抱えきれぬほどの愛を君に
佐伯瑠璃(ユーリ)
狼の住処
第1話 椿という女
ここは泣く子も黙る人斬り集団の、壬生浪士と揶揄られた者達が集う場所。のちに彼らは【新選組】と名を改め、歴史に名を残すことになる。彼らは会津藩の預かりで京の治安を護る集団であった。
誰も好んでそこに出入りする者などいない。むさ苦しいギラギラした男たちしかいない、まさに飢えた狼が群れをなして眠る場所。それだけ世間からは恐れられ、
そんな場所に躊躇せず、堂々と門から入る女が居た。名は椿、
「副長にお目通り願いたいのですが」
突き抜けるような明瞭な声でそう告げると、門番の男はビクリと肩を揺らして片方の眉を吊り上げた。
「椿殿、今日はお止めになられた方が……」
「理由はなんでしょう。私が諦めなければならない理由を教えて欲しいのです」
椿の
「ひっ、今日の副長は大そう機嫌が悪い。悪いことは言わねえ。今日はお止めになった方がいい」
「なるほど、そう言う事でしたか。仕方がありませんね」
椿の納得した様子に男は「ふぅ」と安堵の溜息を漏らす。が、その次に言われた言葉に硬直した。
「では、わたくしが副長の眉間を
「えーー!」
椿は目を剥いて仰け反りそうな男の脇をするりと抜け、屯所の中へ入って行った。
青ざめて息をするのを忘れた男は、意気揚々と歩く女の背中を遠くに見送った。
「相変わらず面白い方ですね。君も少しは見習ったらどうですか。大きな体が泣いていますよ」
呆然と立ち尽くす門番の男の肩をポンポンと叩いたのは、副長
その頃椿は、勝手知ったる屯所内をいつもの調子で颯爽と歩いて行く。
「こんにちは。皆さん体調は如何ですか。体は清潔に保って下さいね」
「はい、承知しています」
なんと彼女は医者なのだ。どうして女の医者がこの屯所に出入りしているのか。それは遡ること一年前の出来事である。
椿は大阪で医者見習いとして働いていた。
ある日、問屋の主人が腰を痛めたと知らせが入り、椿がその患者のもとへ診察に行った時の話だ。
触診など丁寧に診察をしてから、椿は問屋の主人にゆっくり休むよう伝えた。骨や内蔵に異常はないのだから安静にするしかない。時間薬しかないとまでは言わなかったが、痛みを和らげるための薬草を処方した。
しかし問屋の主人は「なんやこのっ、ヤブ医者が!」と騒ぎ出したではないか。気の強い椿は「だったら私など呼ばず、最初から針師を呼びやがれクソじじい」と罵ったのだ。
そこに急きょ、当てつけとばかりに呼ばれたのが鍼灸師の
「父は手が離せませんので、私が代わりに」
父親の代わりに来たと言う男は、言葉少なめに手を動かし患者の腰に針を刺して行った。
その動作を椿はじいっと黙って見ていた。針を刺しても患者に痛がる素振りはない。針は的確にツボをつき、寸分の狂いもなく成されているのであろう。そんな男の所作に、椿は心底惚れてしまう。顔色を変えずに淡々と仕事をこなす男が、一層輝いて見えたのだ。
「山崎さんと仰いましたね」
「はい」
椿は山崎の治療が終わったのを見計らって、ぐいと一歩近づいた。そして、頭が太ももにつく勢いで腰を折った。
「私をっ、弟子にしてください!」
「……ええっ!」
ガバッと音がする勢いで顔を上げた椿の、気迫たるや。そして向けられた眼光に山崎は
「私は医者でありながら、患者の痛みすら取り除くことができませんでした。情けない事です。それに比べ、あなたの針の技量はなんと素晴らしいこと。伝授しろとまでは言いません。どうかその心得をお教えください!」
感情を表に出すことが得意でない山崎だったが、見た目とかけ離れた男らしさを思わせるこの女には流石に目を剥いた。針を教えろと言われているだけなのに、取って食われそうな気さえしてくる。
ーーこの手の人間は駄目と言えば更に勇んでくるに違いない……。
「お気持ちは分かりました。ひと月で構わないのであればお教えしますよ」
「ありがとうございます。でも、どうしてひと月なのですか」
「それは、ひと月後に大阪を離れるからです」
「大阪を離れる……」
山崎は既に新選組に監察方という立場で入ることが決まっていたのだ。山崎の忍びのような軽やかな動きと、無口で無表情、かつ常に冷静でいられることが、副長である土方歳三の目にかなったのだ。
こうして椿は、ひと月の間に山崎から指南を受けたものの満足する事ができず、勝手に山崎の後を追って京まで来てしまった。しかも気が付いたら新選組専属の医者という立場にまでなっていた。
これにはさすがの山崎も顔色を変えて驚いたわけで、そんな山崎の表情の変化を見た副長は只者ではないと椿に一目置いたのだとか。
そして今に至る。
「沖田先生、今おかえりですか」
「あれ、椿さんはどちらに」
「奥に向かわれましたが」
「そう。ありがとう」
隊士たちの言う奥とは組長級の幹部たちが住む場所だ。平隊士たちが近寄りたがらない場所に臆することなく入っていくのは、やはり椿くらいだろう。椿は背筋をピンと伸ばし、ずんずんと廊下を進んで行った。
「おっ、椿じゃねえか。まあた懲りずに来たな」
「原田さん今日は非番ですか。ちょっと! 腹を出さないでください!」
「傷痕をこうして日に晒らさねえと、痒くなるんだよ」
「直接晒す必要はありません!」
ーーなんてフシダラなっ
「おふっ」
十番組組長、原田左之助自慢の切腹傷を叩くのもこの女くらいである。女に対して百戦錬磨と言われたこの色男ですら、椿には手が出せないでいる。
「くくくっ、お腹痛いや」
沖田は物陰からその様子を見て、お腹を抱えてくすくすと笑った。
椿は更に奥へ進んで行く。其処には用がない限り誰も立ち寄らない部屋がある。三番組組長、
しかし、椿にそんな事は関係なかった。勝手に障子をザーッと開けて、満面の笑みでこう言うのだ。
「斎藤さん! こんにちは。空気の入れ替えはマメにして下さいね」
「っ!」
ーーなぜ俺が居ると分かった……。
椿は構うことなく、斎藤の部屋に一歩踏み込んで視線を一巡させる。
「斎藤さん、さすがです! 整理整頓が行き届いていますね。良いことです」
うんうんと頷きお天道様の笑顔を斎藤にも向けるのだ。他人から滅多に笑顔を向けられる事がない斎藤は、毎度硬直し耳まで赤く染めるのだった。
「はじめくんまだ慣れませんね。見ている方は面白くていいですけど」
後をつける沖田はご機嫌だった。斎藤の表情は自分ではなかなか変えられない。でも椿に掛かれば何てことはない。顔を赤くしたり青くしたりと忙しいのだから。
そして斎藤の部屋を出た椿は、決まりのごとく次の目的地へ足を運ぶ。
「あ、次は僕の部屋ですね」
気配を消して椿の後ろを歩く沖田。
「沖田さん! こんにちは。たまには外の空気をっ、あら」
椿が部屋を見渡すも沖田はそこに居ない。今日は巡察当番だったのだろうかと首を傾げる。
傾げながら沖田の部屋を観察した。この部屋はいつ来ても殺風景で、他の部屋と比べて温度が低く感じる。椿は腕を組み眉間に皺を寄せるとこう呟いた。
「お花でも生けたらよいのです」
「そんな難しい顔して言う言葉ではないでしょうに」
「ひゃぁぁ!!」
突然頭上から声がしたのだ。さすがの椿も声を上げて尻餅をついた。椿は、くつくつと嬉しそうに笑う沖田の顔を恨めしそうに見上げた。
「沖田さん、いつから居らしたんですかっ」
「屯所の門をくぐる所からですよ」
「なっ……」
沖田は涼しげな笑みを浮かべながら椿の顔を覗きこんだ。椿は怒ったのか顔を真っ赤にしている。
「毎度の事じゃないですか。気配に鈍いからこうなるんですよ」
「でも沖田さんは、わざと気配を消しているでしょう? 私は只の医者ですから気配というものは読めません」
「では、次からは消さずに後をつけますよ」
「はい、そうしてください。そうではなくって、後をつけないでくださいっ」
椿が真面目に怒ってみせたのに、沖田はお腹を抱えてケラケラと笑いだす。椿は悔しい事に、この沖田という男だけは先が読めず口では勝てないと認めていた。口は達つし、剣の腕も右に出るもはいないと聞いた。
「沖田さんって凄いですよね。手も口も達者なんですから。頼もしい限りです」
気を取り戻した椿はにっこり笑って沖田にお辞儀をすると、最終目的地へと向うべく部屋を出た。
「そういうことを、言うかな……」
ほんのりと頬を染めながら立ち尽くす沖田も実は、椿には敵わないと思っているのだ。
そんな椿は新選組の健康管理に必死だった。
なぜならば、監察で多忙を極める山崎の仕事をこれ以上増やしたくないからだ。山崎は監察だけでなく隊士たちの救護活動も行う。普段の稽古で怪我をしたり、感冒が流行ったりすれば彼の休まる時間がなくなる。
椿は山崎の鍼灸師の腕に惚れ込んでいると同時に、山崎烝という男に惚れている。
そのことに気付いていないのは当の本人である椿と山崎だけだった。
※新選組諸士調役兼監察(通称、監察):隊士の動向調査や情報探索の任を担う者
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます