アパッチの呪文
ジム・ツカゴシ
第1話
ケンタッキー州は米国の中央部に近いミシシッピー河の東側に位置している。そのケンタッキー州のルイビル空港で辻健一はデトロイト空港向けのフライトに搭乗した。離陸した機体がミシシッピー河の支流であるオハイオ河を横切る。辻には見慣れた光景が窓の下に広がる。
前の座席の背からインフライト・マガジンを取り出し、パラパラとページを繰って斜め読みをしていた辻の目があるページをとらえた。タイトルにテキサス産ワインとある。そこにはいくつかのワイナリーが紹介されていてオーナーたちの顔写真が載っている。
そのひとつに辻の目が釘付けになった。写っている三十歳過ぎと思われる女性の名はジェニファー・シュミットで、ビッグベンド・ワイナリーのオーナーとある。
女の顔は以前と比べるとふっくらとしていたが、頬骨が高くブルーの大きな瞳は忘れもしない当時のままである。
あれから七年ほどになる。ジェニファーに出遭ったのは突然のことで、共に過ごしたのは金曜日の夕刻から日曜日の早朝までのおよそ一日半だけであった。しかも彼女とはベッドを共にしたわけではない。それにもかかわらず、その一日半の間に起きたことがつい先日のことのように鮮明に蘇る。
この間に辻は数人の女性と付き合う機会があった。ところが不思議なことに、より親密な関係にもう一歩という段階に差しかかると、あの一日半の出来事が忽然と脳裏に浮かびあがり、目の前の女性とより深い関係に進むことを躊躇させるのであった。こうして七年あまりが過ぎ去った。
辻が手にした雑誌の記事には各ワイナリーのウェブサイトと照会先の電話番号も掲載されていた。デトロイト郊外のホテルにチェック・インするや、辻はビッグベンド・ワイナリーの電話番号を押した。
商社の米国駐在員としてニューヨーク事務所で四年間に渡り非鉄部門の営業を担当した辻は、銅の取引で辣腕ぶりを発揮して業界では名が知られる存在になった。銅価格はロンドン市場の相場と米国の相場が入り混じり先物取引はリスクが伴うものの、優秀なトレーダーは大きな利益を生んでいた。しかし相場を見誤ると大きな損失を被ることになる。ある日本商社のニューヨーク駐在員が社内の内規を逸脱して相場を張り、巨額の損失をもたらしたことが日本で大きく報道されたことがある。
その辻に、ある日ヘッドハンターから、日米合弁企業の社長にという勧誘話が持ち込まれた。
その合弁企業とは、辻の取引先である米国の大手銅鉱山が、辻が勤める商社が属するグループ企業とテキサス州に設立した銅製品を製造する会社であった。その数年前に設立された合弁会社では事前の思惑に反して売上が低迷し、設立時に投下された巨額の初期投資を回収できずに累積損が膨らむ一方であった。そのため外部からあらたな責任者を起用しようと人材を求めていたのだ。
有力な取引先からの申し入れでもあったことから、辻の上司が日本本社の了承を得た出向人事が決まった。こうして辻はテキサス州の中央部にあるダラス市の郊外の合弁企業に出向を命じられた。
辻は商社に入社して五年目に高校時代のクラスメイトと結婚して一児をもうけていた。ニューヨークには家族を帯同していたが、猛烈社員の辻は出張で留守にすることが多く、家族を放りっぱなしの四年間であった。そのため、テキサスへの転勤に先立って家族は日本に帰国してしまい、辻は単身でテキサスに赴任した。
辻が社長に就任して三年目に合弁事業は単年度で初の黒字を計上し、五年目には累積損失の一掃が見込まれるほど業績を改善することができた。
その米国側の親会社では毎年関連会社の幹部を一堂に集めてグループ企業の業績を発表する会議を開いていた。その年は、親会社が傘下に持つ銅鉱山がその会場であった。
その銅鉱山はメキシコと国境を接するニューメキシコ州の西部にあった。辻は日本からの訪問者を以前に案内したことがある。銅の鉱脈を地上から掘り進むすり鉢状の露天掘りで、現場では世界最大のダンプトラックが動き回る。どのダンプもそのタイヤの直径は人の背の二倍を超える大きさで、運転席はビルの三階の高さに相当する。そのダンプが蟻のように小さく見える広大な現場だ。
グループ企業の代表者が出席する会議は、その露天掘りの現場から半時間ほどの距離にあるリゾートホテルで月曜日と火曜日に開かれる。日曜日の夕刻にはレセプションが予定されていた。
日曜日にダラスから飛行機便を利用する選択もあったが、それまでにテキサス州西部を訪れたことがない辻は、金曜日に休暇を取って車で出かけることにした。二泊を途中で過ごして、日曜日の午後に親会社が予約したリゾートホテルにチェックインすればよい。
テキサス州の南端に広大なビッグベンド国立公園がある。メキシコとの国境を流れるリオグランデ河に沿った国立公園で、ピューマに遭遇するほど野性味たっぷりの自然が保存されていると聞いていた。このビッグベンド公園の訪問も旅程に入っていた。
会社の業績が良好なため、双方の親会社の辻に対する評価は並々ならぬものがあった。すでに商社で課長待遇の資格を与えられている辻は、出向を解かれて商社にもどった際には然るべきポジションが設けられているはずだ。エリート商社マンの将来が約束されたようなものだ。
米親会社からは役員待遇で移籍しないかという非公式な勧誘も受けていた。
一方、独身寮で同僚たちと語り合った総合商社の責任ある地位とはまた別の世界が存在することも辻は知った。合弁企業のために、この数年、米国の親会社の傘下にある関連企業の経営者と接する機会が増えた。同年代のその多くの経営者がリスクを恐れずビジネスに果敢に挑む。米国のビジネスマンと素手で渡り合う世界に身を投じる選択もあるのかもしれない、と時には考える辻であった。
出向期間も六年になろうとしている。そろそろ身の振り方を考えねばならない。耳にしていた広大なテキサス西部をドライブしながら考えを巡らすこともこの休暇の目的であった。
米国を東西に横断するインターステート・ハイウェーには偶数の番号が振り当てられている。南北に縦断するハイウェーは奇数だ。
その米国を横断するハイウェーのひとつであるルート一〇は、西海岸のカリフォルニア州から東海岸のフロリダ州にいたる幹線道路だ。メキシコとの国境沿いを走る米国最南端のハイウェーでもある。
ダラスからルート二〇を西に進むと、テキサス州の西部でそのルート一〇に合流する。辻はルート一〇に合流するしばらく前の地点でルート二〇を南に降りた。この片側一車線のローカルのハイウェーがルート一〇を横切ってほぼ真っ直ぐ南に延びている。その終着点が国立公園の入口なのだ。
だがルート二〇を降りてからそこまでは、優に三時間の運転距離がある。その夜は途中にあるモテルに泊まることにしていた。その近辺では唯一のモテルだそうで、道路に面しているから見過ごすことはないと予約を入れた際の電話で告げられていた。
ルート一〇を過ぎて小一時間走った。その間に対向車は皆無で、辻の運転する車の前後も道路が延びているだけで、陽が傾きつつある周囲には丈の高い草が地平線まで茂る草原が続く。
エンジンを切ると、聞こえるのは草原を吹き抜ける風の音だけだ。太古から変わらない静かな世界が広がっている。人間がいかに小さなものか。両手を広げて大きく大気を吸い込む。
途中でこれから先にはガソリンスタンドがない、というサインを目にした。看板に偽りあり、と思われたが、燃料ゲージが半分を下回っていたので念のために給油をした。
してよかった。看板通り、行けどもガソリンスタンドはなかった。ガソリンが切れれば翌朝まで往来する車はないかもしれず、路肩で仮眠することになったであろう。
しばらく走ると、道路の先の地平線に車の非常灯が点滅するのが目に入ってきた。夕闇が迫りそこからではどのような車か識別できない。
やがて数百メートルの距離に近付くと、それはボンネットを開けたままの米国製の軽トラックであることが分かった。軽トラックとはいえ後輪がダブルの大型だ。
ドアーを開けて地上に降り立った中年の男が手を振っている。周囲にだれも目にしない荒野で辻は今までに会ったことのない男と対面することになる。万が一を考えてトラックをやり過ごしてその先で停車した。いつでも車をスタートできるようにエンジンを切らずに窓ガラスを降ろすと、その中年の男が歩み寄る。アメリカン・インディアンと白人の混血に見受けられる。
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