第参話「隠レンボ」

隠レンボ・壱

 梅雨も明け、夏らしい暑さに見舞われる八月。

 道ゆく人々は団扇を仰ぎ、打ち水をしたりと少しでもこの夏を快適に乗り切ろうと涼をとっていた。

 東都駅前の喫茶「スクイアル」店内。窓側一番奥の席に鴉取久郎と三毛縞公人の二人が座っていた。

 三毛縞は椅子の背もたれに深くもたれ掛かりながら、半袖のシャツの釦を二つ開けた胸元に団扇で必死に風を送り込んでいる。


「……なぁ、鴉取」

「なんだい、ミケ」

「君は暑さというものは感じないのかい?」


 三毛縞は信じられないものを見るように向かいに座る友人を見る。

 鴉取は季節など微塵も感じられないような、漆黒の着物と袴にブーツ。手には黒革の手袋。肌が露出している部分は一切ない。見ているだけで体感気温が数度上がりそうなほど暑苦しい格好をしていた。


「暑くないわけではないが、肌を出すのが嫌なんでね」


 本人は暑くないといってはいるが、長い前髪に隠れた白い肌は汗の一つも垂れることない。むしろとても涼しげに見える。


「鴉取さん、三毛縞先生いらっしゃいませ。今日も暑いですね」


 三毛縞が少しでも涼もうと水を飲み干したと同時に可愛らしい声が聞こえてきた。


「こんにちは、ユキ」

「と、兎沢さ……」


 現れたのは三毛縞がひっそりと思いを寄せているスクイアルの女給ウェイトレス、兎沢ユキだった。三毛縞は初めて兎沢に会った時に一目惚れをして以来、彼女が現れるたびにしどろもどろになってしまっていた。

 三毛縞は自身のだらしない格好を思い出し、慌ててシャツの釦を閉じ、姿勢を正して椅子に座り直した。

 明らかに動揺している友を見て鴉取はなんとも可笑しそうに笑みを咬み殺している。


「お待たせしました。こちら夏期限定の冷し珈琲です」


 兎沢が二人の卓上にグラスに入った珈琲を置いた。

 これは最近巷で流行っている、硝子瓶に入れた珈琲を井戸水で冷した“冷し珈琲”という所謂冷たい珈琲のことだ。

 砂糖がたっぷり入った甘くて冷たい珈琲は暑い夏にはぴったりだとスクイアルでは今一番の売れ筋商品である。


「とても甘いので三毛縞さんはお好きだと思うんですが、鴉取さんはいつもお砂糖お入れにならないみたいですけど大丈夫ですか?」

「嗚呼、珈琲は甘味と一緒に飲むから砂糖を入れたくないだけで私も甘いものは好きだよ。覚えていてくれるとは、嬉しい限りだ。お気遣い有難う」

「いえ……常連さんの好みを覚えるのは当然ですから!」


 鴉取が微笑むと、兎沢は嬉しそうに微笑み一礼してその場を後にした。

 兎沢を見送ると、二人はどちらからともなく珈琲を啜る。


「冷たい珈琲も美味しいんだな」


 ほろ苦さの中にしっかりとした甘味が口に広がる。熱い体を冷ますようにひんやりとした珈琲が身体中をめぐっていく。


「相変わらず君は好いた女性の前だと急に寡黙になるんだな」


 鴉取は面白そうに肩をすくめた。


「……悪かったな。うまく話せないんだよ」

「くくっ、君は変わらずそのままでいてほしいものだね」


 鴉取に揶揄われながら二人が珈琲を啜っていると、喫茶店の扉が開いた。 


「鴉取さんはいらっしゃいますか」


 入って来たのは配達員の少年だった。帽子を取り、鴉取の名前を呼びながら店内を見回している。


「私だが」


 鴉取が手を挙げると、少年は表情明るく足音静かに早足でこちらにやって来た。


「鴉取久郎さん。電報が届いています」

「嗚呼。ありがとう」


 少年が差し出した電報を受け取り、鴉取が礼を述べると、彼は深々と一礼して店内を後にした。


「電報なんて誰からだ?」

「ふむ……心当たりはないんだがな」


 鴉取は不思議そうにその電報を確認する。


《シキュウキタレリ》


 書かれていたのは簡潔な文章。

 差出人を見てみれば隣の花街からだった。


「置屋からの呼び出しみたいだな」

「お前……恨みでも買ったのか?」

「さぁな……思い当たる節が多すぎてわからない」


 平然と珈琲を啜る鴉取に三毛縞はあんぐりと口を開けた。

 彼は学生時代から女性の噂が絶えなかった。こんなに怪しい風貌をしていても、何故だか彼は異性を惹きつける並々ならぬ魅力があるらしい。


「君も女遊びには懲りないな」

「別に特別な関係を持っている訳じゃない。向こう方がいつの間にか本気になっているだけだ」


 平然とものをいい、コーヒーを飲み干し立ち上がる鴉取に三毛縞が続く。


「ごちそうさま。ユキさん、珈琲美味しかった。また来るよ」

「はい! ありがとうございました!」


 そういう台詞を簡単にいうから女性たちは皆勘違いするんじゃないか、という突っ込みを三毛縞はぐっと飲み込んだ。

 席に珈琲の金を置き、店を後にした二人は電報の差出人である置屋がある花街へと足を進めたのであった。

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