第45話 その命、諦めることなかれ

 皆を見送った椿は、松本良順が残してくれた屋敷に戻った。そこはいつでも診療が始められるほど、何もかもが揃っていた。松本は『いい道具があったら椿に送ろう』とも言ってくれた。


「お帰りなさい」


 現れたのは、当面は家事を手伝ってもらおうと雇った女中のオトだ。椿が昼間は町民の診察をし、夜はほぼ徹夜で過ごすことが多かったからだ。


「オトさん。遅くなってごめんなさい」

「いえ。こちらは変わりなかったですよ。ではまた明日」

「ありがとうございました」


 一日の家事を終えるとオトは帰っていく。椿はオトを見送ると部屋に上がり奥の部屋に進んだ。

 その部屋はほど良く日が当たり、窓を開ければ風が通る場所にあった。障子を開けると、床の間に一輪挿しが飾られてある。


「梅の花?」


 オトが挿したのだろう。早咲きの梅の花がそこにあった。

 少しでも生きたものをこの部屋に、という気遣いかもしれない。この梅の花を見ると、たった今見送った土方の顔が浮かんだ。句集に季語として使うほど、その男が好きだった花だ。


「ふふ。なんだか、魔除けみたい」


 そして、椿はそっと腰を下ろした。

 布団が二組敷いてある。その一方に、目を閉じたままの山崎が横たわる。良順の治療で、腹に受けた銃弾三発は無事に摘出されたが、今も決して油断ならない状況が続いていたのだ。傷を受けた内臓が正常に戻ろうと、細菌と闘っている。そのため、意識も戻らず高熱が続いているのだ。

 椿は夜になると、隣に敷いた布団で体を休めながら看病をする。僅かな変化にも気づけるように。


「山崎さん、苦しいですよね。もう少しの辛抱です」


 良順は椿に、山崎の治療を横浜の病院でしたらどうだと言った。しかし、椿は三日も船に揺られる事を懸念して断った。山崎が横浜に着くまでもたない可能性だってある。それだけは避けたかった。


『良順先生、ありがとうございます。でも、山崎さんはここで私が看ます』

『そうか、分った。船旅は今の山崎くんには危険だな』


 その時に良順が、自分が使っていた屋敷を椿にそのまま譲ると言ったのだ。自分も恐らく大阪には戻らないだろうからと。口には出さないが、松本は旧幕府の典医を貫き通すつもりでいたのだろう。


「山崎さん、私は貴方に生きてもらいたいです。ごめんなさい。こんなに苦しめて、辛い思いをさせてしまって」


 椿はいつもこうして山崎に謝っていた。自分の勝手な思いが山崎を苦しめている。本当は楽にしてやった方がいいのではないか。そうもう一人の自分が囁く。

 山崎は熱に魘され口を少し開け、はぁはぁと熱い息を零していた。椿は濡らした手拭いで、汗を拭いながら涙をまた流す。

 その涙が時々山崎の頬にぽたりと落ちて、その度に我に返り己を叱咤した。


「ふっ、ん。泣かない、泣いちゃダメ」


 着物の袖で涙を拭うと、再び山崎の汗を拭った。


 その日も夜を呈して山崎の看病をしていた。こんな日が何日も続けば、椿の体も悲鳴をあげ始める。診察の時以外は、昼夜問わず山崎の側から離れようとしない。離れた間に何かあったらと考えると、眠ることすら出来なかったのだ。なのに今夜は体が言うことを聞いてくれない。閉じたくないのに勝手に瞼が落ちていく......。


――嫌、眠りたくないの。私が寝てしまったら、山崎さんが......


 ぎりぎりまで抗うも、意思ではどうにもならない。椿は山崎の手を握り締めたまま、こてんと横に倒れた。


 まだ一月、夜になればとても冷え込むというのに。





 深夜、寝静まった部屋に衣が擦れる音がする。

 そっと布の下から何かが伸びて、冷たくなった椿の手を上から覆うように重ねる者がいる。


 山崎だ。山崎がついに目を開けたのだ。


 それを誰よりも強く願っていたのは椿である。しかし、今その本人は力尽きて眠ってしまっている。


「椿さん。貴女は、また無理を」


 山崎は痛む体をおして、自分に掛けられた布団の端を椿に掛けた。椿は自分の布団に入る事すら忘れ、山崎の手を握ったまま横になっていたのだ。山崎はまだ震える指先を椿の頬に伸ばした。そこには涙の伝った跡が残っていたからだ。


「随分、泣かせてしまいましたね」




 ◇




 翌朝、椿は戸の隙間から入ってくる冷気に震え、目が覚めた。


「あ、私っ。え、お布団……あっ!」


 見ると山崎の布団を半分取ってしまっているではないか。椿は酷く焦った。山崎の体温を落とすわけにはいかない。勢い良く起き上がると、慌てて山崎に布団をかけ直した。すぐに脈もとり、額に手を当てる。


「熱が、下がってる」


 椿は囁き、今度は頬を山崎の鼻に近づけ呼吸を確かめた。一定の息遣いを確認すると、全身の力が抜けた。


「生きてる。山崎さんっ、生きてっ……る」

「俺は死にませんよ」

「えっ!」


 椿が驚いて顔を上げると、山崎が目を開けていた。

 夢かもしれない。自分はまだ眠っているのではないかと、何度も瞬きを繰り返した。そして頬をパンパンと叩く。それを山崎はじっと見ている。そしてほんの少し頬を緩めた。


「夢ではありませんよ」

「や、山崎さんっ、山崎さん!」


 椿は山崎の手を握り、自分の頬に当てその体温を確かめた。

 その手はとても温かった。確かに山崎だ、山崎が目を開け夢ではないと言葉を発した。


「本当だ。山崎さん、山崎さん」


 ぼろぼろと涙が溢れて止まない。本当はもう駄目かもしれないと何度も思った。これ以上は苦しめてはならない。医者として、彼の苦しみに終止符を打たなければと言い聞かせもした。


「椿さんのお陰です。ずっと傍に居てくれたのでしょう?」


 山崎が椿の手に自分の手を重ねると、椿はこくこくと頷き安堵で泣き崩れた。


 ––諦めなくてよかった。山崎さんの命を手放さなくて、よかった。



 その後、山崎は少しづつではあるが順調に回復していった。半月もすると、椿に背を支えられ起き上がって粥を食べられるまでになる。そして歩く練習を始めたのは二月が終わる頃だった。


「無理をしないでくださいね。銃弾が三発もお腹に入っていたので、内臓が元に戻るまで痛みます」

「大丈夫です。ほら背伸びも出来る」


 山崎の回復ぶりは目を見張る物があった。天気によっては傷口が痛むし、むず痒くもなる。しかし、山崎は弱音を吐くことなく、日常の生活が送れるよう鍛錬に励んだのだ。


「あ、すっかり忘れていました!」

「何をですか」


 椿は箪笥から一通の文を取りだし、山崎に渡した。


「これは」

「土方さんから預かったものです。山崎さんが目を覚ましたら渡してほしいと」



 山崎は黙ってその文を開いた。

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