清潔の部屋
王子
清潔の部屋
姉の指が僕の胸をそっと突いたときから、黒い染みが見えるようになってしまった。
姉にその気があったのか、確かなことは言えない。ただ、姉が「ねぇ、」と人差し指で触れた時、その時の目が、ゆらりと僕を捕らえて離さなかった。口にしない代わりに、粘っこい視線が、ねだるような指先が、制服からじわり差し出された太ももが、僕の何かを欲していた。
爪の先に生えた毒針が脈打つ血管に伸びて、脳から脊髄から身体の隅々まで侵されてしまう。生々しく鮮烈に想像されて、姉の両肩を押して振り払った。
その日の夕食は外で、「こんなに美味しいイカスミははじめて」と上機嫌な姉に対して、激流が血管を流れ続ける頭が痛くて僕のドリアはいつまでも減らないままだった。
母が心配する横で、素知らぬ振りの姉。黒く汚れた唇に目が留まる。目を離せないでいると、口の端からガーゼに血が滲むようにして黒い染みが広がっていく。見たくないのに目は釘付けにされてしまっている。染みは上へ上へと伸びる。姉の鼻を覆い、頬を染め上げながら涙袋へと迫る。染みの境界線を追っていたから、そこで姉と目が合ってしまった。
一回やってダメだったからって、逃がすと思う?
すぐに目線は逸れた。
麺を口に運んでいるだけで、僕と目が合ったことにも気付いていないようだった。母も「食欲無いの? どうしたの」とコーヒーカップを傾けている。
ようやく動かせるようになった視線を姉以外に向けようと店内に走らせると、席のほとんどは埋まっていて、人混みの間を店員が忙しく歩き回っていた。
ドリンクバーで注がれるアイスコーヒーが、会計で手に握られた革財布が、卓上の呼び出しボタンの台座が、見つめ続けていればそこからまた黒い染みを生みそうで、目眩がした。
家に帰ると、カーテンの影が黒い染みを床に伸ばしていた。電気を消してしまえば体中が黒に塗りつぶされてしまうのではないかと恐ろしくて、カーテンを開け放ち、明かりを付けたまま夜を過ごした。
朝になればと期待していたのに、僕の目は相変わらずだった。ハンガーにかけられた制服は壁へと黒を伸ばしていて、こんなもの着られるわけがないと思った。
部屋の中を観察していて、気付いたことがあった。白いものからは黒い染みは生まれない。試しに、漫画を入れていた白いカラーボックスに制服を詰め込んで正面を壁に向けてみると、染みの侵食は収まった。そうなる理由は分からなかったけれど、気が安らぐのを感じた。
その日から、白いカラーボックスやら白い紙袋やらを母に頼んで買ってきてもらい、黒いものをことごとく覆っていった。ひとつ残らず目に入らないようにしたかった。黒は汚れを生む色、白は清潔にしてくれる色だった。部屋に白が一つ増える度、自分から汚れが落ちていく気がした。
学校に行かなくなり、部屋を白で埋めていく僕を、母は病院に連れて行こうとしたけれど、僕には何もおかしいところなんてない。部屋を清潔にしているだけ、自分の身を黒い染みから守っているだけなんだ。
そうだ、黒い染みの『元』も、白い袋に詰めてしまえばいいんじゃないか。
清潔を増していく白い部屋の中、僕は大きく深呼吸する。
ああ、いっそ、身体の中も白く塗りつぶせればいいのに。
清潔の部屋 王子 @affe
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