【1/逃げるなんて許さないぞ】




 明け方から吹き始めた強風は朝まで続き、如月綾子は窓を叩きつける風の音で目を覚ました。

 カーテンから覗く灰色の空をぼんやり見つめながら、己の隣の優しい温もりに口許を綻ばせる。



「……ふふふ、とうとうヤったわ」



 綾子は素肌に纏うシーツの冷たさや全身の、――何より腰の気だるさに、目的をヤり遂げた充実感を覚えながら全身をチェックする。

 足の付け根や乳房には吸われて鬱血した後、すなわちキスマークが広範囲に渡って散りばめられている。

 窓に薄く反射した自身の姿を見れば、首筋に情熱的についているのがわかった。

 さらに、部屋中に漂う独特の匂いや、お互いの体液で汚れバリバリになった自慢の黒髪が、昨夜の狂瀾を現実だと物語っている。

 夢じゃないのね、と。綾子は小さくガッツポーズをとった。

 玉の輿計画に大きな前進である。



「幸せそうに寝ちゃって……」



 綾子は、己と同じく隣で素っ裸で寝ている慎太郎に、嬉しさと愛しさと物欲が入り混じった表情を向けながら、髪を撫でる。

 街中ですれ違った女の子の半分以上が振り返るような、精悍の中に甘さも兼ね備えた端正な顔が、無防備な姿を見せているのに若干の優越感を覚えた。



 ――この男は、私のモノだ。



 長年求めてきた男が手に入ったからか、それとも寝起きだからか、喉のカラカラとして乾く。

 飲み物を探して、視線が男の首筋に行き当たった。

 慎太郎の首筋に八重歯を突き立てたい衝動を振り払う様に、一度だけキツく瞬きをし、彼の者の安眠を邪魔しないようにそっとベッドを抜け出る。

 綾子は吸血鬼だ。約一年前、母の死が切欠で吸血鬼に覚醒した。

 その事を慎太郎は知らず、だから、正体を明かすのは性急過ぎる、と。自分を戒めた。



 周囲に脱ぎ散らかした衣服を回収しながら、綾子は寝室を出てバスルームへと向かう。

 この部屋の主、北条慎太郎と如月綾子は幼馴染であった。

 幼い頃から一緒の学校に通い大学まで一緒の彼らであったが、その境遇は天と地ほどの差があった

 母親一人で育てられ、挙げ句、血を吸う『鬼』になってしまった綾子に対し、日本でも有数の企業、北条グループの御曹司として生まれ育てられた慎太郎。

 家庭環境の差以前に、人種の壁まで出来てしまった。

 だが長年の努力の甲斐があり、ただの幼馴染みから、一足飛びに肉体関係まで漕ぎ着けたのだ

 


(母さん、貴女の娘は女としてレベルアップを果たしました!)



 誤解無き様言っておくと、綾子は慎太郎の事が好きだ。愛していると言っても過言ではない。

 ただその感情に、働かず専業主婦として裕福に暮らす事が出来る玉の輿相手、という即物的な欲望が大いに足されているだけなのだ。


 彼女のゆったりと波打つ髪は、長いのが好みだと聞いた幼い頃から維持し、高品質を保つ想いの結晶のようなモノだし。

 そのちょっと露出多目だけどレースなどでふわふわとした、男が好きそうなお嬢様系の服やメイクも、須らく慎太郎の好みに合わせたものだ。

 大学で取る講義もゼミも、彼の進路に合わせ傍にいられるように選択している。

 一言で重いと称するには、回りくどくて肉食系過ぎる綾子の想いであったが、意外にもその先にあるのは純粋に慎太郎との幸せだった。



 御曹司である慎太郎には婚約者がいる。

 その婚約者、叶多芽衣は綾子の親友だ。

 芽衣は慎太郎以外の男に惚れており、婚約を嫌がっている芽衣とは色々と水面下で話しはついている。

 既成事実が出来た今、次は恋人となる事だ。

 できれば結婚まで話を持っていければなお良い。



「……これからが本番よ、綾子」



 綾子の緊張した声が、シャワーの水音にかき消された。

 慎太郎という男は、妙に義理堅く真面目な面がある。

 今までは世話焼きの兄と手のかかる妹的な、一次接触の消滅した熟年夫婦的な、コテコテの幼馴染みの関係だったが、今回の事で綾子が女であるという先制パンチを与える事が出来た筈だ。

 結果からみれば、少々効き過ぎたきらいはあるが。


 ともかく、――もし失敗したら、次はないかもしれない。

 どうしようもなく消せない不安に、吸血鬼であるが故に感じる水への忌諱感、チクチクと刺さる痛みが加えられ、綾子は不快そうに眉を潜めた。

 心臓が大きく鳴り、吐く息は重く、横隔膜に震えるような引きつりを感じ、プレッシャーで目の前が今にもグルグルと回りそう。

 なんで吸血鬼になってしまったのだろう、この先、恋人になっても化物だとバレたら拒絶されてしまうのではないか、と後ろ向きな思考が脳裏に入り込む。



 覆水盆に返らず、後悔先に立たず、溢したミルクは戻らない。

 いや、彼のミルクは己の腹の中に注がれたけれども。

 ともかく後悔は後でする事にしてまずは進むべしと、シャワーの水を我慢しながら、綾子は現状の再確認を始めた。



 吸血鬼として覚醒してから、過保護な父と兄のせいで一年ほど疎遠になってしまった。

 慎太郎にしてみれば、母親の死がショックで立ち直れず疎遠になっていた、という認識だろうか。

 だが昨日、芽衣のセッティングで慎太郎と二人っきりの飲み会をしてみれば。

 妙に苛立った彼に、避けている事や男の取っ替え引っ替えが激しいだとか、今まで見せてこなかった男の面をもろ出しにして詰め寄られて、パニックになり誤魔化すように酌をし何杯もグラスを傾けてしまった。

 乾杯のビールをジョッキで一杯開けたあと、飲みやすそうなカクテルに手を出し、続いてハイボールにも手を出した所までは、理性が働いていた事をはっきりと憶えている。

 が、その後の記憶は……思い出したくない。


 久しぶりに会って気が弛んだのか、アルコールと取り過ぎたのが原因か。

 恐らくはその両方だろう、自分が吸血鬼であるという一点以外、余すこと無く吐露しまう醜態を晒してしまった。

 挙げ句の果てに、朝チュンである。

 吸血鬼になって強化された筈のアルコール分解能力が働かなかったり、慎太郎がベットヤクザだったり、初めてなのに躰の隅々まで快楽の弱点を知らされてしまった事とか。

 超嬉しいが、色々と無かったことにしたい。是非したい。

 初めては、もっとロマンチックにいきたかったのに。



「それにしてもこの一年の間で、慎太郎はどんな噂を聞いていたんだか……」



 綾子はシャワーの水温を凄く熱いと感じるぐらいに上げ、頭から浴びる。

 一年前であったら、堅物の慎太郎は責任を取って綾子と結婚すると言うだろうが、昨日の言動を見る限り確実とは言えない。

 他の男にも股を開いていたとか誤解をされないためにも、しっかりと話し合うべきだろう。

 ヤり捨てされたとか、結婚まで行けても愛の無い結婚生活が待っていたとか、洒落になら無い。



「……致命的に情報が足りないわ」



 取り敢えずは芽衣にメールをして、情報収集しておくべきだろう。

 また、好感度を稼ぐ為に朝御飯を用意して、可愛いエプロンを着た姿で慎太郎を起こす事もしておきたい。

 その為に今必要なのは、時間。

 そう思考した瞬間、ぐぅ~っと綾子の腹が空腹を訴え戦意があっけなく霧散する。

 食欲だけではない、血を求める躯の欲求。

 綾子は自身に巣食う餓えから目を反らすように、声を出す。



「ああー、うん。……とりあえず、コンビニで何か甘いもの買って来よ」


 

 ここに居たら、彼が死ぬまで血を吸ってしまうかもしれない。

 

 ――今だって、口の中の涎が止まらないのに。


 今にも欲望に負けてしまいそうなぐらい、血に焦がれたままふらふらと浴室を出て着替える。



「替えの下着もいるわね。後、芽衣には連絡入れとかないと……」



 この欲望に流されてはいけない。

 綾子は本能と必死に戦いながら、玄関を開けて外に出た。



 ■



 外の天気は部屋の中で感じた時よりも風が弱く、また、鬱陶しいような曇天であった。

 雪にでも降るのだろうか、湿った空気の匂いは刺すような冷たさを併せ持ち。

 コンクリートの建物と空の灰色が、稜線をかき消して、町行く人に諦めにも似た憂鬱を与える。

 そんな朝なのに、綾子はどこかほっとした様にマンションのエントランスを後にする。



 最寄りの駅へ徒歩十分しかも信号なしで直線一本、そんな好条件の立地だからだろか、サラリーマンやOL、学生といった面々が早朝にも関わらずポツリポツリと、しかし絶え間なく駅への道を歩いていた。

 これが夜ならば綾子は、健康そうでさらに女慣れしていないサラリーマンやカワイイ系男子学生を、魔眼というにはショボすぎる軽い暗示能力を使ってお持ち帰りし、美味しい食事を奢ってもらった後、無許可献血してもらいハイサヨナラするのが最近のパターン。

 実際のところ、昨晩、慎太郎とお楽しみだったお陰で血を飲み損ねた為そうしたいのが半分、余韻に浸っていたい半分である。



 尤も、一日ぐらい吸血しなくても生存には全く問題なく。

 どちらかというと、今この時間に外を日傘無しで出歩いている事のほうが問題だ。

 実を言うと、吸血鬼になってから日光に火傷するような痛みを感じるようになってしまった。

 UVカットの日焼けオイルやメイクなどは用を為さず、主に日傘などで物理的に遮断するより他はない。

 そして悪いことに、綾子は昨日の店に傘を置き忘れてしまった。


 今朝のこの曇り空は不幸中の幸い、いやプラスマイナスで換算するとややマイナスだろうか? などと考えつつ、駅前のコンビニに入る。

 綾子は、いらっしゃいませー、と。店員の間延びした声に迎えられながら、迷いなくスイーツのコーナーに行って、チョコサンデーを探す。

 朝から菓子というのも些か不健康な食生活だが、食べたいときに食べたいものを、を信条している彼女にとって気にするまでもない。

 無論『カロリー』という、吸血鬼になっても立ちはだかる重大な問題もあるのだが、それはそれ、これはこれである。

 甘いものでも食べないと、やっていられない。 



「結局の所、±0になればいいのよ」



 人生の帳尻というのは、最終的に見ると±0に行き着く。

 それが、綾子の人生観であった。


 小さな失敗をすれば、小さな成功が待っており。

 大きな幸運の後は、大きな不運が待ち受けている。

 父は違うらしいが、綾子が吸血すると吸った相手の体の不調まで吸いとってしまう。

 吸血鬼としての肉体が移された不調をすぐさま打ち消すとは言え、気分的には差し引きゼロだ。


 また、貪るように周囲の人々から愛をかき集めていた母は、その愛ゆえに後ろから刺されて死亡した。

 だから吸血鬼になった事も、いずれ何らかの揺り返しがあるのだろうし。

 故にカロリーを多めに取ったならば、後で絶食でも何でもして消費すればいいのだ。

 決して、欲望を優先し、問題を先送りにするなどというダメ人間的行動を取っている理由ではないのだ。断じて。



「――±0になっている所なんて、見たことがないよ綾子」

「~~っ! 慎太郎!」



 背後からかけられた声に、綾子は反射的に走り出そうとし。

 そうする前に伸ばされた大きな手で、がっちりと肩を掴まれ逃亡に失敗した。

 強引に振り向かされ相対すると、部屋にいる筈の慎太郎の姿。

 身長160の綾子からは、180ある慎太郎と視線を合わすには見上げる必要があり、彼が不機嫌だとなお一層、圧迫感がある。

 ここでの遭遇は全くもって想定外だった綾子は、彼を誤魔化すための演技も出来ず。

 後ろめたいことがありますと、言わんばかりに目をそらした。



「逃げるなんて許さない」

「ええと、その。慎太郎? 何か誤解がある様だけど……」



 見え透いた受け答えをする綾子に、慎太郎は油断も好きも無いと視線を送り、手をしっかり繋いで出口に連行する。

 すわ痴話喧嘩かという周囲の客や店員の視線が、ちょっと痛い。



 綾子は慎太郎の考えを読み取ろうと顔色を伺うが、普段、凛々しくて爽やかな、ともすれば王子様とでも呼んでも過言ではないのに。

 その美貌がむすっとした口と暗い光を覗かせる瞳という、十年以上の付き合いだが始めてみる表情にただ驚くばかりだ。 



(ええええええぇぇぇぇぇ!! 何で? 何でここにいるの!? 寝てたんじゃないの! 逃げるって何さ! っていうか、その責めるような目付きもカッコいい……、ゾクゾクしちゃう!)



「ま、待って。まだケーキ買ってない……」

「朝っぱらからそんなもの食べるな、綾子」



 前と同じ様に、食生活の乱れを注意する言葉。

 その癖、ともすれば抱き締められても可笑しくないような気迫で、固く繋がれる手。

 普段、婚約者の手すら触れようとしない姿からしてみれば、大きな変化だ。

 それが余りにも急すぎて、わからないわ、と。小さく呟いた綾子は、つい強硬な態度を取ってしまう。

 今は兎に角、落ち着く時間が欲しい。



「……嫌、買うの。今食べるの」

「綾子」

「や」

「……」

「嫌よ」

「……はぁ、わかった。とっとと買ってこい」



 重なりあう視線。

 慎太郎の少し澱んだ目に、重く棘のある声に。

 綾子は怯みながらも耳をゾクゾクさせる感覚に内心身をくねらせる、という器用な事をしつつ拒絶の意を表す。

 そんな綾子の心など読める筈も無く、買うまで梃子でも動かないと駄々をこねる子供のように頑なな態度に、慎太郎は折れた。



 てってって、とデザートコーナーに向かう綾子を見て、慎太郎は溜め息をつく。

 何が悲しくて、初めて抱いた女が起きたときにベッドどころか、部屋の何処にもいない等という羽目に陥るのだろうか。

 普段の欲望まみれの行動を見ていればそんな気はしないのだが、綾子という女は外見通りに儚くて、しっかり捕まえておかないとふらりと消えてしまいそうな、そんな危うさを感じさせる。

 無論、慎太郎とて彼女がこんな時に逃げてしまうような女で無い事は、百も承知であるが、それでもつい追ってきてしまった。

 


 綾子の知らない、気付いていない事では有るが、慎太郎は綾子にベタ惚れだった。

 ……多少、やや、控えめにいってホンの少しではあるが、精神の均衡を崩すほど超危うい位にはベタ惚れだった。

 尤もそれは、綾子の外出が制限されていたここ一年の間で発露した想いであるから、彼女が関知しないのも当然の事ではあるが。


 慎太郎という人間は女心に鈍い男であったが、ベタな事に綾子が側を離れた事によって、彼女がどれだけ己の心を占めていたのか、身に染みて知ったのだ。

 それは、毎日の様に部屋に上がり、手料理、掃除、洗濯、ゲームの相手から勉強のサポートまで、性交渉の無いだけで実質的に内縁の妻とまで生活に入り込んだ、綾子の努力の賜物ものとも言える。


 兎にも角にも、慎太郎が恋心に気付いたときには時期が悪く、綾子は過保護な新しい家族によって家に半ば軟禁状態で、大学にも来ず、また密かに引っ越ししていたため、家に押し掛けてももぬけの殻。携帯は解約され通じない。

 伝えられない想いに苦しくて、逃れるように芽衣に世話してもらっても、その行動一つ一つに綾子の残り香を感じてしまい、心の穴は広がるばかり慎太郎は揺れに揺れた。


 さらには、大学中に流れる綾子が男を取っ替え引っ替えしていると言う噂。

 止めとして、昨日久し振りに会った綾子には、確かに薬指の後が。

 遂に慎太郎の自制心とかあれやそれは、アルコールの力もあって一気に吹き飛んだ。

 結果的に、嫌がられる事無く結ばれることが出来たからいいものの。

 起きたら何処にもいない、この始末である。



 それにしても、と。慎太郎は訝しんだ。綾子自身は気付いていないだろうが、彼女が甘い物を欲する時は、何かを誤魔化す時や窮地に立ったとき、嘘をつく時だ。

 第一。酔った勢いとは言え、バレンタインチョコはわ・た・し(はぁと)をやらかし、重すぎる愛情を散々聞かされた上、芽衣より私を選んでと無条件降伏で肉体を明け渡し、遂には赤ちゃん欲しいのとまでのたまったのだ。

 此方とてそれを受け入れたのだから、今更何の不都合があるのか?



 そんな慎太郎の思いを余所に、綾子はショートケーキを手に取った。



「チョコケーキ売り切れ……」



 先程は気が付かなかったが、置いてあるケーキは全部普通のショートケーキで、お目当てのチョコレートクリームを使われたケーキが無く、購買意欲をガリガリと削る。

 しかし慎太郎に買うといった手前、買わないという選択肢は無く、また店員に訴える気力も無い。

 さらに綾子を落ち込ませる要因として、バレンタインのフェアが終わり第二目標のミニチョコサンデーが、POPすら撤去されている事が挙げられる。



「ついてない……」



 綾子は嘆いた。

 そういえばバレンタインチョコはどうしただろうか、いや、今年も無事渡したんだっけー。

 事実を述べるならば今回はなんと、口移しであーん。で食べさせる事に成功しているのだが、回想するには残念桃色過ぎる顛末に溢れているため記憶の隅へ、やや遠い目をしながらレジでお金を払う。

 ぶっちゃけ、慎太郎の性豪っぷりには着いていけそうもない、あんなのを毎回毎回するなんて壊れてしまう、色々と。

 早まったかしら、と、ぼやいてしまう。



「ん」

「買ったなら帰るぞ」



 レジ横の入口で待っていた慎太郎と合流した綾子は、手を強引に繋がれて帰る。

 お互いに無言、強引な慎太郎に思わず胸をキュンキュンさせてる綾子、不満そうな慎太郎。

 

 綾子は、好感度あがる行動を模索するが空回りし。

 慎太郎は、噂と現実のギャップに戸惑う。


 互いにの思いが読めず前途多難だと溜め息吐く二人を慰めるように、朝の街に雪が降り始める。

 綾子は慎太郎に答える様に手に籠める力を強くし、体を寄せた。


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