人も動物も一切登場しない小説
倉田日高
人も動物も一切登場しない小説
うつぶせに男が倒れている。白衣をまとったその襟元は血で汚れている。
現在形で男のことを語ることは相応しくないかも知れない。今は男と言うより、ただの積み重なった有機物だ。
『四――に電車が――ります。黄――まで――』
スピーカーからの掠れた機械音声が、誰もいないがらんとした空間に響き渡る。
自動改札は通る者を阻むべく閉じたままで、そこを最後に開かせたのは倒れている男だ。何事もなかったかのように改札は再び閉まり、パスが読み取り画面に示されるのを待っている。
十メートルほどの天井からは電光掲示板がつり下がっているが、そこに表示されているのは意味のない文字列ばかり。もっとも、意味の通る文章が表示されていたとしても、それを解釈する存在はない。
ホームに点在する柔らかな曲線のベンチは、ほとんどの表面に埃が積もる。そのうちの一つだけは、誰の忘れ物か、黒い通学鞄を埃との間に挟んでいた。
コンクリート打ちの地面に横たわった男の体は、徐々に体温が失われつつある。その頬を風が撫でた。
空気を押しのけるようにして、音を立てずに一台の列車がホームへ滑り込んだ。男のすぐ目の前でドアが開く。
『――乗は――さい』
機械音声。
不意にホームの隅につり下げられていたモニタに光が灯り、地図とともに声が流れ出した。
『避難場所は下記の地図の赤いポイントとなります。公共交通機関は特別プログラムに沿って運行しますので、運行の妨害にならぬよう、避難には公共交通機関を利用するようお願いします』
同じ内容の放送が、町のあらゆる箇所で今行われているはずだった。そして、どこにもその意味を解する存在はいないはずだった。
定時放送が終わると、モニターの電源が切れた。こまめな節電プログラムは、いまだ稼働し続ける発電所に配慮している。
『ド――す。黄――』
列車から漏れ出していた空調の冷気が、閉まるドアで遮断される。
本来男を乗せるはずだった列車は、何の感慨も持たずに再び走り出した。
動くもののなくなったホームで、大時計の針だけが正確に進む。時折電車がやってきて、倒れた男を意に介することなく走り去る。
前に伸ばされた男の手には、小さな褐色の瓶が握られている。中には液体が、ついさっきまで揺れていたが、その表面のさざなみも今は止まっていた。
泥のような顔色をした男の口元からは、暗い血液が流れ、そしてアスファルトの上で乾燥していた。空気に触れた血だまりの中で、男の体を蝕んでいたタンパク質は既に大気中に解き放たれている。
やがてモニターが光を宿し、避難先の定期放送を行う。
『現在確認されている限り、空気感染は起こりえません。パニックに陥ることなく、すみやかに避難場所へ集合し、安全確認にご協力ください』
その音声もまた、機械だった。
男が残してきた血の跡をたどる者がいれば、駅の外へ続き、入り口のところで途絶えていることが分かるだろう。
実際にはその続きがある。それは、数時間前にここから去っていったカプセルの中。
車輪を取り囲む操縦機の履歴を調べれば、駅に来るまでの道筋が分かる。記録に残されているのは、郊外の研究所だった。
今、その研究所の扉は狂ったように開いたり閉じたりを繰り返していて、どうやら電気系統に不具合が生じているらしい。中では数重の隔壁が招かれざる侵入者を、その大小を問わず防いでいて、今もその防菌性能は衰えていない。
奥深くには、目に痛いほどの白で構成された部屋がある。机の上に散らばった幾つかの薬品や実験道具、瓶の中のサンプルだけが色彩を持つ。
広げられたノートの上には走り書きがあり、これは男の手によるものだった。
事件の責任を取り、私は対処薬を確立させた。その震えた筆跡は、男の肉体的な衰弱を示すのか、あるいは心の重荷を表しているのか。
防菌室に隔てられた隣の部屋には、使われた形跡のないベッドと積み重なったインスタント食品の包装。
横倒しになったペットボトルから滴り落ちるエナジードリンクを、床を徘徊する円形の清掃ロボットがそのたび吸い込み、乾かしていた。
男の時間を更に遡ることも不可能ではないが、それをしたところで意味はないだろう。「最後の一人」としての彼が意味を持つのはせいぜいここまでだ。
床を動き回る掃除機が「最後の一台」になるのはいつのことだろうか。観測する人間はもういないので、結末は誰も知る由がない。
人も動物も一切登場しない小説 倉田日高 @kachi_kudahara
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