苛立ちを隠せずそう言えば、ボロ小屋のような役所の中、ぎしぎしと鳴る椅子に腰掛けた別の官吏は、「自分は担当外ですから」と悪びれもせずそう返す。
鵺岩の町に滞在するため、事前に申請を通しておいた滞在補助書を受け取りに訪れた、町外れの役所の内。官吏に用件を告げたのは、もう半刻は前のことであっただろうか。待てども待てども姿を見せない許可書を視線で求めながら、燕仙は再び深い溜息を吐き出した。
管理の仕方が雑すぎる。窓口からひょいと覗き込んだ室内は雑然としており、これでは多少の書類を紛失したとて、気づきようがないだろう。都の役所の働きを知る燕仙からすれば、彼らがこのような無様な仕事で
鵺岩の町の土を踏むまでに、まだどれ程の時間を要するかもわからない。致し方ない、少し休んででもいよう、──。しかし燕仙が近くの椅子に手を掛け、腰を下ろした、その瞬間。
「あっ!」と、非難めいたその声が、燕仙の耳を貫いた。続いて聞こえてきたのは、まだ大人にはなりきらない、やや掠れた声である。
「おい、お前! 一体どこに座ってる、今すぐにそこをどけ!」
燕仙がふと振り返れば、中庭に面した廊下の向こうから、ずんずんとこちらへ駆けてくる人物がある。少年だ。擦り切れ、色の褪せた衣を纏った、少年の姿がそこにあった。
年の頃は、十二、三といったところであろうか。あまり裕福とは見えず、ざんばらの髪を適当に掻き合わせてひとつに結わき、
少年の目の下に、随分と深い隈がある。都で忙しく働く官吏たちならばまだしも、まだ幼い子供の目許に何故、──。だがそんなことを考えながら腰を浮かし、ふと耳にしたその音に、燕仙は眉間に皺を寄せた。それから「うわ」と、声を上げる。
尻と椅子の合間に、真っ黒に濡れた布があった。
いや、どうやらそうではない。見れば汚れた布の他に、椅子の上には真っ黒な塗料の入った瓶が倒れている。──どうやらその塗料の瓶を、燕仙が尻で押し倒してしまったようなのだ。
真っ黒に染まった己の衣服を持ち上げて、つい情けない声を上げる。墨であろう。旅の荷物は最低限しか持参していないのだから、あとで洗濯をしなくては、──。そう考えた燕仙が溜息をつく一方、駆け寄ってきた少年は機敏に墨瓶を持ち上げると、ぎっと顎をあげ、──怒りに満ちた表情で、燕仙の事を睨め付けた。
「おい、一体どうしてくれるんだ! 人の画材を不意にしやがって」
画材。この墨のことであろうか。詳しいことは判ぜぬが、こうして一方的に怒鳴りつけられると、燕仙もつい、かちんときた。ろくに確認もせずに腰掛けた燕仙に非がないわけではないが、椅子に一瞬腰掛けただけだ。ただ黙って言われっぱなしでいてやる筋合いはないだろう。
「画材だあ? 苦情を言いたいのは私の方だ。見ろ、この服を。台無しじゃないか!」
「そんなこと知るか! 俺は! この椅子で! 毎日! 敷布を乾かしてんだよ! そこへ勝手に座りやがって!」
「この椅子が、一体どこに置いてあるか知ってるか? 役所の! 滞在補助受付の! 前だぞ! そこへ、滞在補助待ちの私が腰掛けて何が悪い。役所の椅子を私物化しおって、公共物横領でお縄に付けてやろうか!」
売り言葉に買い言葉、燕仙が堂々たる態度でそう返せば、少年は口をつぐみ、悔しげに押し黙る。勝った。相手が己より随分と幼い少年であろうが、燕仙は少しも容赦しない。燕仙が勝ち誇った笑みを浮かべるその横で、口論など気にも留めずに書類を探し続けていた官吏は、「あった!」と無邪気な声を上げる。
「王燕仙様! 王燕仙様! 王燕仙様でよろしかったですよね!」
「何度も呼ぶな、それであっている」
「ありました、ありました。何の手違いか、燕仙様の滞在補助書が廃棄の箱の方に紛れてしまっておりまして、……あれ、でも」
訝しげな官吏の声に、慌ててそれを振り返る。散々無駄な時間を取られた挙げ句、余計なことに気づかれてはたまらない。しかし燕仙が口を挟むその前に、官吏は掲げた票を燕仙に向け、燕仙の名に塗られた黒い墨を指さして、頓狂な声でこう言った。
「燕仙様のお名前に、死亡印がついております。どうやら滞在補助の許可が下りた後、お亡くなりになったという事になっているようですね」
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