第肆話「絡繰舞台」

絡繰舞台・壱

「——三毛縞先生。新作の進捗はどうでしょう」


 秋も深まる十月の東都——ところは喫茶店スクイアル。

 店の一番奥の席で顔を突き合わせる三毛縞と井守の間には香ばしい香りを漂わせる珈琲が二つ、手をつけられずに置かれている。


「……それが、その。あまり、手応えがなくて」


 見つめ合うこと十数秒。かなりの間を置いて、先に先に目を逸らしたのは三毛縞だった。

 申し訳なさそうなあまりにもぎこちない三毛縞の返答に、井守の眉がすっと下がった。困ったように額に手を置き、どうしたものかとため息をついたのが聞こえた気がした。

 恐る恐る三毛縞が視線を戻すと、井守はゆったりとした動きでこめかみを人差し指で掻いていた。


「わかっているとは思いますが……原稿の締め切りまであと一ヶ月半です」

「重々……わかって、います」


 普段は優しい井守から放たれる厳しい言葉。

 三毛縞は胃痛を覚えながら、机の上に置いた拳を握りしめた。

 春先から始まった「水月」の連載が好評ということで、連載とは別の完全新作長編を書こうという企画が進んでいた。

 ところが作家三毛縞公人はここぞというところで筆が進まない泥沼状態に陥ってしまっていたのである。


「書かなければいけないと思うと、なにも思い浮かばなくて……筆が止まってしまって」

「率直に聞きます。今、進捗はどのくらいですか」


 井守の問いかけに再び三毛縞は視線を泳がせる。

 三分の一、と出かけた言葉をすんでのところで飲み込んだ。ここで嘘をついては井森の信頼を裏切ることにもなるし、なにより後々自分にしっぺ返しがくるような気がしてならなかった。


「……全く、なにも、進んで、いません」


 震える手で珈琲を飲んだ。しかし喉は潤うどころか、口の中は緊張と不安で乾いていく一方であった。

 尻すぼみになっていく声。もう井守の顔を見られなかった。俯いて、膝の上で握っている自分の拳をじっと見つめながら担当の返答を待った。


「そうですか」


 冷静な声が返ってきた。三毛縞は額に冷や汗が垂れるのを感じながら目を固く瞑る。


「わかりました。では、これ以上打ち合わせに時間を割いても意味がないので失礼します」 


 聞こえてきた冷言にはっと顔を上げた三毛縞が見たのは、立ちさる井守のまあるい後ろ姿だった。

 井守が座っていた場所には、二人分の金が置かれている。

 彼はこんなに冷たい人間だっただろうか。いや、担当は仕事。筆が進まなくなった作家を見限るのもおかしな話ではない。

 三毛縞は駆け出しの新人作家。自分の才能を買ってくれた井守に見捨てられたらもう生きてはいけない。やっとの思いで連載を勝ち取り、新作の発刊も決まり、こうして東都に戻ってこられたというのに——。


「どうしよう。どうしたらいい」


 三毛縞はその場で頭を抱えた。

 打ち合わせのときに井守に見せるはずだった原稿は、文字一つ書かれていない白紙。

 打ち合わせ前日に筆をがむしゃらに走らせたところで人に読ませられるものなんて書けるはずもなかった。

 目の前も見えない濃い霧の中を永遠と彷徨い続けている感覚。なにかを思いつきそうで、それが分からない。作家にとって一番辛い状態に三毛縞は陥っていた。

 足掻けば足掻くほどずるずると沼の中に引き摺り込まれていく。書こうと思えば思うほどに書けなくなっていく。

 なにが面白いのかも、なにを書きたいのかも、今の三毛縞はなにもわからなくなっていた。


「……あ」


 足元は泥濘んでいる。必死に足を動かしながら濃い霧を掻き分け歩いていくと、見覚えのある丸い背中が見えた。


「い、井森さん!」


 声を上げその背中に声をかけた。


「——三毛縞先生。残念ですが、今回の連載はなくなりました」


 ゆっくりと井守が振り返る。三毛縞を見るその顔は冷めたような、悲しそうなそんな表情をしていた


「待ってください……締め切りまではまだ一ヶ月あります……」

「残念です。僕の見る目が間違っていたのかもしれません」


 そして井守は一瞬にして三毛縞に興味をなくしたかのように真顔になると、一度も振り返ることなく霧の中へと消えていった。


「待って……井守さん、待ってください! 締め切りまでにはなんとか……!」


 三毛縞は井守の背中に向かって手を伸ばす。

 しかしどれだけ叫んでも井守には届かず、前にも進めない。そして三毛縞公人はそのまま底無し沼の中へと沈んでいった——。



「—————っ!!」


 言葉にならない叫びを上げながら三毛縞は飛び起きた。

 その衝撃で万年筆が床に転がり、蓋がしまったままのインク瓶も落ちていった。

 まず先に視界に飛び込んできたのは目の前にある真っ白な原稿。動揺しながら辺りを見回すと見慣れた自分の書斎。どうやら自分は寝ていたようだ。

 心臓があり得ないほど早く脈打ち、呼吸が早くなる。額に滲む脂汗を袖口で拭った。


「…………ゆめ、か」


 あまりにも酷すぎる悪夢。現実の意識がはっきりしてくると、三毛縞は夢で良かったと心底安堵したように気をついて椅子にもたれかかった。

 目の前にある窓から見える空には太陽が高く昇っていた。最後に意識があったのは深夜。どうやら大分長い間ここで寝てしまっていたらしい。

 水を飲もうと椅子を引くと、丸まった原稿用紙が椅子の足に引っかかる。


「は、はは……」


 自分の書斎の惨状を見て三毛縞は乾いた笑みを浮かべた。

 まるまった原稿用紙は一枚だけではなかった。

 書いては捨て、書いては捨てを繰り返し、綺麗だったはずの新居は酷い有様になっているではないか。


「……気負いすぎなのかな」


 目頭を押さえながら三毛縞はくたびれたように深いため息をつく。

 執筆が不調に陥ってからというもの、ここ数日まともな睡眠を取っていなかった。そんな己の焦りから招かれた最悪な精神があの悪夢を見せたのだ。以前井守と打ち合わせたのは事実だが、あの時彼は最大限に自分を励ましてくれた。疲労がたたりあり得ない幻想まで作り出してしまうなんて。


「——いかん。いかんいかんいかん」


 自分の考えを消すように両頬を思い切り叩いた。

 原稿に集中したいという理由で鴉取の仕事の手伝いも断り、部屋に篭ること五日。備蓄した食糧もそろそろ尽きる。このままでは肉体的にも精神的にも悪影響しか及ぼさない。一度外に出たほうがいい。


「駄目だ。外に出よう。珈琲でも飲みに行こう」


 散歩がてら駅前の喫茶店に行き、美味しい珈琲と軽食を取ればいい気分転換にもなるだろう。

 そのためには身支度を整えねばと、ようやく立ち上がった三毛縞の体からあり得ない音がなった。ずっと同じ体勢でいたため関節が固まっていたのだろう。

 新しい服に着替え身支度を整えた三毛縞は部屋を出た。そうすると自然と目に入るのは大家兼友人、鴉取の部屋。

 最近仕事を手伝えていなかった非礼を詫びるついでに彼も喫茶店に誘ってみようかと、鴉取怪異探偵事務所の扉を叩いた。


「鴉取。僕だ。珈琲でも飲みにいかないか」


 声をかけてしばらく扉の前で待つも返事はなかった。

 試しに取手を捻ると施錠されていない扉は簡単に開いた。なんて無用心。まぁ、ここには今二人しか住んでいないのだから差して気にする必要もないのかもしれないが。


「鴉取。はいるよ」


 一応断りを入れつつ、三毛縞は扉を潜り鴉取の部屋に足を踏み入れた。

 施錠をしていないのであればきっと彼は部屋にいるだろうと、応接間兼居間へと続く扉を開けた。


「——あら。お客さん?」


 鈴がなるような可愛らしい女の声。そして三毛縞は扉を開けた状態で固まった。

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