夜、我が心毀つことなく

逆傘皎香

冀夜

 私は夜を生きることができない。夜の帳が降りると共に私の記憶は触れることのできない靄の中へと消えてしまう。夜が朝日に拭われると、鴉の、声が私を見もしない夢の世界からこちらに吊り上げ、枝から飛び立つ羽の音が短い目蕩みの幕を引く合図になる。私の一日の始点はいつもこうだが、終点はない。日の没する悲鳴で赤く染め上げられる空、その残響が、思考を廻らすには少し不足な時間、幻想的な形容しがたい色を齎した後の世界は、私には存在しない。


私にとっての「夜」というものは、詩歌によって詠われる、彼方に想いを馳せられ、星月が情緒を刺激する世界に他ならない。単に陽の当らぬ暗黒である「夜」には多くの情動的な詩歌が詠まれ、本棚に何冊も収納されている。詩人のような感受性の高い者だけが感じることを許された毒かもしれないが、夜には魔力とでもいうべき妖しげな力があるらしい。


夜の毒を味わえない私は、自らを呪う。なぜ、私は夜を生きることができないのか。魅力に誘われるまま夜を過ごすことができないのか。冀う夜の片鱗すら知ることができないのか。きっと私は、愚かにも見たことのない世界に恋をしているのだろう。誘われるに任せ、或いは求めるに任せ舞う蝶が、羽を失っている無様な姿が重なる耐え難き嫌悪感に、恋の盲目なる熱情を以て耐えているのだろう。




 日が暮れる。今日も赤く燃えてゆく。この時間が最後になる。目を細め、吐き気を抑える。昨日も狂おしいほど悔しく思った。明日もだろう。あと数分このままでいられれば私は夜にいることができるというのに―――


しかし夜は訪れた。何事もなく、全く自然に夜の帳は降りたのだ。太陽は地平線に完全に隠れ、従う言いようもない色が訪れた後、世界は完全に暗くなった。


角灯を点けて階段を降り、玄関の扉を開け放ち夜の世界へと飛び出した。私は、とうとう夜に生きることができたのだ。空には古より変わらぬ星々が河に流れ、月では兎が薬を搗いているはずだ。私は空を見上げる。


空にあったのものは、無。そこにはただ暗黒が広がるのみであり、天河の上流も、月が舞う道も探すことはできない。


何もなく、何も感じない。あれほど冀求した夜の魔力などどこにもない。私には、夜の魔力を気配すらも感じ取ることができないというのか。これまで経験したことのない空虚が広がっている。私の渇いた笑いが、一度だけ音を与えた。


この時の私は、未だ心のどこかで縋るように、静寂の世界に鋭敏になっていた。そこに、何かの気配が感じ取られた。暗闇の中にあれば、気配の正体を視認することはできない。


途端に夜の黒色は空虚なものではなく、終わらせることのできない、逃れられない暗闇に変貌した。得体の知れない何かから私はひたすら遠ざかった。遠ざかるうちに、複数の同じ気配が辺りにいくつかあることがわかり、原始的な恐怖が私を支配していった。


雲に隠れていた太陽が顔を出したように、少しだけ明るくなった。後ろを振り向くと、空の黒の中に一点、境界のはっきりしない明るさがあった。その周辺は黒い雲が流れており、光源ははっきりしない。あれが月か、星だろうか。黒に空いた穴は薄暗く世界を照らす。


意識が混濁してゆく中、私は木陰の所まで歩き、睡魔に身を預けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る