ひょんと彼女と俺
◆
今度こそ交換しておきます。
バイトの子がそう言っていたから、さすがに大丈夫だと思っていたのに(そいつがそれからどんなやんごとないトラブルに見舞われたのか知らないが)どうしたことか蛍光灯は未だに切れたままだ。その事実に今日も暗くなってから気付いた。もちろんそのバイトは定時ピッタリで大人しく退社した後だけど、フロアの窓側にある自分のデスク周りだけ妙に薄暗くて間もなく妖怪でも出てきそうな照明効果だ。本当に恐れ入る。しかし妖怪には詫びを入れる予定があるのでちょうど良いと思うしかない。ま。ほとんどのバイトの子はそんな感じだけど。
そんな真夜中。定時で大人しく帰らない方のバイトは完全に行き詰まっていた。
「もう完全に行き止まりです。この先に道が見えない。そして無意識に『ひょんな事から』を引っ張り出している自分。そもそも『ひょん』ってなに?ミステリアスかつポップなギャップが逆に魅力的。だんだん『ひょん』が好きになる自分が怖い」
「なにナチュラルに『ひょん』に浮気してんだ。立場的に『ひょん』に嫉妬する俺の身にもなれ。いや。別に嫉妬はしない。さっさと『ひょん』と腕相撲して負けたらそのまま抱いてもらえよ」
「それどんな『ひょんな事から』なんですか。夏海さんが嫉妬してくれるなら私は『ひょん』にこのまま惚れますけど、嫉妬してくれないなら二度と会いたくないです」
「お前はとりあえず酢の物でも食ってろ。それか仮眠しろ」
「夏海さん膝枕して下さいよぅ」
「よし。まだ元気だな。さっさと仕事しろ。早く帰ってアニメ見たい。今期はリアタイで見たいやつが多い」
とりあえず彼氏にはなったけど。彼氏になったからといって即デレるようなサービスとは無縁の。普通の中の普通のおっさんだった。
◆
千秋は仕事は出来たので行き止まりもあれから程なく突破した。必要なら迷いなくトースト咥えて強引な体当たり出来る奴だ。仕事が出来ないはずがなかった。なんとか仕事を片付けて帰宅しようとしたら、もちろん彼女が追走して来たので、もういちいち振り切るためにダッシュするのもめんどくさくて仕方ないので部屋まで連れてきた。千秋は部屋に転がっていたバスケットボールに飛び付いていた。
…そして。なにを思ったのか超至近距離で渾身のチェストパスをしてきた。超危ない。
「…なにすんだよ?」
いや。別に取れるけど。取れなかったらどうするつもりだったのか不明だ。
「さすが夏海さん。反射神経も超良いですね!」
「危険な方法での反射神経の確認やめろ。疲れる」
まさか取れるとは思いませんでした!と彼女は嬉しそうだが、取れないと思うのに渾身の力でパスをする意味がちょっと理解出来ない。歳の差のせいだろうか。
「夏海さん。くっついても良いですか?」
「ダメです。今からアニメ見るから。見ても疲れないやつ。リアタイで」
そんなラブラブみたいな事をしたら。疲れる。そんな気が散りそうな事をしながらアニメ見れる奴の気が知れない。最近はめっきり一人タイムの安定感に癒されるおっさんだった。
「じゃあ。ちょっと触っても良いですか?肘とか」
「困ります」
若い子の言うことはよく理解出来ないおっさんはとりあえず拒否した。ちょっと触ってみたいって。こいつは男子高校生なのか?いや。たしか女子大生のはずだけど。自信なくなってきた。
「な、なら。見るだけ」
「気が散る」
それは一番困るやつだ。他人の視線程気になるものはない。じっと見られながらアニメを見る修行?その修行を行うとなんのスキルが上がるんだろう。無視のスキルだろうか。
「そ、それじゃあ。同じ空気吸うだけで良いです…」
「許可する」
それくらいならOKだ。最早。なぜ一緒にいるのかわからないが。
『対応出来ます』そう言って千秋はしょんぼりと大人しくこっちを見ないように膝を抱えて丸くなった。ここで普通のスペック高めの男ならばあっさり折れるだろうが、小市民の普通の中の普通のおっさんには関係ない。そんなサービスはしないぞ。
気にしないでマジで普通にアニメ見た。ほっこり系の見ても疲れないやつ。平和。癒される。
リアタイでアニメを平和に見終わっても千秋は丸くなったままだった。
「おい。そこの丸いの。もう伸びて良いぞ」
「………」
…寝てる。仮眠だな。初めて訪れた彼氏の部屋で即仮眠出来るのがすごい。いや。初めて訪れた彼女を完全に無視してアニメ見てたおっさんの方がすごいのか。しかし千秋は仮眠を取ると気力も体力も全回復するのだ。恐ろしい。さっきまでもかなり元気いっぱいだったけど。
無駄に良い奴アピールみたいな事はしたくはないが、とりあえず上に何か掛けてやるか。それとも中途半端に優しくしないでこのまま放っておいた方が良いだろうか。
迷う。
迷って。結局なにも掛けずにそのまま放置した。暑そうだったから。なんのための葛藤だったのか不明。
◆
仮眠なので彼女はそれから間もなく目を覚ました。もうアニメ見てないから良いぞと言ったら、千秋は正面から遠慮なく抱きついてきた。お腹の辺りにピッタリとくっついている。女子大生がおっさんにくっついて何が楽しいんだろう?不明だ。
「あれ?夏海さん少しタバコの匂いがするような気がします」
「吸うからな」
「…知らなかったです。見たことないです」
「隠れてコソコソ吸うんだよ。うわーあの人タバコ吸うんだーみたいな視線から逃れるという実にチマい理由でな。加熱式。バレない」
「吸ってみて下さい。見たいです」
「嫌だ。俺はタバコは一人でこっそり吸いたいタイプなんだよ」
「夏海さんの小市民…ケチ…」
「いや。逆に見てどうするのか知りたい」
「独占欲ですよぅ…」
「引くわ」
「なんで引くんですか。前のめりに来て下さいよ。さ。遠慮なく!」
前のめりとか無理だな。とりあえず無視して後でコソコソ吸った。
◇
「夏海さん。好きです。夏海さんも言って下さい。出来れば100回くらい。さ。遠慮なく」
どうぞ。遠慮なくのポーズだ。もう心からうんざりする。しかもかなり回数多めにリクエストしてきた。久しぶりに自分のテリトリーの中に他人がいるだけでも少し消耗するダメな大人だ。しんどい。
「そんな事を100回も言ったら最後の方かなり雑な感じになるだろ。あと何回だっけ?もう充分じゃね?みたいな。最終的に100回言うのが目的みたいな。そんな、言う方も言われる方もしんどい耐久レースみたいな挑戦はしたくない」
「大丈夫ですよ。100回言われてもちゃんと100回嬉しいのでお願いします!」
「無理だ。大人しくしてたら1回くらいは言ってやる」
「本当ですか!わかりました。お任せ下さい。対応出来ます」
ちなみに。千秋は黙っていると可愛い。ムカつくくらい。そんな可愛い彼女が部屋にいたので普通に手を出したら、前のめりに来て下さいと言っていたわりに緊張している。
「どうした?大丈夫か。やっぱりやめるか?想定の範囲内だぞ」
「なんでそんな事を想定したんですか!やめちゃダメです」
「いや。だってお前すごい緊張してるから。無理するな」
「無理じゃないです!さ。遠慮なく」
どうぞ。ウェルカムのポーズ。しかし微妙にぎこちない。千秋は死ぬほど自分からグイグイくるタイプで手を出されたくらいで急に緊張するような性格ではないと思うけど。むしろ逆に飛び付いてくるイメージだ。それなのに反応がなんか妙に初々しい。
調子が狂う。
「遠慮はいらないです。でも私こういう事は初めてなのでリードして下さいね」
「…ん??」
初めて?なにが?
「どういうことだ?」
「だから。処女なのでよろしくお願いします」
…処女?
「はぁ~?」
聞いてない。意味不明だ。
「な、夏海さんが怒った。レアですね」
「処女ってどういう意味だ?」
「あれ。夏海さん処女って知りませんか?今まで一度もセックスをした事がない女性という意味です。一般常識ですよ?」
「違ぇよ!処女の定義を再確認したいんじゃねぇよ。知ってるわ。あんなにグイグイ迫ってきて積極的かつ簡単に部屋まで付いてきて抱きついてきてまさか初めてだと思わないだろ。こんな可愛いのに」
「な、夏海さんに可愛いって言われた…!」
うっかり言ってしまった可愛いに喜んだ千秋が照れる。可愛い。いや。今の一番重要なポイントはそこじゃない。
「いや。そこはとりあえず流せ。その件はあとで落ち着いたらゆっくりな。お前。本当に初めてなのか?」
「はい。本当に初めてです。だってこんなに誰かをちゃんと好きになったの初めてなので。ちゃんと好きにならないとセックスしないですよね?」
ま。その辺は臨機応変にな。なんてリアルな事が言える雰囲気ではない。そしてなにより。
「重い」
「そ、そんなストレートかつ素直な暴言を処女に言ったらクレーム来ますよ?ここは普通に喜ぶポイントです。処女って重いですか?いや嬉しいよ(ムラ)!みたいな掛け合いが楽しめる見せ場のはずです」
「そういうサービスは対応しかねる」
「そこをなんとか曲げてお願いしますよ」
武士か。
「めんどくさい」
「処女に向かってめんどくさいはマジでマズイですよ!完全にクレーム来ちゃいますから!お願いします。処女が嫌ならさっさと処女じゃなくして下さいよ!」
処女が投げやりになった。なんか妙な煽り文句を言い始めた。言わせたの自分か。なんか気の毒になってきた。
「コラ。処女を粗末に扱うんじゃない。もっと大切にしろ」
「夏海さんにだけは言われたくないです」
ちゃんと大切にしたのでご心配なく。信じられないと思いますがどうか安心して下さい。
◇
「夏海さん。腕枕して下さい。あ。疲れるからダメですよね。逆に私がしてあげます。さ。遠慮なく」
「いや。してやる」
「い、いいんですか?」
ほら。ちゃんと大切にしますよ。みなさんかなり半信半疑でしょうが。急にデレるのは無理だけど。
「ほら。遠慮なく」
遠慮なくのポーズを真似してみた。彼女が秒速で飛び付いてきた。反射神経も良いな。飛び付いてきたのに妙に初々しい感じですり寄ってきた。そのギャップがムカつく。可愛いとか普通に思わされる感じが。
「夏海さん大好きです」
「…俺は一回しか言えないからな。まだ言わない」
「聞きたいですよぅ」
そのうちな。大人しくしてる時にでも。基本的に千秋は大人しくしていないので言うのはまだ先になりそうだ。
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