隠レンボ・弐

 東都駅の隣にある華やかな花街——立橋たてばし

 駅から歩くこと十数分、一軒の置屋の前で足を止めた鴉取はその戸を叩いた。


「何方様で」

「鴉取です。女将はご在宅だろうか」


 格子戸の向こうに人影が見える。

 扉の向こうから聞こえる凛とした声に鴉取が答えると、直ぐに扉が開かれた。


「鴉取の旦那。急に呼び立ててすまなかったね」


 姿を現したのは着物姿の女将。歳の頃は四十を超えているように見えるが、凛とした美しい女性だ。


「女将の呼び出しなら喜んで飛んでこよう」

「……相変もわらず調子のいいお人だね」


 口元に弧を描く鴉取に、女将は呆れたように額に手を当て首を横に振る。


「——そちら様は?」


 女将は鴉取の背後に立つ三毛縞に視線を向けた。

 意志が強そうな切れ長の瞳と目がかち合い、思わず三毛縞は背筋を正す。


「彼は三毛縞。普段は作家先生だが、ちょっとした事情で私の助手も務めている。これから贔屓にしてくれると助かるよ」

「初めまして、三毛縞公人と申します」


 頭を下げた三毛縞を女将は不思議そうに見つめていた。


「……な、なにか?」


 自分を見つめたまま視線を外さない女将に三毛縞は不安げに眉を下ろす。

 なにか無礼な態度をとってしまっただろうか。もしくは自分の異人のような風貌が気にくわないのだろうか。


「嗚呼……いえ。じろじろと見てしまって御免なさいね。旦那のお知り合いにしては随分と人が良さそうな美丈夫で吃驚してしまって」

「……それは、褒め言葉として受け取っていいのでしょうか」

「ええ、勿論。是非ご贔屓にしてくださいな、三毛縞先生」


 女将の言葉に三毛縞が呆気に取られていると、鴉取が小さく吹き出した。


「くくっ……私と違って一途で初心うぶな信用できる男だよ」

「あら、それは良いことだこと。取り敢えず二人とも上がって頂戴。見て欲しいものがあるの」


 一見堅物そうに見えた女将が見せた軽快な笑顔に三毛縞は僅かに肩の力を抜いた。

 そうして女将の案内で二人は置屋の二階へと案内される。軋む長い廊下を歩き、女将が一室の扉の前で足を止めた。


菊乃きくの。入るよ」 


 女将は床に膝をつき心配そうに声をかけた。

 はぁい、とか弱い声で返事が聞こえると女将は襖を開ける。


「えっ……あっ、鴉取さん……」


 部屋には浴衣姿の芸妓が布団に横になっていた。

 菊乃と呼ばれた女は鴉取を視界に捉えた瞬間赤面し着崩れた襟元を整えながら体を起こす。


「何があった」

「昨日店から帰ってきたら突然倒れたのさ」


 女将は心配そうに菊乃に寄り添う。


「病であれば医者を呼ぶのが得策だろうに」

「医者はとっくに呼んださ。唯の貧血だと気付け薬を渡されたよ」


 女将の言葉に鴉取は訝しげに眉を潜めた。

 医者にしっかり診せたというのであれば医学に関して素人である鴉取を呼ぶ必要はないはずだ。


「女将。私は医者ではなく、探偵ですが」

「そんなの分かっているよ。いいから、これを見ておくれ」


 女将が菊乃に目配せをすると、彼女は髪を持ち上げ美しい首筋を晒した。


「菊乃、失礼するよ」

「は、はい」


 鴉取は菊乃の側に跪くと首筋を覗き込んだ。

 首筋に息がかかりそうな距離に、菊乃は息を飲み羞恥で顔を真っ赤にさせる。


「……この傷は」


 鴉取の後ろから覗き込んだ三毛縞は目を瞬かせた。

 菊乃の右側の首もとには小さな針で刺したような穴が二つ空いていた。


「虫刺されのような痕が二つ……まるで誰かに噛まれたようだな」


 その傷跡を鴉取は手袋の上からそっと撫でると、菊乃は恥ずかしそうにぴくりと体を僅かに震わせた。


「菊乃、具合はどうだ? 傷は痛むか?」

「大分楽にはなりましたけど……目眩と頭痛が少し」

「顔色が悪く、爪も白い。医者のいう通り貧血だろうな」


 鴉取は菊乃の体に触れながらよくよく観察する。

 血の気がない青白い肌、美しい指の爪はどことなく白みを帯びている。


「例の通り魔じゃないのか」

「……嗚呼。そうだろうな。被害者の特徴と一致している」


 三毛縞の呟きに鴉取は頷き答えた。

 ここ数ヶ月、東都で女性を襲う通り魔が横行していた。既に何人もの被害者を出しているが、犯人の手がかりは何も見つからず捜査が難航していた。

 被害者は貧血のような症状を起こし倒れ、首もとに噛み痕のような小さな傷が残されているという共通点があった。


「襲われた時の記憶はあるか? 犯人の姿を見たとか……」

「何人かとすれ違いましたけれど……怪しい人の姿はありませんでした。何事もなくお座敷から真っ直ぐ帰って来ましたから。襲われたということはなにも……」


 鴉取の問いかけに菊乃は力強く首を横に振った。


「途中で記憶が途切れたりとかは」

「玄関先で倒れるまで意識ははっきりしていました。帰り道の記憶だってしっかり覚えています」


 三毛縞の言葉も彼女はしっかりと否定する。

 菊乃の証言に嘘偽りがあるように思えない。だが、彼女が昨夜倒れ首筋に謎の噛み痕が残っているという事実は存在しているのだ。


「ふむ……帰りの道中に何か変わったことはなかったかい? どんな些細なことでも良い」

「……そういえば、お座敷から出た時首筋にちくりと痛みが走りました。虫かと思ったのですが……」

「人一人倒れる程の血を吸う虫がいる筈がないでしょうに。このままじゃおっかなくてうちの子達を送り出せないよ」


 女将は菊乃を見ながら不安げに言葉を漏らす。


「警察には報告をしたので?」

「ええ。今朝方すぐに。けれど向こうも頭を抱えるばかり。あの感じじゃすぐに解決なんて無理な話だわ」

「それで私をお呼びに?」

「旦那なら何か分かると思ってね……こういう奇々怪々なものは旦那の領分でしょう」


 女将の言葉に鴉取が可笑しそうに笑った。


「まるで人の仕業ではないとでもいいたげだな」

「姿も見えずに人の血を抜くなんて、人間には無理でしょう」

「鬼か魔物の仕業……とか」

「……ほぉ」


 三毛縞の言葉に鴉取の口元は興味深そうに半月の弧を描く。

 こうなってしまえば誰に頼まれることなく鴉取は動き出すだろう。余計なことをいってしまったと三毛縞は苦笑を浮かべた。


「心得た。女将には日頃から世話になっているからな。私の方でも色々と調べてみよう」


 前髪から垣間見える紅い瞳が嬉々として輝いていた。


「……鴉取さん」


 立ち上がった鴉取を菊乃が不安げに引き止めた。


「なぁに心配には及ばない。菊乃は早く体を治すんだよ」

「はい……」


 鴉取は微笑を浮かべながら愛おしそうに菊乃の頬を撫でた。菊乃の頬が朱に染まり二人の間に甘ったるい雰囲気が流れる。

 三毛縞が居た堪れなく二人から視線を逸らすと、入り口近くで忌々しそうに眉を顰める女将と目があった。


「三毛縞先生」

「はい」

「決してあの男に毒されないように。どうかどうか貴方はそのままでいてくださいな」

「は、はぁ……」


 女将は苦虫を潰したような表情を浮かべていた。

 娘のように大切に接している存在が目の前で女遊びの悪評高い怪しい男に骨抜きにされていたらそんな風になって当然だろう。

 彼女に念押しされた三毛縞は笑みを引きつらせながら返事をした。


「……それじゃあ菊乃。お大事に」


 鴉取は菊乃の髪を掬い上げ口付けを落とした。

 菊乃はさらに顔を赤くし、驚きで魚のように口を開閉させている。


「旦那! 菊乃までも毒牙にかけたらタダじゃおかないよ!」

「おや、怖い怖い。これ以上女将の機嫌を損ねる前に退散するとしようか、ミケ」

「いや、十中八九君一人の責任だと思うんだけどね。女将さん、菊乃さん失礼します。お大事に」


 鴉取の行動に耐えきれなくなった女将は、目を吊り上げ語気を荒げた。

 しかし鴉取はそれを一切気にすることなく飄々と交わし、三毛縞に声をかけると置屋を後にした。

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