図書室のエリィさん

和鳳ハジメ

エピソード1 オマジナイ



 その学園には天使が一人いた。


 放課後の図書室。その受付に座る妙齢のの司書。


 物静かに本を読む姿に、差し込む光に照らされ浮かぶエンジェルハイロゥ。


 誰もが大和撫子と想起する、射干玉色の長い黒髪。



 大輪の華に群がる蝶の如く、彼女の周りには人が集まると思いきや。


 彼女が常駐するのが図書室であるという点と、高嶺の花を感じさせる可憐さが、生徒達を遠巻き気味にさせていた。



 そして此処に一人、周囲の空気をものともしない上、図書委員でもないのに受付の奥に我が物顔で居る小柄な女生徒。


 日本の学生としては風変わりとも言える、絹の様な銀髪と浅黒い肌な少女。



 彼女は天使とも渾名されるこの女を、後ろから眺めるのが好きだった。


 図書委員ではない、天使にとって特別な彼女だからこそ観れる光景。



 手元の書類文章に顔を傾け、視線とともにゆっくり揺れる頭、合わせて微かに靡く艶やかな黒髪。


 隙間から漏れ見える、白い健康的な首筋。


 その芸術品の様にきめ細やかな肌に、女生徒は思わず嫉妬混じりの熱情を覚え手を伸ばした。



「ダメですよ、エリィ」



 振り向かず放たれた言葉は、その文言と裏腹にとがめる気のない柔らかな物言い。


 エリィと呼ばれた銀髪の少女は、からからと笑い、その深い褐色の指で天使の首肌をなぞる。



「あらいいじゃない。あたし、小夜子さんにこうスるの好きなのよ」


「ふふっ、エリィは甘えんぼさんなんですから」



 小夜子と呼ばれた天使も、くすぐったそうに軽く笑うのみで、特段拒否も忌諱もしない。



 ――――二人は、特別な関係だった。



 生徒と教師の関係ではない。


 年の離れた友人とも違う。同性同士の友情の先にある、毒混じりの蜜の様に甘く、密やかな不道徳。



「もう仕事は終わったんでしょう? まだ何かあるの?」


「ええ、次に入荷予定の本を確認していただけです。後は見回りだけですよそれが終われば……い、いえ! 何でもないです!!」


「ふぅん、それが終われば……なぁに?」


「もう、エリィの意地悪……」



 小夜子の首筋から、襟元へ。


 薄紅色の花を摘むように伸びる、やや浅黒く幼さが抜けない手を。


 小夜子は自身の手をそっと重ね、指を絡める。



「好き、好きよ小夜子さん。……ずっと触れていたいのに」


「わたしもずっと、こうしていたいです……、でもお仕事がありますから」


「ふふっ、いつもいつも真面目ねぇ小夜子さん」


「誉め言葉として、受け取っておきます。でも、……エリィも偶にはちゃんと授業に出ないといけませんよ」


「そうね、大っ嫌いって言ったら出ることを考えるわ」


「もう。じゃあエリィは、ずっと授業に出れないじゃないですか」


「好きだって、受け止めても?」


「うふふ。さぁ、知りません」



 交わされる睦言は愛情の表れか、それとも不安が滲み出たものか。


 頭の片隅でそんな益体も無いことを考えながら、エリィは小夜子の黒髪にそっと口付けを落とし、彼女の回転式の椅子を回して相対する。



「おいで、わたしの黒猫ちゃん」


「にゃん、とでも鳴けばいいのかしら」



 クスクスと笑いあいながら、エリィは小夜子の膝に横向きに座り。


 そして子猫が飼い主にそうする様に、天使の唇へ顔を寄せる。



「だーめ。口紅が落ちちゃいますので、また今度」


「あら、残念」



(嘘つき。そうやって、いつもはぐらかす癖に……)



 でも、そんな所も好きよ、と。エリィは心の裡で呟いた。


 禁断とも言える関係に在りながら、良識を捨てきれない堕ちた天使。


 そしてそれは、小夜子がエリィに対して良くも悪くも真摯だという事。



(―――だからこそ、愛おしい)



 唇だけはまだ許してくれない辺り、エリィが想うのと同じくらい、一糸乱れてはくれないのが、少しだけ、ほんの少しだけ残念だけれど。



「……好きよ」


「ふふ、この時間になるとエリィは何時も甘えたですね」


「きっと、夕日の所為よ」


「そういう事に、しておきましょう」



 薄っすらと赤めき始めた夕日に責を押し付けると、何故だか本当に淋しくなって、エリィはぎゅっと小夜子に抱きついた。


 母親の手を離そうとすまいとする、幼子の様なエリィの行いを、小夜子は慈愛に満ちた抱擁で返答した。



 そうして暫く時間が経った頃、遠き山に日は落ちて、のメロディーが流れ始める。



「そろそろ、見回りに行かなくては……残念ですけど、降りてください。ね?」


「んんー。あと三十分はこうしていたいわ」


「駄目ですよ。最近、何故か居残ってる生徒たちが多くて、きっちり見回るように言われてるんですから」


「……前から疑問だったんだけど、小夜子さんって司書よね。何で図書室に関係ない雑用とか見回りやってるの?」



 エリィは不満そうな口振りでそう言うと、制服の胸元を少し緩めた。


 それに気づかず小夜子は、説明しましょう、と。疑問に答える。


 どこか幻想的で浮世離れした風貌を持つ彼女だったが、意外と知りたがりで、教えたがりだ。



「この学校は私立ですから、司書といえど立場は他の教職員や事務員等と同じ、一種の会社員みたいなモノなんですが――って、聞いてます? エリィ」


「国公立と違って公務員扱いじゃないから、雑用も仕事の内って言われると逆らえないんでしょ」


「なんだ、知ってるんじゃないですか」


「知らなかったわ。ただ、ほんの少し推測しただけよ」


「……それが出来るなら、今のわたしの気持ちも推測してくれませんか?」



 小夜子の溜息と苦笑いの混じった、まるで幼子をあやす様な“大人”の言葉に、エリィの心は、カチンと音を立てて癇癪を起こした。


 六年。


 そう、六年なのだ。エリィと小夜子の年の差は。


 例え心で繋がって体で物理的な距離を詰めても、どうしようも無く埋まらぬその差は。


 普通の生徒とは言いがたいエリィに、より一層、深い溝を感じさせた。



(寒い。何だか、とても寒いわ――)



 たった今まで穏やかな温もりに包まれていたエリィの心が、急速に冷えていく。



「……小夜子」


「エリィ?」



急に固い声を出したエリィに、小夜子は怪訝な顔を向ける。


そこには凍てついた視線と、妖艶に微笑む少女の姿があった。



「――――いいですよ、来てください」



 劣等感、それとも不安か。


 羨望に塗れた醜い劣情に流されそうとするエリィに、小夜子は微笑んだ。


 貴女の全てを受け入れると、暗にそう言って。


 激情に火がつき始めたエリィは、小夜子の頬に手を伸ばす。



 ――それはきっと、端から見れば天使の慈愛だったかもしれない。



 そしてエリィから見た姿も、“そう”映っていた。


 しかしその本質は真逆であると、他ならぬ小夜子だけが知っていた。



「小夜子ぉ……」


「ふふっ、校内なんですから、あまり激しいのはダメですよ」



 膝に乗ったままのエリィは、左手で小夜子の顎のラインを撫で、右手の中指で唇をなぞり。


 その指で、自らの唇を慰撫する。


 仄暗い光で爛々と輝き始めるエリィの、青の瞳。


 為すが儘にされる小夜子は、その様に下腹を疼かせ始めた。



「ねぇ、好きでしょう? こういうの。小夜子はヘンタイだものね」


「……変態じゃ、ありません」



 一歩遅れて出された小夜子の声は、少し、掠れて。


 その視線はエリィの緩んだ胸元から見える、黒の下着と褐色の肌のコントラストに釘付けであった。


 見惚けている事に気づいた小夜子は、顔だけでなく全身を薄緋色に染め上げながら、恥ずかしそうに視線を外す。



「おませさんですねエリィは。わたし的には、まだ早いと思うのですが……」


「ウ・ソ。未成熟な体にスケスケな下着の組み合わせが好きだって、あたし知ってるのよ」



 クスクスと扇情的に笑うエリィに、小夜子は得も知れぬ感情に襲われた。


 自覚の無かった性癖を看破されている己の浅はかさを恥じ、同時に、年端もいかぬ少女を好みに染めているという快楽。


 ――背徳という、精神を侵す危険な蜜。



「こっちを見なさい、小夜子」



 小夜子の小さな女王となったエリィは、自身の幼さの残る小さな唇を、舌をくねらせてなぞって見せつけた。



(ああ、きっとわたしは――)



 暗い、昏い、蒼の眼。


 何より小夜子を強く求める、純粋で本能剥き出しの目。


 小夜子をどうしようもなく狂わせる、瞳。



 欲しくなる、この少女の魂と呼ぶべき何かを。



 ――わたしは、天使なんかじゃないのだ。下賎で悪い女。


 小夜子はそう心で毒づいた。


 エリィが“証”として、唇を求めているのは解っている。


 けれど……。



(今日はどういう言い訳をして、唇だけを拒みましょうか。――それとも受け入れたら?)



 エリィの傷つき曇る顔と、喜ぶ顔を同時に想像し欲望の天秤に掛ける。


 乱されて行く自身の胸元を許容し、彼女の華奢だが柔らかい太股に触れた瞬間。



 ――――ガタン。



「開けてよエリィー。まだ残ってんでしょー?」


「――ひぅ!」「――はわっ!」



 廊下から響き渡る、能天気な大声。


 幸いにもというか計算通りというか、立て付けの悪い扉は開かなかったが、二人は飛び退く様に離れ。


 小夜子は扉に背を向け慌てて胸元を直し始め。


 我に返ったエリィは恥ずかしそうにしながらも、そんな天使を、自身の体で隠すように扉へと向かった。





「なんだー! やっぱ居るんじゃん、本好きなのは知ってるけどさぁ。このドア立て付け悪いんだから居るなら開けといてよえーりりん!」


「妙な名前で呼ばないで弓美、あたしの事はエリィって呼びなさい」


「堅っ苦しー、事言わないの! おっ邪魔しまーす」



 ガタガタとドアを開けた向こうには、声の印象と違わない“軽い”少女、片桐弓美の姿があった。


 薄い茶色に染められ、先端で巻かれたセミロングの髪。


 手首には何やらじゃらじゃらとアクセサリー、短くされた制服のスカート。


 今時の女子高生、それが、エリィの親友でもある彼女だった。



「で、何の用なの。また厄介事じゃないでしょうね」


「いやー、ちょっと有馬センセーから頼み事されちゃってねー。お知恵を拝借って感じ?」


「……アンタ。それを厄介事っていうのよ」



 エリィってば冷たーい、と。ケラケラと笑う弓美に、エリィは大きく溜息を吐いた。


 この片桐弓美という少女は、遊んでいる見かけで、その実、結構遊んでいるのだが。


 意外なことに学年二位の成績を誇る才媛で、学級委員長も勤める真面目屋だ。



 同じクラスでありながら、図書室登校を繰り返すエリィを見捨てずに、ことある事に世話を焼く面倒見の良さもあったが、唯一、エリィの方が心配になる欠点があった。



「ねっ、エリィ。アタシ一人じゃちょっと手に負えそうにないの! 一生のお願いっ!」


「安いわね、アンタの一生のお願い。前にもここで聞いたわよ」


「てへへ」



 拝むように手を叩いた後、上目遣いで屈託無く笑う弓美に、エリィは人として正しい輝きを見た気がした。



(何でコイツは、四六時中キラキラしてるのかしら……?)



 浮かび上がった嫉妬混じり疑問に、エリィは直ぐに答えを出した。


 それは彼女の欠点であり、ある意味長所とも言える性質。



 ――恋ね。



 エリィから見て、弓美は恋い多き女だった。


 それもエリィの様に道ならぬモノではない、真っ当な、正しい男女の恋愛。



「アンタ、今度は誰に恋したの?」


「あ、判っちゃう?」


「判かるわよ、そんなの。アンタが放課後のこん時間に来る時は、決まって新しい恋でもした時じゃない」


「いやーん。エリィったら流石アタシの親友ね。言わなくても解るって素晴らしい……!」


「あら、片桐さん今度は誰を好きになったんですか? ね、ね、わたしにも教えて下さいよ」


「…………アタシはエリィと話しているんです司書さんには関係ないです。引っ込んでいて下さい。ついでにエリィとの距離が近いです、最低二メートルは離れて下さい」


「片桐さんのいけず……」



 しょぼんとする小夜子に、ツンとなる弓美。


 仕事をしていフリをしていたが、恋バナに思わず食いつき、エリィの背後に現れた小夜子に。


 弓美は彼女から引き剥がす様に、エリィを抱き寄せて数歩下がる。



 エリィには理由は解らないのだが、小夜子と弓美は仲が悪い。


 基本名前で呼ぶ弓美にしては珍しく、司書と役名で呼ぶ程だ。


 と言っても弓美が一方的に邪険にしているだけで、小夜子の方は仲良くしたいらしく、話しかけては撤退を余儀なくされているのだが。



(それにしては――?)



 ガルルと、子犬が唸るような声を上げ始めた弓美を、エリィは観察する。



(少し、可笑しいわね。何時もならもうちょっと、もうちょっとだけ対応が柔らかい筈だけど……)



 睨む程仲が悪かったかしら? と弓美に抱きつかれたままエリィは首を傾げる。


 小夜子とは、学校にいる間はずっと一緒にいる。


 彼女と弓美に、何かがあった記憶は無い。


 となると、あくまで弓美側の問題。


 エリィは図書室に来てからの弓美の言動と、彼女の性格から推理した。



(まぁ、わざわざ推理という程のモノでも無いわね)



 弓美の腕の中のまま、さして悩まず結論に至ったエリィは。


 未だガルガルした空気を出す弓美の手をポンポン、とタップして注意を引く。



「ねぇ弓美。アンタの新しく恋した人って、もしかしてあり――」


「――ちょ! ちょっと、廊下! 廊下で話そっ! エリィ!」



 ――詰まるところ、そういう事だった。





「…………ちょっとエリィ。アンタ何でその事知ってるのよ!?」


「顔が近い……。それで“それ”、本気で聞いてるの?」



 廊下に引っ張り出されたエリィは、少し先の階段の踊り場の壁に押しつけられる。


 これが噂の壁ドン? などと、暢気な感想を言う暇もなく、弓美に両肩を掴まれ睨まれた。


 他に誰もいないというのに、ひそひそと小声で話すあたり、先ほどの答えは“当たり”という所だろう。



「はっ! もしやアンタも有馬センセの事――」


「馬鹿言わないで、アンタじゃあるまいし。なんであんな暑苦しいのを……」


「有馬センセは暑苦しいんじゃないの! ただ人よりちょっと熱心なだけなんだから!! まぁ、そう所にキュンって、来ちゃったんだけどね~」


「体をクネクネしないで見苦しい……まったく。恋愛スイッチ入ると、相変わらず面倒くさいわねアンタ」


「常時面倒くさい女の、エリィに言われたくなーい」



 “面倒くさい女”というワードに、ガーンと軽いショックを受けたエリィは、じとっと、粘着質の何かが混じり始めた目で弓美を睨む。


 ――こういう所が、弓美のいう面倒くさい所なのだが、本人が気づいていないのでどうしようも無い。



「あー、よしよし、メンゴメンゴ。アタシが悪かったって。んでさ、一つ聞いていい?」


「ああっ! もうっ! 乱暴に頭を撫でるな馬鹿…………で、何よ?」



 エリィの様子を、カラカラと笑い飛ばした弓美は、急に真剣な目をした。


 仕様がないわ……と機嫌を直し、エリィは先を促す。



「本当のホントーにっ! 有馬センセの事、好きじゃないのね」


「……有馬先生には色々迷惑かけてるし、便宜もはかってもらってるけど。強いて、強いて言うなら、あくまで担任教師としての親愛の情しかないわよ」


「……本当に?」


「くどい」



 呆れた顔をエリィが向けると、弓美は漸く納得がいったのか、安堵の溜息を出した。



「うん。ならいいの。アタシ的にも、同じ男を取り合うのは遠慮したいし」


「そう言うのだったら、もっと清潔そうで芸術品の様に整った男を連れてらっしゃい」


「それって、顔の事?」


「体も入れといて」



 エリィは面食いなんだー。とニヤニヤと笑う弓美に、話はそれだけね、とエリィは図書室に戻ろうとする。


 そこそこ長い付き合いだから解る、この場合、これ以上ここに止まっていると、面倒事を頼まれると。



「あ、待って! まだ本題に入ってない!」


「嫌よ」


「そう言わないで、話だけでも!」


「早くしなさい、……でないと小夜子さんが帰っちゃうじゃない」


「……アンタ、あの司書好きねぇ」


「何を言うの、あんな綺麗なヒト。好きじゃない人のほうが変だわ」


「や。その本気の目、怖いからねエリィ」



 あ、あら? と目の回りをペタペタと触り始めたエリィに、弓美は話し始める。



「最近、放課後の下校時刻まで残ってる人が多いの知ってる?」


「ああ、そんな感じの話を。さっき小夜子さんから聞いたわね」



 ムニムニと、顔面マッサージをしながらエリィは答える。



「……アンタの顔はもう大丈夫だから、ちゃんと聞いてったら」


「ホント? ならいいけど。それで?」


「それがね、職員室でちょっとした話題になってるのよ」


「ああ、有馬先生が食いつきそうな話ね」


「でしょー。んで、僭越ながらこのアタシが、その調査を買ってでたって訳よ」



 えへん、と大きな胸を張る弓美のソレを、ギロっと一瞬睨みつつ、エリィは一歩踏み込む。



「その心は」


「モチロン下心――ってエリィ! 委員長として、委員長としてよ! まぁ、それも無いこともないけど……」


「はいはい」


「もーっ! 茶化さないでよっ! ……ふふん、とっておきの話があるのに、言ったげない」


「とっておき……?」



 胸の下で腕を組み。無意識だろうか、年にしては大きな胸囲を殊更に強調して偉ぶる弓美。


 苛っときたエリィは、その柔らかそうなソレを、ムニムニっと揉みしだく。



「ひゃっ! や、やぁん!! い、いきなり揉むなぁ!」


「うりうり、うりうり、もったいぶってないで、その“とっておき”とやらを、とっとと吐きなさい!」


「あんっ! もうっ! わかったから、わかったからって!」


「ふん! 解ればいいのよ、解れば」



 もー、と。胸をガードし、軽く赤面しながら弓美は続けた。



「んんっ! こほん。……ここだけの話ね、有馬センセって、あの司書狙いっぽいのよ」


「……それ、本当?」



 二人は思わずしゃがみ込み、より顔を近づけてひそひそと話す。



「マジマジ、ここん所、アタシずっと一緒にいたけど、あの女が視界に入ると、ちょっとマジっぽい目で見てたもん」


「……弓美がそういうなら、そうなんでしょうね。でも、小夜子さんは恋人いるって話よ」


「……あの女と一番近いエリィが言うなら、そうなんだよね」


「……」


「……」



 二人、無言で向かい合う。


 そして、どちらともなく右手を差しだし、堅い握手を交わした。



「どうせ、何か頼み事あるんでしょう? 依頼料として缶コーヒー一本、成功報酬として、何でも一つ言うこと聞いてくれるっていうなら、受けてあげてもいいわ。(小夜子さんに有馬先生が近づかなくなるなら、受ける価値はあるわ)」


「……足下みるわねエリィ。ま、いいわ。それでお願い。あの司書に男がいるって言っても、恋愛に絶対はないんだからね、それに……うふふふっ」



 何やら幸せな妄想を始めて、顔をはしたなく緩ませた弓美に一言告げて、エリィは図書室へと戻った。


 この後、直ぐ行動に移すという事になったからだ。



「――と、いう事だから。また明日ね、小夜子さん」


「はい、また明日。エリィ」



 それじゃあ、行ってきますと、エリィが言い掛けたとき、小夜子の少し寂しそうな顔に足が止まる。



「エリィ?」



 首を傾げ訝しむ小夜子に、エリィ抱きつくと、その首筋に、痕が残るくらい強いキスをした。



「わたしが居ないからって、帰り道で浮気しちゃ嫌よ」


「し、しません! もう、エリィったら――」



 キスマークの場所を押さえながら、真っ赤になって慌てる小夜子から、寂しげな顔が消えたのを確認すると、エリィは弓美の待つ階段の踊り場に向かった。





 新校舎と旧校舎を繋ぐ、一階渡り廊下。


 食堂以外に唯一ある自販機の前に、二人は居た。



「それで、わたしは何をすればいいの?」


「有馬センセから頼まれたのは、情報収集なんだけどねー。それはもう、終わってんのよね」


「ふぅん。……となると、その先かしら?」


「さっすがぁ、話が早くて助かるよエリィ」



 ニシシ、と笑いながら弓美は自販機から缶コーヒーの“甘さひかえめ”のコールドを取り出し、エリィに渡す。


 するとエリィは缶コーヒーの飲み口をウエットティッシュで念入りに拭い、汚れがないかじっくりと検分してから開ける。


 その光景を、弓美は呆れた目で見ていた。


 何を隠そうエリィには、やや潔癖性な所があるのだった。


 流石に常時手袋を付けて生活……、なんて事はないが。


 その褐色の指で触れるモノは、出来うる限り選り好みしており、教室不登校の一因となっているのだ。



「……いっつも思うけど、アンタ外食とかどーしてるワケ?」


「これが何故かね、外食は平気なのよ。たぶん素人が作った物は不衛生という先入観があるからだけどね」


「素人がダメって、前に自分で作ったやつはオッケーとか言ってなかった?」


「それはそれ、これはこれ、というものよ」



 ズズズ、とコーヒーを啜りながらエリィは、話がズレてるわよ、と注意を入れた。


 冷たい缶の感触が、肌に心地いい。



「おっとっと、そうだった。エリィ、アンタに頼みたい事わね、噂の真相と言うべき“何か”を推理して欲しいのよ。ね、そういうの得意じゃん? いいでしょ?」


「真相と言うべき“何か”……ねぇ。随分とまた抽象的じゃない? もっと目的を正確にしなさ――いえ、違うわね。……弓美?」


「何? 目的が曖昧っていうの? そんぐらいなんとか――」



 再び、甘いコーヒーをズズッと啜ったエリィは、ビシッと右手の人差し指を弓美に突きつける。


 冷たい缶コーヒーの、ひんやりした甘い匂いは、エリィの好む所である。



「噂の真相、“謎”の解明が最終目的じゃないわねアンタ」


「うっ、ギクゥ!! 何故解ったのだアケチクン!」



 態とらしく驚く弓美を、エリィは痛ましいものを見る目で見つめた。



「そ、そんな目で見んなし! つーかエリィ酷くない? 酷くない! 解ってんなら、わざわざ確認しなくても、いいじゃないのさー」


「はいはい、むくれないむくれない、綺麗な顔が台無しよ弓美」


「……本気で言ってるあたり、エリィってジゴロの才能あるんじゃない?」


「はいはい、言ってなさい。……どうせアンタの事だから、有馬先生への点数稼ぎついでに、その噂とやらを利用して、距離を縮められればいいとでも考えてるんでしょう?」


「うぐぐっ! 参りましたぁ。……ねぇ、お・ね・が・い、エ・リ・ィ」


「あたしに媚び売ってどうすんのよアンタ……」



 弓美はエリィの飲む缶コーヒーより数倍甘ったるい声を出し、自らの大きく柔らかな胸を、エリィの頭に押しつける。


 背丈の関係で、エリィの顔はちょうど、弓美の胸の辺りにあるのだ。


 そしてエリィ自身は気付いていないが、彼女は


女性の柔らかさに飢えているのだ。


 弓美はそれを計算に入れて、エリィの頭をふくよかで豊満な乳で包み込む。


 無論、服の上からだが。



「な、何なの!? この至福の空間は……!! この包容感は、流石に小夜子さんでも……!」


「……アンタ、女の癖におっぱい星人ねぇ」


「人は自分に無いものを、他人に求めるっていうじゃない……ふへぇ」


「リラックスしすぎ、どんだけ好きなのよアンタ」


「弓美っていい匂いもするのね、三国一の天国よ、これ……。アタシなんて、ほら」



 エリィは弓美の手を、自分の未成熟な胸に持って行く。


 その感触は薄くとも、ふにふにとした女性らしい柔らかさに満ちていた。



「うーん、エリィのもじゅーぶん柔らかいと思うんだけどなぁ……」


「ふふっ、持つ者のアンタは、持たざる者の気持ちは解らないのよー」


「あー、はいはい。機嫌が良いのか悪いのか解らない顔してないで、そろそろ本題に入るよ。アタシので良ければ後で幾らでも揉んでいいから」


「……よし、幾らでも謎を解決してあげるわ! さあ話なさい!」


「現金よね、エリィって……」



 さあ、さあ、と。目を輝かせて急かすエリィに、弓美は苦笑しながら口を開き、語り始めた。





「放課後のキューピッドって知ってる?」



 スカートのポケットからメモ帳を取り出し、弓美はそうエリィに告げた。



「最近、女の子の間だけで噂になってるオマジナイなんだけどね」


「何? 居残ってコックリさんか何かするの?」


「いや、こっくりさんを天使って言うのはどっかで聞いた事あるけど、そーゆーのじゃないのよ」


「というと」


「どちらかってーと、学校の七不思議に近い感じ? まー、恐怖目的じゃなくて……」


「じゃなくて?」


「あー、まー、その。……恋愛、成就的な?」


「ふぅん、へぇ、そう」


「ああっ! やめてっ! そんな冷たい目で見ないでぇっ!」



 うぎゃーん、と大げさにうなだれる弓美。


 そんな事だろうと思ったわよ……、と。生温い目で見ながら、エリィは続きを促した。



「まぁ、何でもいいわ。発生条件を教えなさい、そのオマジナイとやらの謎を推理して上げるから」


「ありがてぇ、ありがてぇよぉ」


「感謝する暇があったら、口を開く」


「あいあい、それじゃーいくよん」


「何時でもどうぞ」



 弓美はメモ帳と睨めっこしながら、話し始めた。



「まずねぇ、場所は図書室のある旧校舎だね、アタシらの教室がある新校舎側にはないみたい」


「ああ、図書室って旧校舎だったけ」



 首都郊外にあるこの学校は、一時期はマンモス校と言われただけあり、生徒の増加により新しく校舎が増設されている。


 ただ、エリィ達が入学する十年以上前の話なので、新校舎や旧校舎だといった実感はないのだが。



「補足しとくと、普段使っていない空き教室なんかがベストって話」


「あくまで室内って事ね、普通、空き教室なんて誰も来ないし、ドアを閉めれば二人っきりで邪魔されない時間と言う訳ね」


「所がどっこい、そうでもないんだよねー」


「うん?」


「それがさ、ドアを開けっ放しにするらしいよ」


「何それ変なの、空き教室の意味あんまり無くない?」


「さぁ、とにかくそういう事になってんのよ……」



 気になるわね、と呟くエリィが思考の海に没頭する前に、弓美は次に進む。



「んで、次は時間。これは下校時刻過ぎね、早すぎても遅すぎてもダメみたい」


「……また妙に限定的な時間ね、深夜とかじゃない辺り、実行し易そうなハードル設定だわ」



 その低いハードルの所為で実行者が増え、最近、小夜子との時間が地味に削られているのだろう。


 エリィはそう、確信した。


 これはもう、キチンと解決するより他は無い。



「おー、エリィ何かヤル気だね。んじゃ次いってみよー! 何が聞きたいエリィ?」


「女の子の間での噂って言ってたけど、その恋のおまじないをするのに、男の方は必要なの?」


「鋭い質問ね、今回のタイプは男の方も必要なタイプよ」


「――放課後の空き教室に好きな人と二人っきり? それはまた、あからさまな……それってもう、殆ど告白じゃない」



 推理する必要あるの? という顔をするエリィの疑問に答えるように弓美は続ける。



「いやね、それが少しヘンなのよ」


「変?」


「そのオマジナイ自体が、告白とはまた別って人と、告白に必要だったって人に分かれてるのよ」


「ふうん……、まぁいいわ。それで確認するけど、オマジナイの目的は恋愛成就で、いいのよね」


「いやー、それもまた人によってブレてるのよね」


「何だか曖昧ねぇ」


「ホントに、もうちょい解りやすいんだったらアンタに頼むまでもないんだけど」


「じゃあ次よ次、その辺は後で考えましょ」



 それもそうね、と弓美は再びメモに目を落とした。



「成功と失敗を教えて頂戴」


「オッケー、ちょい待ってね。ええと、これはちょい眉唾モンなんだけど」


「別にいいわ、続けて」


「オマジナイが成功すると、……天使が現れるらしいの」


「天使? 天使ってあの翼の生えた裸の子供の?」


「たぶん。成功したって言ってる人は、みんな天使が祝福してくれたって」


「……確かに眉唾ねぇ。で、失敗の方は?」


「見回り」


「へ?」


「だから見回りよ」


「ええー。何それ、普っ通ー」


「だよねぇ。とまぁ、情報はこんな所かな。……何か解った?」


「……もう少し待ちなさいよアンタ」



 エリィは少し温くなってしまった缶コーヒーで、喉を潤した。



(さて、何について……。いいえ、何の謎について考えましょうか)



 先ずは目的を設定する、ただ漠然と謎の解明などという目的では、解けるモノも解けない。



(……弓美の目的は、オマジナイの有効利用。となるとオマジナイの仕組み、それそのモノの解明が目的ね)



 エリィは残っていた少しのコーヒーを飲み干すと、ゴミ箱目掛けて大きく振りかぶる。



「それっ!」



 次の瞬間、カコン、と音がしてゴミ箱に缶が吸い込まれるように入る。



「よっ、お見事」


「ふっ、まぁまぁね。――さて、情報を整理しましょう」



 エリィの灰色の脳味噌が、目まぐるしく動き始めた。






「先ずは、はっきりさせておきましょう」



 エリィは弓美を見据えて、そう切り出した。


 その瞳は思考の渦に染まり、どこか上の空であったものの、どこか妙な迫力があって、弓美をたじろがせた。



「な、……何を?」


「弓美、アンタの目的よ」


「目的?」



 弓美はオウム返しに繰り返し、エリィはそれを気にせず続ける。



「このオマジナイ『放課後のキューピッド』が有用ならば、アンタはそれを利用したい。それでいい?」


「うん、そー考えてもらっていいよ」


「なら今回は、そのオマジナイのシステムの解明、という事でいいわね」


「うん、それでお願い」


「では続けて確認するわ」



 エリィは、今まででた情報を纏める。



 名前『放課後のキューピッド』


 場所『旧校舎の空き教室』


 時間『下校時刻』


 手段『気になる異性と二人っきり』


 成功『天使が祝福してくれる』


 失敗『見回りが来る』



「この段階で、解る事が一つだけあるわ」



 エリィは無い胸を張って、弓美に向けて人差し指を立てる。



「え、何々?」


「それは……」


「それは……!?」



 弓美の期待に満ちた目を、エリィは自信満々に打ち砕く。



「――何も、解らないわ」


「ええー……」



 ガクッっと、ずっこけるふりをした弓美に、エリィは大仰に肩を竦めた。



「正確に言えば、幾つか推測はつくものの、断言できる情報が足りていないって所ね」


「情報が足りてない?」


「そしてそれは、アンタの手の中にある」


「アタシの手の中……?」



 弓美は、己の手をマジマジと見た。


 そこには何時もの自分の手と、メモ帳があるだけだ。



「もしかして……これ?」


「そう、それ」


「ちょっと貸しなさい、アンタの調査が万全で、とアタシの考えが正しければ、答えが見えてくる筈だから」


「うん。ならどーぞ」



 弓美からメモを受け取ると、エリィはパラパラとめくり内容を確認する。



「欲しいのは、実行者の告白の有無、それから恋人の有無……これは、実行者に事前に恋人がいたかどうかで分けるわ。そしてそれを、成功と失敗で分ける」


「ふんふん、なるほど?」



 エリィは弓美からファンシーなペンを借りると、新しいページに分類し始める。


 そこには、一つの結果があった。



「……見なさい。成功した人は相手の男が恋人ではなく、失敗した人の相手の男は既に恋人だった」


「それはつまり、――どゆこと?」


「このオマジナイは、恋人が居る者には効果がないって事よ」


「つまり……、アタシにもチャンスが!!」



 おっし! とガッツポーズをして乳を揺らす弓美に、エリィは生温い目で見ながら質問する。



「それと、書かれていなかった事で一つ聞きたい事があるのだけど。私見でいいわ、答えて頂戴」


「オッケー、何でも聞いちゃって」


「この成功の欄にある生徒、好きな教職員って解る?」


「好きなセンセ?」


「アンタみたいに“ラブ”じゃなくて“ライク”の方よ」


「うーん。それは確かに聞いてなかったったなぁ…………。あ、でもこの子とこの子、あの司書の女に憧れてるって、聞いたこと事がある!」


「それって最近、もっと言えばここ数日の事でしょう?」


「え、何で解ったの!? もしかして、オマジナイに関係あるの?」



 そんな所よ、と。澄まし顔で言うエリィに、うーん、と考え込む弓美。


 謎を解く鍵は全て揃った、あとはそれを実証するだけだが、この言葉を言ってもいいだろう。


 エリィは、弓美に宣言する。




「――謎は、全て解けたわ」




 すっごーい! と喜ぶ弓美を余所へ、己の出した結論にエリィは嘆息した。



(我ながら、なんてセンチリズム……)



 結論から言うと。


 『放課後のキューピッド』は、祈りにも似た願望の善意だった。


 恐らく切っ掛けは、一人の片思いをする少女のありふれた願い、祈り。


 純粋で無垢な、たった一つのささやかな願い。


 沸き上がる不安を打ち消す為の、一筋の勇気の光。



 推理が正しければ、弓美の恋を叶えるのには、リスクがあり。


 そして成否に関わらず、このオマジナイは消えてしまう運命にあろう。



(だけど、それは――)



 誰がどうしてこの噂を、オマジナイを広めたのか。


 それはきっと、誰かの幸せを願った人として尊い心の輝き。



(恋の成就か……、それはきっと、何より幸せな事でしょうね。弓美だって、そしてアタシも――)



 そして、そこで。


 エリィは気が付いてしまった。


 疑問を、抱いてしまった。



(――小夜子さん)



 恋しい、愛しい図書室の天使の事を想う。


 彼の人は何故、唇を許してくれないのだろうか?


 身分の差、年齢の差、大人としてそして子供として。


 頭では理解はしているのだ、彼女は正常な大人で、いつもエリィに真摯であろうとしている事を。


 それでも、だから、不安が過ぎってしまう、変えようのない現実がエリィの心を蝕む。


 同い歳だったらよかった、どちらかが男であればよかった。



(アタシ達が“正しい”恋だったら――)



 どうしても欲しくて。


 泣いてみて、縋ってみて、たった一度だけと囁き肉の交わりを得て、正常なヒトを、異常な性癖に堕としてしまった。


 でもあの天使は、エリィを責めようともせずに、優しく愛して包み込んでくれる。


 心も体も繋がってる筈なのに。


 だけれども、エリィの本能はまだ。


 ――――貪欲に、“何か”を求めている。



「…………リィ、エリィ! エリィったら! ね、大丈夫なの? 具合悪い?」


「――っと、何よ。五月蠅いわね、少し、考えていただけよ」


「なら、いいけど……」



 俯き物思いに沈むエリィに、弓美が心配そうな顔をしてのぞき込む。



(……ああ、何で、何でアタシはッ!)



 純粋に友を心配する、弓美のその姿に。


 胸の奥のチリチリした感情に気付いたエリィは、己の浅ましさに愕然となった。


 それと同時に、悪魔の様な考えが脳裏に浮かぶ。



(どうせ終わるのなら、アタシもこのオマジナイに“呪い”を“祈り”を託すわ)



 キッ、と顔を上げたエリィは、弓美に向かって笑みを浮かべる。


 けれどその瞳はは、ヒトを惑わす暗い光に満ちて。


 目をあわせた弓美の心を、不道徳に揺らした。



「ねぇ弓美。……噂の真相、確かめてみない?」


「う、うん。わかった……」



 差し出されたエリィの手の。


 握ると解る、少し低めの体温と吸い付く様なその肌。


 何度も触った事があるのに、ドギマギし始めた自分の心臓に、弓美は戸惑いを覚える。


 そして、二人は寄り添いあい、旧校舎の空き教室へと向かった。





 程なくして二人は、旧校舎三階の一番端の空き教室に到着した。


 弓美からの情報によって、今日もオマジナイの実行者が複数いる事が確認されている。



(あのヒトの行動がいつも通りなら、そこが終着点。余裕はあるはずだわ)



 スマホで時間を確認した後、エリィは窓際に立ち弓美に告げた。



「知ってる? この学校には天使が実在するの。アタシの計算通りなら、暫くしたら現れるはずよ」


「……何かあった? エリィ」


「いいえ、何もないわ弓美」



 エリィの返答に、否、その光景に弓美は言葉を飲んだ。


 窓から差し込む目映き赤い陽、それを背に弓美へ顔を向けるエリィ。


 まるで夕闇に融ける様に、エリィは存在していた。


 長い銀の髪は夕日を照り返し、その褐色というには少し色濃い肌は落とす影に紛れ。


 青い瞳が暗き静謐に揺らめき、ただ真っ直ぐに弓美の瞳を捉えていた。



「ねぇ弓美。……一つ、お願いがあるの。聞いてくれる?」



 感情を感じさせぬ冷たい響き、けれど、そこに微かな震えが混じっている事を、弓美は見逃さなかった。


 ――傷ついてる。


 幼い頃からの長い付き合いで、弓美はそう確信した。


 またエリィも、自身の心の揺れを悟られた事に気付いた。


 故に弓美が何か言う前に、言葉を投げかける。


 今、何か優しい言葉をかけられたら、全てを投げ出したくなってしまう。



「たった一つ、たった一つだけ。このオマジナイを消せて、なおかつ有馬先生と結ばれるかもしれないチャンスがあるわ」


「え、エリィ、何を……」


「アンタが望んだ事よ、弓美。そして、アンタだけが今唯一、このオマジナイの最後となれる。正確には、アンタが実行したら、他の子が実行できなくなる可能性が高いって事だけど……」



 何かを堪える様に言い放つエリィに、弓美はゆっくりと近づき。


 そして、その震える華奢な肩を抱きしめた。



「弓美……」


「まったくエリィ、アンタってば、また何かため込んで、一人で勝手に破裂しそうになってんのね」


「……別に、そんなんじゃないわ」


「何年、アンタの友達やってると思ってんのよ。……昔っから変わらないね」


「……うくッ、でもッ、でもアタシはッ!」



 何かを言おうとして、言えなくて苛立って悲しんでいるエリィの髪を、弓美は左手で優しく梳く。



「言いたくても、言えなくても、何でもいいよ。ね、言ってみて“お願い”。それでエリィの気が済むなら、エリィが欲しがってる“何か”が手に入るなら。アタシはそれでいいから」


「……ホントにいいの? 弓美、アタシはアンタの恋を弄ぶような事を考えてるわ」


「優しいねエリィ、でもアンタの事だから。きっと幸せになれる道もあるんでしょ」


「…………」



(アタシは、アンタに何を言えばいいの……)



 エリィは心地よい包容から、そっと逃れ、一歩後ろに下がった。


 そして自分の浅ましさに唇を噛む、けれどそれで沸き上がった不安や嫉妬が消えるはずもなく。


 そして、決心した。



「これは、アタシの勝手な祈りよ弓美。アンタの幸せを願ってる。アンタが幸せになる事でアタシは――」


「エリィ……」



 俯き、早口で喋っていたエリィは、顔を上げ弓美を見つめる。


 その堅く握りしめられた小さな拳が、蒼く淀んだ瞳が、神に祈る迷い子の様に弓美には見えた。



「――明日、『放課後のキューピッド』で有馬先生に告白して。ただ“それだけ”でいわ」



 出された言葉に弓美は、驚くでもなく拒否するでもなく、ただ、穏やかに頷いた。



「ふふっ、ずるいなぁ。それが心からの願いなら、アタシはエリィの頼みを断らないよ」


「……ごめんなさい」



 しゅん、となるエリィに、弓美は笑ってその絹のような銀髪をぐしゃぐしゃにした。



「ゆっ、弓美!?」


「そーこーはー、ありがとうって言ってよ、この馬鹿ちんが! うりうり~、うりうり~」


「わかった、わかったから、止めてったら弓美!」



 うふふ、あははと、先ほどまでの張りつめた空気とうってかわって、騒がしい嬌声の飛び交う軽い雰囲気へと変化した。


 二人とも、先の遣り取りなど何もなかったかの様にじゃれ合う。


 それこそが、二人が長い付き合いである証左であった。



「ああもうッ! やめないなら、こうする迄よッ!」


「きゃっ!! あんっ、もー。エリィったら」



 服を乱して髪の毛ワシャワシャから抜け出したエリィは、近くにあった机に弓美を押し倒す。



「こうなったら、アンタのその無駄な脂肪を、揉みし抱くしかないようね……!」


「いやーん、おそわれるー!」



 手をわきわきさせながらエリィは弓美に多い被さり、弓美はカラカラ笑いながら、エリィの小柄な肢体を抱き留めた。



「ふっへっへ、観念しなさい」



 エリィは、弓美の制服の下に両手を延ばして、その大きな頂を――――。



「と見せかけて、ちゅー、よ!」


「な、なんとー!」



 エリィは、弓美の瞼に軽いキスをする。


 だが、その時であった。




「――いったい、何を、しているんです?」




 突如、地獄の底から這い出てきた様な声が、教室のドアから響きわたった。






 開け放たれた教室のドアから、ツカツカツカ、と大きく靴音をたてて入ってきた小夜子は、机の上で重なるエリィと弓美を、ガバッと引き剥がした。



「きゃっ!」


「わわわっ!」



「……それで、こんな時間に何をしているんです二人とも、もう下校時刻ですよ」



 眉間に青筋を浮かべ、それでも笑顔を崩さない小夜子に、言い訳を探す弓美を置いて。


 エリィは小夜子の首筋に絆創膏が張ってあるのに、少しニンマリしながら乱れた二人の服を手早く整える。


 そしてマイペースに、素知らぬ顔で言い放った。



「紹介するわ弓美、――このヒトが、放課後の見回りで、件の天使よ」


「うぇっ!? はいっ? エリィ?」


「エリィ、ふざけてないで――」


「あら、ふざけてなんていないわ」



 混乱する弓美と、機嫌が急降下している小夜子に、エリィは済ました顔で笑いながら提案する。



「これで、オマジナイの絡繰りは証明されたわ。説明するから場所を移動しましょう、ここじゃ、暗いもの。図書室でいいわよね」



 そう言って二人の手をとり、エリィは移動を開始した。



 数分も掛からず図書室に着いた三人は、我が者顔で受付カウンターの席に座ったエリィを中心に、椅子を持ち寄る。


 ひとまず落ち着いたがエリィ以外の二人が困惑し、お互いの出方を伺う妙な雰囲気の中、最初に動いたのは小夜子だった。


 エリィと弓美を、ジトっと水気を含んだ半眼で睨み、怒り半分、拗ねたように口を開く。



「……それで、あんな所であ、あんな破廉恥な事をしていた言い訳はありますか」


「ちょっとじゃれついてたのは認めるけどさー、誤解だって誤解、女同士でそんなことする訳ないじゃん、変なのー」


「あ、あははは。そ、そうですよね。そうですよねぇ……ごめんなさい、誤解でした。でも、それではいったい何をしていたんです?」



 弓美の言葉に動揺する小夜子は、次いでシュンと落ち込み、かと思えば、バチバチと火花を散らしながら詰問した。


 そして弓美も、自身に敵意を向けられていると感じるやいなや、本能的に何かを察したのか、エリィに抱きついて対抗する。



(え、何? 何なのコレ?)



 親友と恋人が自分を取り合う、まるで意図していなかった状況にエリィは困惑した。



「司書さんには解らないだろーけどね、アタシ達はかったーい絆で結ばれた親友なの、ちょっと時間を忘れてじゃれ合ってても仕方ないのよ」


「――わたっ! わたしっ!! ……くぅぅ! エリィ!!」


「あっれー、何か言いたい事があるなら、エリィに頼らないで――あれ、どうしたの司書さん、首筋の絆創膏、最初に来たときは無かったよね? 怪我したの? 大丈夫?」


「あああ、あのっ! こ、これはですねっ――! 悪戯好きの虫がですねっ! ……ふぇ、エ、エリィー!」



 エリィと小夜子の関係を知らない筈なのに、的確に弱点を突く弓美。


 かと思えば小さな変化に気が付き、善意百パーセントの発言で、更に小夜子を追い込む始末。


 言い返そうとして大人として踏みとどまったが、狼狽した挙げ句、涙目になって名前を呼ぶ恋人の姿に。 心の中で頭を抱えながら、二人の中にエリィは割って入った。



「はいはい! 注目ー! 話が進まないから、遊んでないで、ちゃっちゃと話を進めるわよ」



 パンと手を叩いて、気を引いたエリィは場を仕切り直し二人を元の場所に座らる。


 突発的な事態に弱い小夜子に、新たなる魅力を感じながら、しかしておくびにも出さずエリィは説明を始める。



「……コホン。さて、小夜子さんは、『放課後のキューピッド』のオマジナイの話は知っているかしら?」


「エリィ!?」


「小夜子さんには話しておいた方がいいわ、寧ろ必要なくらいよ」


「アンタがそう言うならいいけど……」



 オマジナイの事を話すのに、渋々納得した弓美の姿を見計らって、思案しながら小夜子は答える。



「『放課後のキューピッド』ですか。聞いた事は無いです、……教室で二人っきりでいた事に、何か関係しているんですか?」


「簡単に言うとね、この校舎の空き教室で、下校時刻に好きな人と一緒にいると、恋が進展するってオマジナイよ」


「……それで最近、時間まで居残っている生徒が妙に多かったんですね」


「女の子だけの秘密のオマジナイだから、司書さんにも言いたく無かったんだけど……まぁ、新校舎のセンセ達の間でも噂になり始めてたんだし……ま、そーゆー訳で、有馬センセに調べるよう頼まれたアタシは、エリィをに付き合って空き教室にいたんですよ」



 不貞腐れそっぽを向く弓美に、小夜子は些細な疑問を投げかける。



「……あれ? でも片桐さんが来たとき、エリィが好きな人――――」


「――――わ! わぁー! そうだエリィ! この司書が天使がどうとかって言ってなかったかなぁ!?」



 もしかして、と興味津々に瞳を輝かせた小夜子の思考を遮る様に、弓美は大声を上げて強引に話題転換した。



「もしかして、オマジナイが成功した子と失敗した子がいたのも、この司書が関わってるんでしょ、そうでしょ!」


「ええっ! わたしですか!?」



 え? え? と首を傾げる小夜子に、胸をなで下ろした弓美は、エリィにアイコンタクトを送り。


 苦笑しながらエリィは話題を広げ上げる、どのみち、説明はしなければならないからだ。



「良い質問ね。それこそが、このオマジナイの鍵よ」


「ほら、やっぱり!」


「でもその答えを確定させる為にも……」



 そこで、エリィは小夜子を見つめた。


 小夜子は戸惑った様に、わたしですか、と呟いた。



「ええ、小夜子さん。最近――、いえ噂が始まったのは二週間前くらい前かしら、弓美?」


「うん。それくらいよ」


「じゃあそれ位に、誰か、下校時刻に告白前の女の子を、見なかったかしら?」


「…………あ、まさか!?」



 小夜子は心当たりがあったようで、目を丸くする。


 そして、おずおずと右手を上げながら告白した。



「その……それくらい前に、見回りした時。空き教室に好きな人を呼び出して、でも入る勇気がなくて立ちすくむ子を見つけたんです」


「それで、その子にどうしたの?」


「ちょっと言葉をかけて、背中を押して上げて、告白が終わるまで待ってあげました。……それで、成功して恋人同士になったみたいだから、祝福してあげて、今日は見逃して上げるからって……」


「やっちゃったんだ、司書さん……」


「うぅ……」



 エリィと弓美の呆れた目に、恥じるように小夜子は顔を両手で隠した。



「まだよ、小夜子さん。その後も同じ事してたでしょう?」


「で、でも! ただ恋人同士でいちゃいちゃしていた人達は、直ぐに返しましたよ」


「…………解った? 弓美、これがオマジナイの“真相”よ」


「あ、うん。……思ったより残念だったね」


「最近の下校時刻間際の忙しさが、自分の所為だったなんて……そんな、……うぅ~」



 落ち込む小夜子に、弓美が追い打ちをかける。



「まさか、『放課後のキューピッド』が、この失格司書の事だったなんて……」


「後生ですから失格は取って下さい……」


「あら、そこが小夜子さんの良いところなんじゃない」


「失格は否定してくれないんですね」



 くすん、と鈍よりする小夜子の頭を撫でながら、エリィは弓美に語る。



「もう少し付け加えるとね、これは“祈り”だったのよ」


「“祈り”ってどういう事? エリィ」


「自分に恋人が出来て幸せになった様に、他の片思い子にも幸せになって欲しいっていう、人として善性の光だったのよ」



 自嘲するように、淋しそうに笑ったエリィに弓美はたまらず右手の小指を差し出した。



「……うん、ありがとうエリィ」


「弓美?」


「約束、守るから」


「……アタシも、出来る事はするわ」



 エリィと弓美、二人してしんみりしながら笑って、指切りをした。



「ね、ちょっと耳を貸して」


「ん? 何々」



 椅子から立ち上がったエリィは、弓美を連れて、小夜子から少し離れる。


 精一杯背伸びをして、その小さく薄紅色の唇を弓美の耳に近づけて囁いた。



「遅すぎる忠告よ、親友。学校内で教員相手の恋愛はお勧めしないわ。結果がどうであれ、これっきりにしなさい」


「エリィ……アンタまさか」



 その疑問を口に出される前に、エリィはさっと離れる。



「もうかなり遅い時間になったわ、門限があるんでしょう弓美、もう帰りなさい」


「うわっ、ホントだ! もっと早く言ってよエリィ!」



 慌ただしく帰り支度を始める弓美は、キチンとエリィに釘をさす。



「いつか、ちゃんと話しなさいよ」



 何をとは言わなかった。


 エリィも何をとは言わずに答える。



「ええ、いつか必ず。――ふふっ、明日の健闘を祈るわ。もし駄目でも、アンタをめいっぱい慰めてあげる」


「もー、エリィの意地悪。今度『図書室のエリィ』っていう怪談でも流行らせてやるわ」


「望むところよ」



 コツンと軽く拳を合わせた後、弓美は帰っていた。


 そうして、静寂の満たす部屋にまた二人。


 小夜子とエリィだけが取り残された。



「そろそろ、わたし達も帰りましょうかエリィ」


「……そうね」



 小夜子とエリィは、荷物を纏めると図書室から出て、カチャリと施錠した。


 そして、どちらからともなく空いた手の指を絡ませあって、図書室から歩き始める。


 行く先は学校から少し離れた先のバス停まで、誰もいない夕日の落ちた校内デート。



「……少し、疲れたわ」


「わたしは、少し反省しました……」



 二人の言葉数は少なく、けれども互いの感触が、様々な気持ちを伝え合っていた。


 ゆっくりと校舎を出て、夜空の下の校庭へ。


 月明かりが照らすエリィの横顔を、小夜子は少し高い位置から見下ろした。



 ――小夜子にとってエリィの相手は、最初は面倒な、義務めいたなにかだった。


 しかし時が経つにつれ、小夜子のの態度で一喜一憂姿を、いつの頃からか愛おしく思ってしまった。



 そして呆気なく、――過ちを犯した。



 大人として、人として、この下卑た劣情を覆い隠しながら、愛しい少女に、世の摂理に反した感情で手を伸ばす。


 今日だってそうだ、小夜子はエリィの親友の弓美に嫉妬していた。


 だけど、小夜子は大人であったから、口にしなかった、出来なかった。



(いつか、エリィが私から卒業する日まで。神様、せめてこの手を……)



 いつの間にか、校庭の中程で二人の足は止まっていた。


 月を祈るように見上げる小夜子と同じ様に、エリィも月を見上げる。


 ――明日の今頃には、何かが変わっているの?


 エリィはそんな不安と希望を押し隠すように、口を開く。



「ねぇ小夜子さん。月が、綺麗だわ……」



 エリィは小夜子から手を離すと、月を指輪に見立てて、左手の薬指を夜空に掲げた。


 それは、小夜子の位置からは見えなかったが、確かに綺麗なリングとして、エリィの指にあった。



「好きよ、愛してる」


「エリィ……」



 小夜子はそれに答えることが出来ずに、口を噤んだ。


 愛してると返すには色々なものが重すぎて、好きと返すには色々なものが足りなさすぎた。


 だから、掲げた手をそっと取って、その掌に口づけをする。



「……今は、それでいいわ」


「ありがとう」



 そんな二人を、月だけが見ていた。



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