第5話 島原潜入

 翌日。椿は山崎を訪ねて再び新選組の屯所に来た。門番は昨日とは違う別の隊士が立っていた。


「こんにちは」

「おっ、先生! 今日はどうしたんです」


 椿は新選組専属の医者なので、たいていの隊士たちは彼女を先生と呼ぶ。たまに椿殿と改まる者もいるが、ほとんどが親しい口調で話しかけてくる。


「はい、ちょっと用がありまして。山崎さんいらっしゃいますか」

「山崎さんって……何番組でしょうか」


ーーあっ、そうよね。皆が皆を把握しているわけではないんだった。


 特に山崎は組に属しておらず特殊な立場であるため、一般隊士まで名前は知られていないい。いや、任務の特性上、幹部以外には知られてはならない存在であった。


「ええっと……」


 椿はどう言えば伝わるのか悩んでしまう。山崎と仕事ができる喜びで頭はいっぱいで、彼の此処での立場を把握しきれていなかったのだ。


ーーどうしよう。このままじゃ、怪しまれてしまう。


 と、そのとき。


「椿ではないのか」


 振り向くと斎藤が立っていた。見れば隊服を着ている、巡査帰りのだろう。


「斎藤さんっ、あの」

「ん?」


 どう伝えたら良いのか分からないまま、何かを懇願するように斎藤の顔を見た。それを見た斎藤は察したのか、門番にこう言った。


「椿は副長に呼ばれている、通してやってくれ」


 斎藤に助けられ、ようやく中に入ることが出来た。安堵で胸をなでおろす椿を見て、斎藤が口元を綻ばせる。この男が頬を緩める事など滅多にない。恐らく本人も気付いていないだろう。


「いつものように何も考えずに入ればよいものを。あんたらしくないな」

「そう、ですよねっ。ふふっ。斎藤さん、ありがとうございます!」


 椿のばあっと花が咲くような笑みを見て斎藤はにわかに目を見開いた。この女の笑顔は相変わらず心臓に悪いなどと心の中で呟きながら。

 今度こそ椿は迷わず「お邪魔します!」と周囲に挨拶をしながら山崎の部屋へと向かった。

 斎藤はその後ろ姿を見送りながら椿には敵わないと一人愚痴るのであった。





「山崎さん、いらっしゃいますか?」


 部屋の前まで来て声をかけたが返事はない。まだ戻ってきていないのかもしれないと、椿はそっと部屋の障子を開けた。やはり、山崎の姿はない。


ーーお忙しいのね……


「椿さん」


 そこへ山崎の落ち着いた声が後ろから聞こえた。


「山崎さん、すみません。勝手に入ってしまいました」

「そんな事、気にしないでしていいのに。むしろ、俺の部屋に居てくれた方が安心しますから」


 山崎は頬を緩ませてそう言った。そんな山崎の表情にまた、椿の心臓がドクンと大きく鳴った。


ーーどうしよう、山崎さんが眩しい。胸が、苦しい。


「行きましょうか」


 山崎は椿の手を取ると、土方から預かった書簡を懐に入れて外に出た。

 自然と握られた手に、椿は驚き、そしてその手をじっと見つめてしまう。山崎の指は思ったよりも細くて長い。この指で針をツボに的確に刺していくのだ。椿にとってそれは神の手そのもの。


ーーそう言えば、こうして手を繋いだの……初めて!


 道中、山崎がなにか話していたような気がするが、椿はすっかり上の空で、気がづくと島原の柳大夫の部屋に着いていた。

※島原:花街の事で、芸妓や遊女が集まる地域を指す。


「土方はんから聞いております。どうぞこちらへ」


 綺麗に着飾った柳太夫は気品に満ち溢れていた。口元をほんの少し緩めただけなのに、女の色気が漂ってくる。


「椿はん、でしたね? お着替えしてもらいますさかい、あちらへ」

「着替え?」


 山崎の顔を見るとその通りだと頷いて返された。椿は困惑しながらも別室に通され、あれよあれよという間に豪華な着物を羽織らされ、髪も結い直し、更には化粧まで施されたのに驚いた。そしてその着物の重いこと。肩も腰も、そして頭も重い。


「あら、いい女になりましたえ。お連れの方もええ男やし、お姐さんのこと羨ましいわぁ。何処で見つけてきたん?」

「え、何処でとは」


 喋り方ひとつでこうまて色香が出るものなのかと、椿は感心していた。まるで自分が誘惑されているみたいだと。


「ふふ。ねえ、次はあてに旦那はん貸してくれへん」

「えっ、貸す」

「そうや。あんな寡黙でええ男と、いっぺん寝てみたいんや」


ーーね、寝る! 寝るって勿論その、大人の寝るですよね?


 どぎまぎ焦る椿は勝手にその光景を想像してしまう。自分でない他の女が、妖艶な笑みで腰をくねらせ山崎に擦り寄って甘い言葉を囁く。その誘いに答える山崎の姿を。


『山崎はん、ええの? ここが、ええのん?』

『ほら、ええんやろ。ええ顔してるよ。ふふふふ……』


ーー嫌、嫌よ! それは絶対にっ!


「だ、駄目、です!」


 やっと紡いだ言葉はたったのその一言だった。するともう一人の女が口に手を当て小さくクスリ笑う。


「あかんやん。こんな初心うぶなお嬢さんをからこうたらあきません。ほら、耳まであこうして怒ってはる」

「お、怒っていません!」

「ここは女の戦場や。妙な意地を張ったり遠慮したら、ほんまに寝取られるで? ちゃんと唾付けとかなあかんよ?」

「つ、唾っ」


 二人は散々、椿で遊び「ほな、お気張りやす」と送り出した。


ーー女の戦場……


 女性で溢れ返る島原では、毎夜どんな戦いが繰り広げられているのだろうか。潜入捜査とは言え、他の女に山崎を取られてはたまらない。

 椿は背筋を伸ばし、ぐっと目に力を入れると山崎が待つ部屋に向かった。





ーー山崎さんは誰にも譲りません!


 椿からは妙な気迫が漂い、それがまた廊下を歩く男たちを惹きつけた。なよなよした歩きではなく、背筋をシャンと伸ばし前を見つめる凛とした顔つき。あの重く派手な着物の裾を捌く姿はこの島原のどこを探してもいない。もともと素材のよい椿は、この芸子の姿がとても様になっていたのだ。


「いい女だな、どこの女だ」

「へぇ。わても詳しくは知りまへんが此処は女の園でございますさかい。いろいろな女がおりますんえ」

「ほう……」

「でも今日は無理どす。もうお客様がおつきですさかい」

「そうか残念だな」


 椿は自分が美しいなどとは全く思っていない。女が医者をしていると莫迦にされないよう、男並みの精神力を培ってきた。そのせいで、男女の間にある情というものに疎いのもある。

 椿は女中に連れられて山崎が待つ部屋に案内された。


「失礼いたします。お連れいたしました」


 静かに障子が開き、椿が部屋に通された。部屋には既に膳が整えられ、酒の入った銚子も並べられてある。


「山崎さん、お待たせしました」

「ああ、椿さんこちら……え!?」


 目の前にいるのは椿のはずだ。しかし向けられた笑顔はいつものあの日が差すようなものではない。紅が乗った口元が妖艶なまでに山崎の視線を引きつけた。艶やかな着物を纏い、結いあげられた髪には煌びやかな櫛が差されてあった。

 隣にゆっくりと座る椿からは何とも言えない甘い匂いがする。眩暈がしそうだと山崎は思った。あまりにもその姿は美しい。


「では、ごゆるりと」


 女中が静かに障子を閉めた。


「山崎さん、なにか情報は得られましたか」

「……」

「山崎さん?」

「えっ、あ、いえ。まだです」

「そうですか」


 山崎は椿のその美しい姿に見惚れていた。このままではは仕事にならないかもしれない。そんな危機感さえ湧いてくる。

 しかし、今日は重要な話が漏れるかもしれない。山崎はこれ以上は考えまいと己の気を引き締める。


「私、何かしなくていいのでしょうか」


 困惑した様子の椿に山崎はふっと表情を緩める。


「では折角ですからお酌していただけますか」

「あ、はい!」


 山崎は芸妓姿に似つかない、威勢のいい返事にいつもの椿を感じ安心した。誰かに酌をする事のない椿はほんの少し手を震わせている。


「すみません、あまり上手く注げなくて」

「椿さんはそれでいいんです。手慣れていると不安になりますから」

「え?」


 この頃の山崎との会話には、椿が理解しがたい言葉が混じっている。どうして慣れていると不安になるのだろうか。そう尋ねようと口を開こうとした時、山崎が突然、椿の唇に人差し指を当ててきた。

 山崎の視線は隣の部屋に向いており、なにか重要な動きがあったのだと悟った。男たちの会話を聞いている山崎の横顔は新選組監察方、山崎烝だった。その横顔の精悍さと、一点を見つめる瞳はまるで獲物を狙う獅子のようだった。


ーーこの眼差しが好き。私はこの人が仕事をしている時のこの瞳がとても好き。だから私は山崎さんがいる新選組を全力で支えたい。




「やっ!」


 廊下で、女の悲鳴のような声がした。椿がそっと障子を開けてみると、盆が転がり廊下には湯気がたっていた。そして女中らしき女は足元をおさえてうずくまっている。状況からして、熱湯で火傷したのだと判断した椿は突如医者の顔になる。


「山崎さん、すみません。少し席を外します!」

「え、椿さんっ」


 山崎の声を背に椿は廊下に出た。痛みで顔を歪める女の脇を支えながら水場は何処かと聞きながら足早に向かった。途中すれ違う女中に椿は指示を出していく。


「お客様が滑るといけないので廊下を拭いてください」

「はい」

「薬箱はありますか? あれば箱ごと持ってきてください」

「はい」

「桶に水を汲んでください、できれば井戸水の冷たいものを」

「はい」


 その間も椿は手を止めない。火傷を負った女の着物の裾を捲り上げその程度を確認する。皮膚は薄い桃色に染まり始めていた。椿は襦袢の上から水を容赦なくじゃぶじゃぶとかける。


「うっ」

「痛みますか?」

「いえ、ひりひりしますが大丈夫です」


 手ぬぐいを水で濡らすと軽く搾りそれを患部にあてがった。火傷は処置が遅くなれば治りが悪くなる。


「赤みが消えるまでしばらく繰り返し冷やしてください。いいですね」

「はい、ありがとうございます」


 ここには軟膏がない、明日改めて持ってこようと椿は考える。

 そこへ柳太夫がやってきた。


「椿はん、あんたには借りができてしもうたね。今度お礼させてもらいます」

「いえ、私が勝手にした事です。それに、お借りしたお着物を汚してしまいました」

「そんなこと気にせんでええんよ。お座敷に上がったらもっと汚して戻ってくる子もおりますさかい。ただの水でっしゃろ? 構いまへん」

「すみません」

「それより、お連れさんがお待ちどすえ」


ーーあっ! 山崎さんっ


 潜入の仕事でここに来ていたのに山崎を置いてきぼりにした挙句、与えられた仕事を放ったらかしにしてしまって青褪める。椿は慌てて山崎が待つ部屋に戻った。


「山崎さんっ! 申し訳ございませんっ」


 怒られるのを覚悟で頭を下げた。いやもう呆れられているかもしれないけれど。


「椿さん、顔を上げてください」


 言われるがまま顔を上げると、困った顔をした山崎が立っていた。


「髪が、乱れてしまいましたね」


 山崎は椿の流れた髪を指で掬うと、留めてあった簪を抜き元のように髪を整え始めた。山崎があまりにも丁寧に優しく梳くものだから、恥ずかしくなりまた俯いた。女らしい所を一つも山崎に見せることが出来なかったことを椿はとても後悔しながら。


「名残惜しいですが、屯所へ戻りましょう」

「あ……はい」


 椿が女中の処置で慌ただしくしている間、山崎はかなり重要な情報を得ていた。それだけではない。椿の医者としての志も改めて見ることが出来た。分け隔てなく人に尽くす姿を見て、山崎は心を熱くした。


「今日はとても大きな収穫がありました。ありがとうございます」

「あ、え?」


 すっとんきょうな返事をする椿に山崎は笑みで返す。


ーー椿さんの事は、俺が護りますから。


 山崎が改めて決意するほど、今夜はとても良い日となった。

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