ガラスドームの標本たち
黒イ卵
一、六花舞う
空から雪が降っている。
いつもの街の、冬の外。
こういう日は、外回りは嫌だなと思う。今朝磨いた革靴が煩わしい。
滑って転んだらどうしてくれよう。
思わず吐いたため息が白い。しまった、インナーにホットマッスルを着込めば良かった。
もしかして鞄にホッカイロでも入れてあるか、と探りつつ歩くと、ふいに耳がキーンとした。
寒いせいかとぼやき、立ち止まる。
知っている街中の景色のはずなのに、違和感があった。
……あまりにも静かなのだ。
車の音、人の声、足音、生きている、動いている者達のざわめきが一切聞こえない。
この雪のせいで、音が沈んでいるのだろうか。
カイロを探すのは諦めて、雪が降る前の行動を振り返る。
いつも通り始業の15分前に出社し(トイレに寄ったな)、アポイント件数と移動先を確認、回る順番を頭に入れる。鞄にある資料と、会社に置いてある資料を再確認して、ホワイトボードに外出先と戻り予定を書いた。事務の人達に行ってきます、と声かけし会社から出て、最初のアポイント先へ移動中。
高架下での信号待ちの間に、長い横断歩道の真ん中で車同士の事故があった。
迂回するが、少し先の歩道橋から行った方が時間に間に合いそうだと思い、歩道橋の階段を登り切ったところだった。
歩道橋から見下ろして、先程の事故現場が見えるかと探したが、事故が起こった筈の現場は何事もなく、ひしゃげたガードレールは無く、横断歩道の周りの人だかりも居ない。
そして……一台も車が走っていない。
突然、雲が晴れた。
違和感の正体が姿を現わす。
雲の外、空が見えるはずの空間、その向こう側に、大きな部屋がある。
雪雲の隙間からは、薄暗い部屋の内装が広がっている。
巨大オブジェのような書棚、そこに納められた本。手前に何かの実験器具、吊るされているガラスの雑貨などが薄ぼんやり見える。
光源の位置から、オゾン層の遥か外側が、ほのかに光っているのだと思った。
どれくらい見上げていたのだろうか。
『気付いたようだね』
雲の向こう側、テレビで、映画で、見たような、ビルよりも大きな人の顔だけが、隙間からこちらを覗き込んでいた。
◆◆◆
恐怖が麻痺しているのだろうか。
あまりにも驚いて、夢の世界にいるのではと、寝ている時に夢を見て、ここは夢だと気付いた時の感覚を思い出す。
夢だと思えば腑に落ちる。
音の無い世界、突然消えた人、空に巨人。現実とはかけ離れすぎている。
自分は白昼夢を見ているのだろうか。
そこまで考えた時、また巨人の声がした。
『夢の世界では無い。強いて言えば、実験場だ』
実験場?穏やかではない響きだが、恐ろしさは感じない。やはり、夢なのか。
『このままだと不便か』
ふぅらるぅと呼気。
煙管を吸うような動作で試験管をそのまま長くしたような物の口に、何か光る息を吹き込んだ巨人は、どちらかと言うと女性に見えた。光る息はそのまま試験管内に留まり、ぐるぐるとした渦を巻きながら光輝いている。
反射した光が幾重にも重なり、いくつかの色を映し出していて、顔はよく見えなくなっている。
人物観察している内に、試験管そのものが七色に光りながら膨らみ、次第に透明の球が出来上がる。丸形フラスコ、もしくはびいどろ。職人が作り出す、ガラス細工。そんなものを連想させる。
『一時的に介す』
そう告げられると、フラスコ内に人の形が出来、それをそのままこちら側に空の上の方へ流し込まれた。
突如光の奔流が、視界を覆い尽くす。目に痛みはない。ただただ、急に明るいものを見て眩しさを感じただけだ。
光の奔流が段々とまとまり始め、眩さが落ち着き、人の形を取り始める。
『はじめまして。私は魔導士ステラミラ。
君は実験標本体として選ばれた、この地の残留思念だ。尚、実験協力によって、こちらの定めた報酬を用意してある』
そこには、三角の帽子を被っている女性がいた。先端が折れ曲がっている、いわゆる魔女、魔法使いの被る帽子だ。黒と言うよりは深い、濃い艶のある葡萄色の帽子のようだ。髪の毛は長く、深碧色で緩やかに巻かれている。葡萄色の帽子を被った深碧色の髪の女性が、普通の人間の大きさで浮いている。
上空を見上げると、巨人のいた場所は雪の雲が広がっている。
先ほどの光の奔流など関係ないように、ちらちらと雪が舞っている。
「夢の世界では、無いのか?」
ようやく声が出た。
先ほどまでは夢の世界にいるような、どこか安全な場所からスクリーンを眺めているような気でいた。今は違う。
青い瞳がこちらを見る。
『繰り返すが夢の世界では無い。ここは魔導実験の地に選ばれた。君は一度死んでいる』
ーー死んでいる?
突然胸が差し込み、心臓の上辺辺りを押さえた。
キリキリとした痛みが、徐々に圧迫感のある、心臓を押されているようなものに変わってくる。
息が苦しい、空気を、と吸って吐いたら、口から血がごふりと出てきた。塊もある。
すぅっと血の気が引いていくのがわかった。膝をつき、そのまま横に倒れ込む。
全ての色が無くなっていく。
明るさが落ち、彩りが消え、モノトーンの世界に変わっていく。
天から降り注いでた、六花の白はもう見えない。
体が強張るのを感じ、だんだんと瞼が重くなってくる。いつかの、美術部の窓から見た空の色が浮かぶ。藍色、いつか自分で作りたい群青、ラピスラズリ、コバルトブルー、空の青、海の碧、あお……。
……魔導士の眼の色も青だっけ……。
たくさんの色をした青を思いながら、眠りにつく前のように、うっそりと意識を手放した。
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