それぞれの苦労

 昼食後に翰川先生が大学へと出発し、それを見送った午後のこと。

 幼馴染である佳奈子からのメールに適当に返信してから、冷凍室に眠っていたアイスを引っ張り出す。

 夏らしくからっとした快晴は暑苦しくも爽快。ソーダフロート味のアイスがなんとも美味しく感じられる。

 こんな日は自転車でツーリングに出かけたいところだが、生憎のところ俺は受験生である。

 しかも、夏休みから本格的な勉強を始めたというハンデ付きの。

 俺の目指す寛光大学は、どんな学部学科を志望しようと国数英社理のフル教科で受験せねばならず、苦手な科目も頑張らなければならないのだ。

 ツーリングしている場合ではない。

 俺は文系はそこそこなのだが、いかんせん、理系が壊滅している。

 これは俺のせいばかりじゃなくて……いや。実際には自業自得のような面もあったりなかったり…………もういいや。

 翰川先生は物理学の教授さんでありながら、すべての教科を得意とする万能選手。

 本人曰く、国英社はあくまでも大学受験程度の知識であり、教授に上り詰めるほどとなればやはり数理分野とのことだが、それでも十二分に凄まじい。

 俺の得意な文系は強化し、苦手な理系は突貫工事で補強してくれている。非常にありがたい。

 なので、いま俺がすべきは理系科目の勉強なのだが……

「う、ベクトル……」

 数学ではベクトルだとか極座標だとかの意味不明な暗号が並ぶ問題文を見て心が折れた。魔法陣の比率なんて知らねーっす。

 物理は、アーカイブ:コードを使った奇妙な式を元にして存在情報量を計算……だとか、全体的に意味不明。

 化学はなんかもう、超絶イミフ。マジでイミフ。錬金術と現代化学を対比し現象を統合させるうんぬんかんぬんなんて、素人には無理っす。

「……」

 結局は神秘の仕組みが絡まない文系に逃げてしまう。

「まあ、たまにはいいよな……」

 まずは国語から頑張ろう。

 めくっていてわかったことだが、大問ごとに『作成者:A・I』だとか文末につけられている。一つの年度で複数人の名前が出てくるときもあり、教授陣が協力して作っている様子が目に浮かんだ。

 気になってほかの科目も見てみたが、やはり大問ごとに作成者の名がイニシャルで載せられている。物理の問題には『H・K』――間違いなく翰川先生――が多いから、あの人が主軸なのだろう。

 クッションを枕にしてだらだらとページをめくっているうちに、あることに気付いた。

「神秘が入ってない問題がある……?」

 問題の出だしにコードやらなんやらのアーカイブの名前が登場し、それを使った計算問題が入るのだが、すべてがそうではない。

 ところどころに、ひたすらに純粋な数学や物理が入り込んでいる。

「…………」

 いま見ている問題は去年の過去問だ。

 年度ごとに積まれた問題集から順番に取り出し、アーカイブの知識が要らないと思しき問題にマーカーを引き、配点をメモ帳に書き込む。

 時折、『神秘を含まない参考書』を参考に問題を選り分けていく。

 配点を電卓で計算してみると、割合が出た。

「……6、7割!?」

 寛光大学の合格平均点程度だ。

 神秘を含まぬ問題がところどころあるという表現は撤回せざるを得ない。

 ところどころなのは、神秘の方だ。

「マジかよ……」

 学校では寝落ちしまくったというのに、まさかの展開。

 ありがたくはあるが複雑な気持ちである。

「…………」

 しかし、苛立ちで燻ったままいても、点数が取れるようにはならない。

 理不尽な現実への怒りをやる気に変え、勉強を地道に頑張るしかないのだ。



  ――*――

 国語は苦手だ。

 いつしか、苦手になってしまった。

「……」

 だからこうして、受験者向けの講習を国語だけ受けている。

「……うぅ……」

 特に苦手なのは古文で……恋文なんてものが登場すると難易度が跳ね上がる。

 国語教諭が黒板を背につらつらと短歌の意味を解説しているが、言っていることがよくわからないから困る。

 ごく婉曲で控えめな比喩とでもいおうか。私はまさに、“暗喩”と“言外の意図”を汲み取るのが苦手だった。

 手元のテキストの解説文には、『袖を切り取って贈ることで気持ちを表している』とあるが、着物が勿体ないとしか思えない。ロマンチックじゃないと言われればその通り。

 でも、上手く感覚が掴めない。

「……ここで、『いらふ』とは……」

 いらふ。適当に答えること。

『母からの問いかけにも適当に答えてしまうほど、恋に上の空な主人公の気持ちを――』

 かなし。身に染みてしみじみと愛しいこと。

『母が主人公と父を愛しく思う気持ちが――』

 気持ち、気持ち、気持ち。何が言いたいのかわからない。

(先生に申し訳ないなあ……)

 私の教導役であるリーネア先生は私の保護者でもあり、ここ最近体調を崩していた私を気遣って送り迎えをしてくれていた。

 今日も迎えに来てくれる予定だ。『大丈夫』と言ったのに、先生は過保護だ。

「…………」

 とりあえず、内容はわからずとも板書とコメントをノートに書きとる。参加しているからには勉強と向き合う義務があり、学びを得る機会を無駄にするのはいけないことだ。

 チャイムが鳴った。

「では、今日はここまで。また会えるのを――」

 国語教諭の話し声は、講習終わりではしゃぐ生徒たちの騒ぎ声にかき消された。少し申し訳なく思うが、仕方がないとも思う。

「よしっ」

 教室を飛び出し、学校玄関へ向かう。

 先生はいつも『日差し暑い』と、木陰の多い1年玄関の方で待っている。

「……!……」

 やっぱり、白のワンボックスと夕焼け色が見えた。

 先生は完全に背中を向けていたのに、私にすぐ気づいて振り向く。

「せんせ、い……ありがとう!」

「走って来なくていいのに。無理すんなよ」

 息を切らしてたどり着くと、先生が苦笑しながら私を優しく小突く。

「まあ乗れ」

「うん」

 先生は乗り込む前に、車の周囲と底まで確認する。

「……おじさん居なくなったのに確認するんですか?」

 おじさんとはこの車に憑りついていた幽霊で、その人はつい最近成仏していなくなったばかりだ。

「昔、車底にプラ爆取り付けて遠隔起爆リモートするのが流行って……確認するの癖になってんだよな」

「嫌な流行だね……」

 リーネア先生は、『戦争が巻き起こりやすい異世界』出身の異種族だ。常識から生活習慣まで、ありとあらゆるところに戦争の気配が漂う仕上がりになってしまっている。

 ……優しい人なんだけどな。

 先生は運転席、私は後部座席に乗り込む。

「必要な警戒だった。4回くらい見つけて外したし」

「ええええ」

 死の瀬戸際を綱渡りしている。

 シートベルト・ミラーの角度・椅子の位置・高さ・リクライニング・ドアロックなどなど。多数の要素を手早く確認した彼は、ゆっくりと車を発進させた。

「こんな話しても面白くはねえか。悪い」

「面白い……というか、度肝を抜かれます」

「よくわかんねえな。こっちはそういうのないのか?」

「ありませんから!」

「まじか。……いいとこだな、ここ」

 しみじみとする先生。

 ふとした瞬間に、“世界”という巨大な単位の違いによる価値観の差を感じる。

「……はい」

「で、今日はどうだった。登場人物の気持ちとやらはわかったか?」

 彼は『国語なんて嫌いだ』と豪語して憚らないので、過剰な天才性は国語にだけは活かされない。

 よって、国語だけは先生に頼らず勉強している。

「う。い……今一つです」

 学校の試験ならば、試験に出る文が手元の教科書にあるので対応できるが、入試となるとそうはいかない。

 有名どころなんて引っ張り出してこないだろうから、手当たり次第に読んでも、しらみつぶしなんて出来ないと思う。

 模試でも古文がネックだったし……この夏は頑張らなければ!

「頑張るなあ、お前」

「だって大学行きたいから……」

 私の目指す寛光大学は、どの学部学科を志望しても5教科で受験に挑むことになる。苦手な科目に足を引っ張られたくない。

「寛光なら、今でも合格圏だろうに」

「挑むからには万全で臨みたいんだ。上位で合格したら奨学金もとれるんですよ」

「……ふうん」

 彼のこの口癖は冷たいようにも聞こえるが、本心はそうでもないらしい。

 無意識に言っているとのことで、前に指摘すると心底不思議そうな顔をされた。

「でもまあ、寛光に合格したら東京暮らしだな」

「先生はどうするんですか?」

「んー……こっち来たのお前のためだし……東京に戻るよ」

「……」

 今暮らしているマンションと車は……

「マンションは賃貸だからいい。あと、この車は手放して……曰く付きのものを供養してくれるところに頼もうと思ってる」

「……」

「おっさんは居なくなったし、くっついてた事情もわかった。ってことで、きちんと供養してやりたい。……そう思ったんだけど、これでいいのかなとか迷ってる」

「いい、と……思います」

 私みたいな、人生経験の浅い小娘が言えたことではないかもしれないけれど。

「ん」

 自宅のあるマンションが見えてきたとき、ふと呟く。

「先生」

「なんだ?」

「迎えに来てくれてありがとう」

「さっきも聞いたよ。どういたしまして」

 私は、自分の母親と父親の記憶に良いものがない。

 ……面倒ばかりかけて申し訳ないのに、すごく嬉しい。

「あ、そうだ。明日は森山くんと遠出ですね!」

「…………。ああそうだな」

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