第3話 長幹の忘れ物
運命的な出会いから一週間が経って、
今日は赤井が来る日だったし、銀行へ行って通帳を作ろうと思い、判子を取りに行くことにした。朝早く行けば誰にも会わないだろうし、ホームレスの連中もまだ寝ているだろうと思っていたが、元住処だった橋の下にはすでに炊き出しが行われ、みんなが起きてそれを食べるためにたき火の側に居た。
「へぇ、それは面白い」
女の声だった。炊き出しは女が一人で行っているようだった。赤いベレー帽をかぶり、薄い灰色の柔らかい素材のコートを羽織って、デニムのズボンを履いているらしかった。長幹は「女はスカートが一番だ」と思っているので、ズボンを履く女は好きではなかった。
長幹は相手にしないで元の家の方へと行って眉をひそめた。
「お、おい、俺の家は?」
隣人がうまそうな豚汁をすすりながら見ていたので聞く。
「お前の家? あぁ、あんた、長幹さんか、すっかりきれいになっちまって、誰か解らなかったぜ。というかそんだけきれいなら要らねぇじゃないのかい?」
「いや、家は要らねぇが、というか、吉田は? 俺の代わりにここに来た若いやつ?」
「あぁ? あぁ、そいつが、もうあんたはここには戻らないからみんなで好きにしていいって言ってどっか行ったぜ」
「え? いや、あいつの住処に、」
「はぁ? あいつはホームレスなんかじゃないぜ、」
「えぇ? いや、でも、えぇ? いや、そんなことより、俺の荷物、あんたらが取ったら、俺のハンコは?」
「はぁ? さぁ? 要らないものは公園の便所に捨てたし」
「なっ、なにぃ?」
「あんたのハンコなんか持っててもしようがないだろ、俺たち、ホームレスだし、第一、あんたの名前、変わってるから、後がいろいろ面倒だから使わねぇよ」
長幹は、ごみを捨てた日を聞いたり、吉田の行方を聞いたり、なんでハンコを持っていてくれなかったのかと責めたり、支離滅裂な質問と、慌て方に、
「これでもどうぞ」
と缶コーヒーが差し出された。
「とりあえず落ち着いて、私も微力ながらお手伝いしますよ。パニックになって時間を無駄にするより建設的ですよ」
とさっきの、ボランティアの女が話しかけてきた。
長幹はコーヒーを手にすると、ふらふらと土手を上り、途中で力尽きたように座り込んだ。
女はその近くにしゃがみ込み、
「人に話すと、名案が浮かぶものですよ」
というので、長幹は女の顔を見た。
20から40代の間だ。はっきり解らないのは、化粧っ毛がないがしわもないし、大人ではあるが色気を感じないからだ。
怪しい顔をする長幹に、女ははっと気づき、ポケットから茶色の名刺入れを取り出し―こういう小物は年齢が高そうな気がする―名刺を差し出した。
「金田一 華?」
「あぁ、いえいえ、
一華と名乗った女はくしゃっと笑顔を見せた。
「なんでも屋?」
「なんだかそういうところに勤めることになってまして」
「はぁ?」
「叔父がね、探偵物語ってドラマ知ってます? あれのファンで、バカでしょ? もう、50過ぎなのに探偵社を立ち上げようとしたんですけど、そもそも目立つ格好で、あぁ、あのドラマの中の俳優の格好で居ますから。バカでしょ。目立ちすぎて尾行とかむりで、なので、何でも屋なら、まだ何でも食いぶちがあるのではないかと、母親、私から言うと祖母ですが、それに言われて作ったけれど、暴走傾向にある叔父を引き留めるべく私に入れと。で、いい迷惑ですが、社員なんで。信用できない名刺ですけど、それしかあいにく持っていなくて、あぁ。免許所見せましょうか?」
「いや、そこまでは、」
そうですかぁ? と言いながら、見せる気で財布を取り出したのを片付けた。
「それで、なんだって家を他人に任せたんです?」
「任せた? そう、任せたってことになるのか」
長幹はどっと疲れたように肩を落とし、一週間前を思い出していた。思い出して話をするには十分すぎるほど思い出していたが、大学卒業の自分が吉田に騙されたなど言えない。と思いとどまった瞬間、ふと思いいたった。
―騙された。吉田に騙された。吉田に田村を紹介された。吉田に騙された。田村に赤井を紹介された。吉田に騙された―
長幹は慌てふためいて立ち上がり、転がりそうになりながら走った。赤井家へ。
パトカーの音がする。
赤井家が見えるところまで行くと、赤井家の前にパトカーが止まっていた。一台じゃない。何台もだ。近所の人もいる。いつだったか、昼間台所に立っていた時、通りに居て中の様子をうかがっていた近所の婆もいる。
長幹は後ずさり走り出す。
走ったが、体力と頭の整理が追い付かず、元家のあった橋の近くの土手に転がるようにして座り込んだ。
「な、何が、何が起きた? なんだ? なんだ?」
長幹の頭頂、つむじから得体のしれない汗が噴き出てくるのに、体中にはドライアイスの冷気のような痛くて冷たいものが刺さる。
「大丈夫ですかぁ?」
のんきそうな声に顔を上げる。一華だった。少し息が弾んでいたが、この時の長幹にそれを気にすることはなかった。
「相談に乗りますよ」
「そう、相談……。あ、あ、あぁ」
長幹は頭を抱えた。相談=相談料が頭に浮かぶ。
田村からもらった七万円は、サバの味噌煮缶を重しにして―サバの味噌煮が、長幹の好物だったので、重しにするにはよかったのだ―置いてきた。
長幹は頭を抱えた。
「何がありましたか?」
一華の声に、長幹はゆっくりと一華を見、喉の奥に引っかかる―大卒のプライド―を引きずりながら声を出す。
「だ、だ、だま、さ、れ、た」
吐き出した途端、見えない玉がころっと出た気がして
「騙されたのか? 騙されたと思う。いや、騙された」
長幹はそれをしばらく繰り返した。
陽が出てきたけれど、今日は風が冷たい。だけど、それを感じる余裕は長幹にはなかった。
「最初から聞いてもいいですか?」
長幹がふと黙ったので一華が聞いた。長幹は頷き、俯いていた頭を上げ、
「い、一週間前、炊き出しがあって、吉田という男が近づいてきた」
「年齢とか解りますか?」
「年齢? さぁ、若かった。30、代ぐらいじゃないか?」
「顔の特徴とかは?」
「さぁ……、ホームレスになって人に興味が無くなって、いや、その前から人の顔を覚えるのは苦手だ」
「そうですか。それで吉田さんとは、ここで?」
「ああ。俺はいつも一人で飯を食う。仲間になんぞなりたくないから」
一華がほかのホームレスたちのほうを見て首を傾げる。
「ああ。あいつらと、俺は違うんだ。あいつらはやる気がなくてホームレスになったんだ。俺は大学も出てるし、仕事も行ってた。リストラにあって仕方なくだ」
長幹の言葉に一華は表情を変えず頷くだけだった。
「だから、吉田が隣に来たのには正直不愉快だったが、吉田は人懐っこい顔をして、公園で炊き出しのボランティアをしている人がいて、その人に仕事の世話をしてもらったが、自分は中卒だからできないと言って、」
「公園?」
橋のすぐそばにも公園と呼べるのか? 少しだけ広がった場所があり、ベンチがあるだけのところがあって、一華はそこを指をさした。
「いや違う。すぐそこに団地があって、そこの公園だ」
「紅葉団地の公園ですか?」
「紅葉団地っていうのか、あそこの坂を上って、カーブを降りて行ったところにあるところだ」
「それで、そこの公園でボランティアと?」
「ああ、不動産をしている田村って人だ」
「不動産屋がボランティア?」
「あぁ、ホームレスなら空き家情報とかいろいろ知っているだろうっていう話しだった」
「……なるほど。それで?」
「吉田が田村に、俺が大卒だと話したら、田村がそれは都合がいいと言って、」
「都合?」
「あぁ、できれば大卒がいいが、ホームレスにそんな高学歴は期待できないから高卒以上で手を打とうと、」
「そんなに知識がいる仕事なんですか?」
「いや……そうじゃない。空き家になっている家の管理だ」
「家の管理?」
「ああ。赤井という家なんだが、ばあさんが一人で住んでいたらしくって、そのばあさんが老人ホームに入るんで管理をしてほしいと」
「お子さんはいないんですか?」
「居るんだが、県外でこちらに住めないらしくって、」
「では処分をすれば、」
「ばあさんが生きている間に処分なんぞしたら、あの家の権利を失うという話しで」
「そんなことできるんですかね?」
「弁護士を立ててそうしているらしい。それと、息子がその家に住んでいないといけないとまで条件があって、」
「ほぉ。それで、県外に住む息子の代わりに誰か管理人がいると?」
「ああ。だけど、息子は昼仕事をしているから、昼間はおとなしくしておいてくれ、行動するなら夜にしてくれと」
「夜なら家に帰っているだろうから明かりがあっても構わないですしね」
長幹は頷く。
ここまで話してもおかしい話ではないと思った。騙されてしまうだろう? こんな「普通な話」。という顔で一華を見た。
「それで、管理人という仕事ですから、報酬は?」
「日当一万円。最初に二万受け取ったが、」
「日当一万円。家に住むだけで? いい仕事ですね」
「そうだろ? そのうえで使った光熱費はタダ。食料もばあさんがため込んでいた缶詰や、レトルト、米で過ごせる」
「でも買い物とかには行きたくなりませんでしたか? もしかして、行きましたか?」
「あぁ……酒とか、ちょっと寒い日におでんを買いに」
「寒い日はおでん、いいですよねぇ」
くいっと熱燗を飲む。ようなしぐさをする一華に長幹は頷いた。
「そのお金、残ってます?」
「あ、あぁ……机の上に七万少し」
「なんで持って出なかったんです?」
「ホームレスにたかられると思って」
「そもそもなんで昼間に出てきたんです? 出るなって言われてたんじゃないんですか?」
「今日は、赤井が来る日で、銀行に通帳を作りに行こうと、」
「日曜日に?」
「日、日曜?」
「はい。今日は日曜ですよ。曜日感覚、なくなりますよね」
「あ、あああ」
長幹は頭を抱えた。
「それでハンコを取りに戻ったけれど、荷物はおろか家までなくなっていた。と?」
もう長幹は頭を動かすだけだった。
「信じてくれますかね、警察は、」
「け、警察?」
長幹が一華の顔を見上げる。
「ええ、その赤井という家で、女性が監禁されているのが見つかったそうですよ」
「監禁? 女性?」
「一週間前から、怪しい男が棲みついていたと、近所の人が目撃しているようです」
「お、お、俺、俺は、知らんぞ、女なんか。……監禁? し、知らん」
「あの家で女性が監禁されていたんですよ。台所の隣の続きになっている和室の下に作られた地下室に」
「な、な?」
「多分、あなたが寝起きしていたであろう布団を敷いた、襖で仕切った隣です」
「いや、そこは建付けが悪くて開けるのに億劫だから開けたことなんかない。第一、そこへ入ったことなんかな、い。……田村が毎日来ては、赤井に頼まれたものを探すとか、襖をあけていると外に顔を見られて、赤井でないとバレるのでと襖は閉められ、ごそごそとしていたけれど、俺は、俺は、ビールを、ビールを、」
長幹は頭を抱える。
「とりあえず、話に行きませんか? 逃げていたら印象が悪くなります。素早い行動でもしかすると、その、吉田、田村、赤井の三人が捕まえられるかもしれませんよ」
長幹は返事をしたかどうかわからないような小さい声で「うん」と言い、一華に付き添われて警察署に行った。どうやって行ったか解らないが、とにかく、冷たいコンクリートむき出しの個室に入って、机をはさんで刑事と向き合っていた。
「できる限り、正確に、」
長幹は頷き、手をもみながら話し始めた。
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