わたしの椿鬼

湖上比恋乃

第1話 雪世の場合

人には、誰にも言えないことの一つや二つあるでしょうが、それは返って誰かに話してしまいたいことでもあったりするのでございます。ちょうど今夜の心持ちがそんなものでありまして、ワタシは今日まで秘め事にしてきたあれこれを、目の前の紙にでも、話してしまおうかと思い立った次第であります。


あれはちょうど、一年前になりましょうか。ある一人の男が、ワタシの姉さんに惚れてしまったのでありました。

ご友人に連れられて、その日始めて廓に来たようで、右も左も分からない様子だったと聞いております。後で知ったのでありますが、その友人さまは、この見世の馴染みであったようでした。しばらく前より、姉さんは年季が明け、ワタシらに客人を引き合わせる役についておりました。そう、言いましても、男は執拗に姉さんの元へ通うのであります。

かの男の名は、酒木悠次郎。酒木といえば、この辺りでは有名どころでありまして、三越ほどではありませんが、ワタシらの着る物を売るような呉服屋でございます。そして悠次郎さまは、文字通り酒木の次男でありました。長男さまは家業を継ぐのに忙しくしておりますが、悠次郎さまはさほどでもないようで。事あるごとに姉さんを訪ねては困らせる日々。ワタシの姉さんは秀月と申しまして、それはそれは美しい椿と同じ字を書くのですが、悠次郎さまが持って来なさるのはもっぱら野の花でありました。秀月姉さんは、花に負けず劣らず美しいお人ですから、そりゃあ野の花でもお似合いです。けれどワタシはどうにも納得がいかず、一度、秀月姉さんに尋ねたことがありました。「そんな間に合わせのような花で、そのお人、姉さんを馬鹿にしてるんじゃありませんか」と。すると姉さんは、柔らかく笑んで

「私にはこれぐらいがちょうどいいの。誰かに贈られるような花ではもう、いられないからね」

 そう答えたのであります。この言葉がどんな意味を含んでいたのか、ワタシは今でもうまく理解できません。秀月姉さんの歳になれば、わかるようになるのでありましょうか。いえ、禿の頃より姉さんのお側におりますが、一度たりとてはっきりと姉さんのことがわかった試しなどありません。

 しかし、秀月姉さんがなぜ、年季が明けてのち、遣手になったのか。姉さんのことでワタシが知ることと言えば、それくらいでしょう。姉さんほどの人です。身請けの話の一つや二つ、あってもおかしくないでしょうに。なぜ、廓に留まるのか。知っていると言いましても、詳しく根掘り葉掘り聞いたわけではありません。ワタシが偶然目にした事の説明を、かいつまんで聞いただけなのです。これが、秘め事の始まりでありました。

 悠次郎さまが廓においでになる、少しばかり前のことです。月の明るい晩の、ことでした。よく晴れていて風も穏やかで、月見には大層よい晩でした。そのときのワタシは、ちょうど馴染み客から呼ばれるのを待っている間でして、ふと、格子の外をのぞいたのであります。人影が、二つ。追われる方と追う方だということは、一目でわかりました。追われる男は、浮気でもしたのでありましょうか。着物を崩しながら、必死に逃げておりました。けれど、どうしてこんな夜更けの路地裏で。他に見る人もいなければ、制裁の意味があまりないでしょうに。そう、思い耽っているときでありましたか。それとも、相手さんの顔を見てやろうかと、身を乗り出したときでありましたか。

「ひっ」

 追われていた男はいつの間にか追いつめられており、そうかと思えばその乱れた髪をさらに乱して、首を、落としたのであります。

 人が死ぬ場面というものに、未だ遭ったことがなかったものですから、当時のワタシはとてつもなく動揺しておりました。死ぬ。それも、誰かの手によって、です。

 ワタシも大門より入って幾年か経ちますから、姉女郎などの死に体などを見たことはありました。けれど、どれも首は繋がっておりましたし、大抵は病気によるものでした。

一体、誰がこんなことを。男の首が落ちた後、追っていた女の方に、視線は釘付けになっておりました。すぐ、女はこちら側に振り返りました。重ねて言いますと、幸か不幸かその夜は月が明るく

「秀月、姉さん……?」

 見なければよかったと思う顔を、ワタシは見てしまったのでありました。

 とっさに格子から身を引き、思い出したことがありました。この廓にでるという、鬼の話。大門が閉じた後に現れるそうで、今までも何度か首を落とされた死に体が、暁七つに見つけられたとのことでした。首を落とす様がまるで椿の終わりのようだと、噂は鬼に椿鬼(つばき)と名付けたのであります。

 きっと、あれが噂に聞いた椿鬼なのだと、ワタシは確信してしまいました。秀月姉さんのあの白く柔らかな暖かい腕が、人を殺しているのだと。

 泣きながら、夜が明けました。昨夜の出来事がどうかなくなってはくれないかと、ワタシの夢であればどんなにいいだろうかと、そう願って迎えた暁七つに、通りが騒がしくなったことで現実であることを受け止めなければなりませんでした。こうなればあとは、あの鬼が秀月姉さんでないことを祈るばかりでありました。姉さんでさえなければよいのです。

 このときのワタシは、あれは姉さんではなかったという、妙な自信に満ちあふれておりました。

しかしそれは、脆くも儚く崩れ去ってしまったのであります。

「見てしまったの、ね」

 それは、姉さんが鬼であることを、暗に肯定しておりました。

「姉さん、どうして……」

 ワタシはまたもや泣き出し、二重に姉さんを困らせてしまいました。

「雪世、こんなこと、言いたくはないのだけれど。見てしまったのなら」

 秀月姉さんは、最後まで言いませんでしたが、続く言葉の予想は容易いことでした。やはり、見てはいけないものだったのです。姉さんではないと信じたまま、黙っていればよかったものを。己が心の安寧のために、ワタシは秀月姉さんを追いつめてしまったのです。

「誰にも言いやしません」

 自惚れるわけではありませんが、秀月姉さんは、ワタシの首をはねることをためらっているようでした。ワタシが黙っていればいいだけのことならば、

「もし何かあったとしても、姉さんの手を煩わせるようなことは、しませんから」

 それが最善だと、考えたのであります。

「ありがとう、雪世。ごめんなさい」

 涙に濡れたような声でした。

 そうしてワタシの心が落ち着いた頃、姉さんは椿鬼となった経緯を話してくれたのであります。きっと聞いたことが全てではないでしょう。けれど、例え嘘混じりであったとしても構いませんでした。持つべき感情が違っていたかもしれませんが、秀月姉さんの秘密を共にできたようで、嬉しくもあったのであります。

 つまるところ姉さんは、自らの意思ではなく、他者の意思によって鬼となっているのでありました。椿鬼は、殺しを生業としていたのであります。禿になる前の幼き頃より、と姉さんは話しておりました。そうしてこの廓、この見世に雇われたのだと。ならば姉さんは、椿鬼でありながら、花魁を勤め上げたということであります。ワタシが禿として側におりました頃も、振り袖新造として見習いに上がった頃も。そしてワタシが花魁となり、姉さんが遣手となってからも、ずっと続いていること。

「そうは言っても、仕事の数はあまりないの。なんて、こんな話、陽の高い内からするものではないね」

 これっきり、姉さんとこの話をすることはありませんでした。それでも、鬼が出たと噂される度に、秀月姉さんの細い腕を思い出すのでありました。


 さて、件の悠次郎さまでございますが、どこぞの狸親爺が鬼の手にかかった十日後の夜も、秀月姉さんの元へやってまいりました。

「こちらには、鬼が出るという噂があるそうで」

 よりにもよって、姉さんの前で椿鬼の話を持ち出したのであります。

「夜更けに、秀月たちが見世から出ることはあまりないだろうけど、気をつけるんだよ」

 こそりとのぞき見しておりますと、菫を髪にさした姉さんは、それにゆるく笑うだけでありました。すでにしなび始めた花でも、お似合いです。

 悠次郎さまが秀月姉さんに惚れましてから、十月ほど経ちましょうか。この頃になりますと、姉さんは追い返すような言葉を使わず、悠次郎さまも、しつこく言い寄るようなことはなくなっておりました。ただ、楽しげに言葉を交わして別れる毎度。時折、姉さんの気の抜けたような表情を見ることも、ありました。美しく気高い姉さんを、身近に感じられるような、そんな奇跡の一瞬を逃すことなく、悠次郎さまはますます姉さんに惚れ込んでいくのでありました。初めのうちこそ、気の張らない姉さんと緩んだ顔の悠次郎さまを見るにつけ、妙な嫉妬にかられることもありましたが、近頃はそれもなくなっておりました。

 よもや、このまま姉さんと悠次郎さまが外で夫婦になるのでは、という噂が見世に流れておりました。しまいには、悠次郎さまを後押しするような声も聞こえ始めます。けれどもワタシは、姉さんのしがらみを存じ上げておりましたから、そのようなことはないだろうと、噂話には入りませんでした。周りはそんなワタシの態度を、姉さん好きが高じてのことだと考えておったそうですが、本当のところは全く違っておりました。

 ワタシとて、姉さんが幸せになれるのならば、それほどよいことはないと思っております。それでも、廓を巻き込んで巡る、恨み辛みの事情を知り尽くした姉さんが、人並みの幸せを送れるとも、思えませんでした。せめて、姉さんと悠次郎さまのこの関係が、ずっと続けばいいと、ワタシは願ってやみません。今でも。この、夜を迎えてさえも。


汚い事情は、姉さんが頑なにワタシの耳に入れようとはしませんでしたから、ワタシが知ることと言えば本当に、姉さんが椿鬼であることぐらいでありました。しかしながら、年明け早々の一報が、酒木の主人が亡くなったことであるならば、次に起こることの予想は安易なものでありました。この季節、冬越えできずに亡くなる方が多いとは聞き及んでおります。それが原因か、以前からのご病気があったのかは定かではありませんが、事実、酒木の主人は亡くなったのであります。

悠次郎さまのご兄弟は、長男さまと妹君がおられました。長男さまには息子が一人と娘が二人。妹君も、まだ幼くて家にいらっしゃるとのことでした。これら全て数日前に、秀月姉さんが教えてくださったことでございます。

姉さんにも、誰ぞに話したくなるときがきたのでしょう。大体を知っているのが、おそらくワタシしかおりませんから、やむなくワタシを頼ったのであります。

 昼見世の後、招かれるままに着いていった先で、畳まれた一枚の紙を手渡されました。うながされるまま開いたそれには「酒木悠次郎」の文字が。

「姉さん、これ」

 悠次郎さまの名が書かれた紙が意味するところを姉さんに尋ねるほど、ワタシは何も知らない娘ではありませんでした。きっと今までもこのように、名前だけの紙が渡されてきたのでしょう。何度も、何枚も。

「雪世の部屋を、借りてもいいかしら」

 いつ、とも、どうして、とも聞けず、ワタシは頷くしかできませんでした。ただなんとなく、次に悠次郎さまが来たときが、その時なのだと。


 涙に濡れてしまえば、燃える物も燃えなくなってしまいます。ワタシの秘め事を唯一知る紙よ。お前は陽が昇る頃、灰になっておくれ、ね。


 「どうか来ないで、と思ったことは幾度かあるけれど、こんなにも悲しい気持ちで思ったのは、初めて」

 これが姉さんの、最初で最後の本音だったように思います。〝その夜〟はとうとう、今夜、きてしまったのですから。


 ワタシの部屋は、かつての姉さんの部屋でありました。

何も知らずに来た悠次郎さまは、花魁の姿をした秀月姉さんを見て、驚きのあまり声も出ない様子でありました。事情が事情でなければ、大層笑ってやりましたものを、全てを知っている身としては、顔をのぞき見ることさえできません。

「一夜限り、ですよ」

 悠次郎さまは、何を分かっているのやら

「承知している」

 とおっしゃって、姉さんと上がっていきました。

ああ、しかしあの声色、よもや分かっていたのではないでしょうか。今思えば、喜びというよりも、本当にただ、納得しているというだけの声でした。どこか、諦めたようでもありました。単にワタシの感情が、そう聞かせたのかもしれませんが、何もわからないままよりかは、幾分ましなのではないかと、そう考えることにいたします。


 そろそろ、鐘四つが鳴る頃でしょうか。紙に話すことも、なくなってしまいました。あとは、朝を迎えるだけでございます。ワタシは、これほど長い夜を、未だ過ごしたことがありま「雪世」せん。

「姉、さん?」

 まさか。

お行儀など捨て置いて、とにかく襖に飛びつきました。できるだけ静かに開いたそこには、血に濡れた、秀月姉さんがおりました。

「朝を、待たなかったのですか」

「来てちょうだいな」

 ワタシの問いには答えず、美しい姉さんは歩み出します。行き先は言われずとも分かっておりますが、なかなかたどり着きません。心の持ちようというのは不可思議なもので、すぐそこにあるはずの部屋が、遠く、この世の果てにあるように感じられます。気が張りつめて、足がうまく動いているかどうかさえ、あやしいものです。

 やがて、見慣れたようで見慣れない、この世の果ての襖が現れました。ためらいなく引く姉さんの向こう、

「雪世」

 首のない悠次郎さまが、壁にもたれておりました。あまりの光景にワタシはついに、膝を折ってしまいました。ひどい臭いがします。姉さんより漂ってきたものの、比ではありません。

「この人埋めるの、手伝って、ね」

 当の姉さんは、悠次郎さまの首を拾って、大事そうに抱えております。ワタシが紙に話している間、ずっと、そうしていたのでありましょう。胸元ばかり濡れていたことに、ようやく合点がいきました。

 ワタシは震える膝を、どうにか立てて、姉さんとともに庭に降りていきました。首はまだ、部屋にあります。秀月姉さんの、一等素晴らしい着物が、悠次郎さまの血で紅く染まっていきます。

 本当に手伝う必要があったのでしょうか。力の入らない腕で、悠次郎さまの足を持ち上げるワタシとは違って、姉さんはまるで抱きしめるように、体に腕を回しておりました。

 見世の庭には、姉さんと同じ字を書く、秀月という椿が植えられております。姉さんはその下に、悠次郎さまを埋める気でいるようでした。

「名前だけでも、同じ所に」

体を横たえながら、姉さんはそう、こぼしました。

姉さんが頭を持ってくる間、首のない悠次郎さまとワタシは、二人きりになりました。

どうして、悠次郎さまだったのでしょうか。どうして、姉さんだったのでしょうか。

詮無きことに涙しながら、悠次郎さまにかける言葉も見つからず、ただ二人でいるだけでありました。

首を抱えた姉さんが来てすぐ、ワタシはその場を離れました。秘め事を、燃やしてしまわなければなりません。あれは、誰に見つかってもいけないものです。姉さんの部屋から火と紙の束を持ち出し、再び庭へ降りました。夜闇の中、満開を迎えた秀月の側に立つ姉さんは、椿とともに散ってしまいそうな、儚い美しさがありました。

何も言わず、紙に火をつけたワタシに、同じく何も言わず、姉さんはふらりと立ち去りました。秀月の根本は、きれいに整えられており、到底そこに人が埋まっているとは気づかないでしょう。ワタシと、姉さんの秘め事が一つ増えましたが、それも一度に燃やしてしまうことにいたします。勢いよく燃える炎を見ておりますと、いつの間にやら姉さんが戻ってきておりました。

「これも、燃やしてちょうだい」

 それは、姉さんの、一等素晴らしい着物でした。悠次郎さまが生きていた証が、染みこんでおります。

「よいのですか」

「もう、見せたい人もいないからね」

 言いながら着物を放る姉さんは、ワタシなどでは到底及ばないような美しさがありました。恐らくそれは、秘め事による、美しさでした。

 だんだんと白んでいく空の下で、夜を売る町にいながら女二人、朝を迎えます。ワタシは、ひらひらと飛んでいく灰を見ながら、もう一人は死人が出るような気がして、なりませんでした。

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