第34話 偽でも逢瀬は逢瀬

 斎藤まで伊東に着いて行ったと、暫くは隊内は不穏な空気に包まれていた。永倉と原田からしたら仲の良かった幹部が二人も新選組を去ったのだ。表だって言及はしなかったが、落ち込んでいるのは手に取るほどであった。

 椿はというと、ときどき土方の使いで簡単な買い物や世話になっている商家の往診をしていた。今日もそれで町に出る。


「椿。いいかこれを渡すんだ。絶対に知られるんじゃねえぞ」

「分かっていますけど……」

「なんだ、不服そうだな」

「だって」


 実はここだけの話、斎藤は伊東一派の間者かんじゃとして隊を離れたのだ。斎藤に対する近藤や土方からの信頼は大きく、時に近藤の腹心とも言われるほどだった。今回の離隊は近藤が伊東の動きを探るために斎藤を潜らせたのだ。斎藤は寡黙な性格で余計な事は一切口にしない。戯言ざれごとさえも言わない上に、剣の腕も一流だ。伊東はそんな斎藤を最初から気に入っていたのだ。それが近藤の仕掛けた罠だとは微塵も疑いもせずに。


「だってもくそもあるか。伊東はお前と斎藤がデキてると思い込んでいるんだぞ。我慢しろ」

「そうですけど」

「山崎には話を通しているから大丈夫だ」

「......はい」


 土方は椿に斎藤との逢瀬を装わせ、近況報告を交わそうとしているのだ。山崎も時に坊主になり、ある時は物乞いになりながら斎藤と密に連絡を取っているのだが、彼もまた忙しい身である。こうして椿が代わりにその任務を担っているのだ。


 椿は自分の用事を済ませると、土方から頼まれた文を持ち斎藤との偽の逢瀬へと向かう。これはあくまでも演技なのだが、椿はとても緊張していた。任務なのにとても悪い事をしているような、後ろめたい気持ちになってしまう。自分には山崎と言う想い人がいるというのに、と。

 小さな寺の階段を昇りきると鳥居があり、その鳥居の向こうに斎藤の後姿が見えた。椿は小走りで地被いて斎藤に声を掛けた。ゆっくりと振り返る斎藤は、僅かに口角を上げて柔らかく微笑んだ。それは決して他人には見せない笑みだ。否、椿にしか見せないと言っても良いだろう。


「走らずともよい。ここに座ってくれ」


 二人で軒下の縁に腰かけて、しばらくは他愛のない話をする。


「みなに変わりはないか」

「はい、相変わらずです。でも、永倉さんは斎藤さんが離れてしまった事を暫く愚痴っていました」

「ふっ。あいつは離隊を強く引き留めていたからな」

「永倉さんは心が真っ直ぐですから」

「あんたは他人の事は、よく分かっているのだな」

「え?」

「自分の事となると鈍感だというのに」


 椿は顔を赤らめて、そんなことはないと小声で反論する。すると突然、斎藤が椿の肩を引き寄せた。椿の頬が自然と斎藤の胸に当たる。肩に置かれた手には力が込められていた。椿の心臓は不覚にも跳ねた。山崎は外でこういう事を一切してこない。それに、いつも自分の自分の位置が山崎と斎藤とでは違う。斎藤が左利きだからかもしれない。いつもと少し違う動作に椿は戸惑ってしまう。


――駄目よ。これは演技なの。しっかりして!


「椿。顔が赤いが」

「っ! そんなはずありません。気のせいです」


 威勢よく反論するものの、赤い顔を隠すことは難しかった。斎藤は椿のそんな反応が可愛く思え、ついつい過剰に接してしまうのだ。遂には椿の耳元に顔を寄せる。


「俺を煽っているのか」

「あ、あ、煽るわけ、ないでしょう!」


 椿の両の目は降参だと言わんばかりで、うるうると湿りはじめる。これは少しやりすぎたかと斎藤は反省をした。


「すまん。俺が悪かった。椿がどうも可愛くてな」

「もうっ。私で遊ばないでください」

「悪かった。こういう生活が続くとどうも、な」


 いつも通りに過ごしているとはいえ、斎藤は間者だ。神経を使っているに違いない。斎藤は新選組のために孤独と闘っているのだと思えば、責める気持ちは薄れていく。


「あの。私にできる事はやりますから。斎藤さんが困ったり、不安に思った時はその、お声を掛けてください」


 椿は今の今まで赤くなって怒っていたのに、一変して真剣な眼差しを斎藤に向ける。斎藤はそんな椿を見てしまうと、どうしても山崎が羨ましく思えて仕方がない。


「あんたに敵う者は、そうはおるまい。山崎は凄い女を手に入れたものだな。土方さんでさえ、手に負えぬというのに」

「それは、どういう意味ですかっ」


 ぷっと頬を膨らませて、今度は拗ねて見せる。子供の様にころころと表情を変える椿は、斎藤には眩しかった。


「みながあんたから、目が離せぬのだ」

「それはいい意味で、ですか」


 椿がそう尋ねると斎藤はふわりと笑う。


「そう思ってもらって構わない」


 斎藤は椿の袖口から手を差しこんで、そっと文を握らせた。斎藤の体温の低い手に触れて、また心臓が跳ねた。それを見て斎藤がまた笑う。椿も土方から託された文を懐から出そうと手を動かそうとすると、斎藤はなぜかその動きを制した。


「バレぬように出さねばならん。椿、許せ」


 椿の耳元で斎藤がそう囁くと同時に、椿の着物の合わせに指を忍ばせて瞬く間に文を抜き取った。その大胆さに椿は驚く。


「さ、さ、さいっとうさん!」


 真っ赤に熟れた椿の頬を見て、斎藤がまた笑う。

 こうして逢瀬のふりをした密会は、いつも斎藤に弄ばれて終わるのだ。帰り際、寺の階段を下りる時に見知らぬ男とすれ違った。


「斎藤くんも隅に置けないねぇ」


 伊東の一派だろう。椿と斎藤の逢瀬はどうやら疑われていないようだ。いつどこで誰に見られているか分からない。接する時は少し過剰だと思われる方が、傍から見れば普通の恋仲に見えるのかもしれない。斎藤の真意がそこにあるのかは分からないが、椿との逢瀬は上手く行っていた。





「土方さん、これを」

「おう。ご苦労だった」


 土方は椿から受け取った文を読み終わると、すぐにそれを燃やした。

 証拠隠滅は基本である。


「どうだ、斎藤との逢瀬は」

「ちょっと、何を言っているのですか!」

「おまえ声が大きいってあれほど言っただろう。冗談だからそんなに目を吊り上げるな」

「だってぇ」


 少し顔を赤らめて、ふいっと顔をそらして言葉を濁す椿に土方はかなり驚いた。


――まさか斎藤あいつ、椿を本気で口説いてねえだろうな!


「分かったよ、もう言わねえ。戻っていいぞ」


――今度、後をつけてみるか……。


 自分が仕向けておきながら、真面目に椿の事が心配になった土方であった。


  



 その後も伊東一派の動きに特別な進展がないまま、再び屯所移転の話が持ち上がった。


「また越すんですか」

「ああ」

「どうしてですか。なにかあったのですか」


 椿は土方から屯所を不動堂村へ移すと聞かされ、質問真っ最中であった。


「西本願寺の坊主が痺れを切らした。新しい場所をくれてやるから出ていけだとよ」

「この梅雨の時期に、ですか」

「ああ」


 椿はこの雨の中を荷物を抱え大人数で動くことをよく思っていない。土方だってしぶしぶ了承したように見える。しかし、此処よりも広くなるし、何よりお金がかからないのだという。せめて梅雨が上がるまで待てないのかと小言を言う椿をおいて、土方は忙しなく筆を走らせた。


「山崎です」

「おう、入れ」


 山崎は長州視察から戻ってからも忙しく、椿がまともに彼の姿を見たのはかなり久しい。その山崎の変わらず凛とした姿に、椿はうっとりと見惚れてしまうのだ。


「椿っ、呆けてねえで仕事しろ」


 土方に注意をされると顔を赤らめて「すみません」と言う。その姿を見た土方は、椿の山崎一筋は変わっていないようだと安心した。山崎も椿の姿を見て表情を緩めている。


――斎藤の件を心配していたが、俺の杞憂のようだな。


 そんな事を考えていると、山崎から重要な知らせを聞かされた。


「家茂公の様態が思わしくないと」

「なんだと」

「病を患っており、幕府や朝廷の医者が大阪城に頻繁に出入りしております。城下ではそう長くないのでは、との噂が広まっています」

「まだ若けえのにな。そうなると次は誰だ」

「徳川家達いえさと公、もしくは一橋慶喜ひとつばしよしのぶ公だと言われております」

「ほう。おい椿、さっき渡した文をよこせ。書き直す」


 土方は斎藤に宛てた文の内容を書き直すようだ。恐らく山崎の報告を付け加えるのだろう。素早く書き上げた土方は、椿にその文を渡した。


「頼んだぞ」

「はい」


 もう何度も斎藤へ文を渡しているせいか、椿も慣れたものだ。ただ、慣れないのは逢瀬を装いそれらしい素振りを見せなければならないということ。

 椿が廊下に出ると山崎が後を追って出てきた。本当は椿を一人で歩かせたくないのだ。いつもなら送ると言うところだが、逢瀬のふりだという事は山崎も承知している。今はただ屯所から見送ることしかできないのだ。

 ここを出たあと、椿は斎藤のおもい人となってしまう。


「山崎さん?」


 何も言わない山崎に椿から声をかけた。


「すみません椿さん。少し時間ありますか」

「はい。少しなら」


 山崎は椿を自分の部屋に連れて行った。


「なんだか久しぶりですね。変わりないですか」

「はい、私はなにも。山崎さんこそ毎日忙しそうですけど、お体は」

「俺も変わりないです」


 ななかな向き合って話す時間がなかった二人は、少し照れくさそうに互いを労った。山崎は何か言いたそうに眉を少し動かすのに、なかなか口を開こうとしない。


「山崎さん。目は口ほどに物を言うそうですよ」

「えっ」

「ふふ。遠慮なさらないで仰ってください。何か心配事でもおありですか」

「はっ、椿さんには敵いませんね。実は俺、斎藤さんに嫉妬しているのですよ」

「え!」


 予想外の告白に、椿は声を上げてしまう。


「仕方のない任務だとは知っていますし、斎藤さんにそのつもりはないと分かっています。しかし、俺意外の男と、嘘と分かっていても二人きりで会うことを想像したら。くっ、監察、失格です」


 目元を少し赤く染めた山崎は椿から顔を反らし、両手の拳を強く握りしめていた。椿は山崎の不安を拭いたくて、山崎の片方の手を両手でとり自分の胸元に引き寄せた。


「山崎さんは新選組が誇る優秀な監察方です。私みたいな者がこう言う事をしているのが、恥ずかしいくらいです。それに、私は山崎さんだけです。忘れないでください。私を信じて下さい」

「ありがとう」


 山崎は真綿に触れるように優しく椿を抱き寄せた。本当はこのまま何処かに隠してしまいたい。椿が担う、間者との密会はとても危険な仕事なのだ。万が一敵に秘密が漏れでもすれば、命も落としかねない。しかし、今回の相手は斎藤で自分とは比べ物にならないほどの剣の達人なのだ。だから大丈夫だと山崎は何度も自分に言い聞かせた。


「これから行くのですね」

「はい」

「では、少しじっとしていて下さい」

「えっ、あっ!」


 椿の肩口に山崎は顔をしずめ、そのまま口づけを落としていった。耳の後ろから這うように首筋を辿り、肩までくると今度は反対も同じように施した。


「ん、ふっ。やま、ざき......さっ」


 椿は膝が崩れそうになるのを必死で堪えた。なんと官能的な行為だろう。山崎の腕は椿をしっかりと抱きとめ、温かな息と舌で椿の体を翻弄した。そして顔を離した山崎が椿の瞳を上から覗き込む。


「俺の匂いを付けておきました。虫避けです」

「虫っ、よけ!」


 思った以上に山崎は嫉妬に狂っているようだ。しかし、そこは新選組が誇る山崎烝だ。椿以外の者がその性格を知る由もなく、日々淡々と任務をこなしていくのだから大したものである。





「斎藤さん」


 この日は人気のない家屋の裏で逢瀬をしている椿と斎藤。家屋の壁を背に椿が立ち、それを隠すように斎藤が前に立っている。時々、人が通るがわざと見せつけるように斎藤が壁に手を突き顔を椿に寄せる。


「文はどこに」

「えっと、帯に」

「じっとしていろ」


 斎藤の影が椿を覆いながら腰へ腕をまわした。その所作は流れるように美しい。傍から見れば、そのまま抱き寄せ接吻でもしそうな勢いだ。


――斎藤さんっ。そんなに近づいたら、山崎さんの匂いがっ!


 つい先ほどの山崎とのやり取りを思い出した椿は、ひゅっと腰を引いてしまう。斎藤は反射的にその腰に腕を回し、自身の腰に引き寄せた。


「どうした」

「ひゃっ。な、なんでも」


 カサッと微音がして、土方から託された文はあっという間に斎藤の手に渡った。


――ち、近いです。斎藤さんっ!


 それが終わると斎藤は椿から体を離し、今度は椿の手を引いて大通りに近い場所まで移動した。表は人の往来が賑やかに行われており、雑踏に二人の会話はかき消される。


「誰かが見ている気がしたが、気のせいか」

「誰か?」

「ああ。まあ俺たちの逢瀬を覗いて、今晩の飯のおかずにしようとする不届き者だろうがな」

「おかず......」

「否、あんたは知らずともよい」


 こうして今回もなんなくと斎藤との偽逢瀬は無事に終わった。椿は大通りを抜けて屯所へ向けて歩き出す。


――斎藤っ! おまっ、きわどい事をするじゃねえか。しかもあいつ、あんな風に笑いやがるのか! こいつは山崎には見せられね。


 なんと、不届き者は土方であった――!

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