幽霊屋敷・弐

「まぁ……その、この近辺では“幽霊屋敷”と呼ばれています」

「嗚呼……」


 全く予想通りの答えに、三毛縞は納得した様に頷いた。


「今は大家しか住んでいないのですが。なにせこの安さなので、過去に何人か住人はいたんですよ。しかし、部屋によって起こる現象がが違うようで……」

「どんなことが起きるんですか?」

「その……足音が聞こえたとか、誰かの気配を感じたとか、天井に顔が見える……とか」


 いつも饒舌な筈の井守は、なんとも曖昧な返答をしながら目を泳がして珈琲を啜った。


「……まさか、井守さん。其処に住んだことあるんですか」

「————っ」


 井守はびくん、と肩を震わせた拍子に珈琲を波たたせ白いシャツに茶色い染みを作ってしまう。

 しかしそれも気に留めず、彼は石の様に硬直したままだ。どうやら図星らしい。


「……うん。取り敢えず行くだけ行ってみます。其処の地図と大家さんのお名前、教えて頂けますか」

「ええっ、行くんですか! 私も頑張りましたけど三月経たずに逃げ出しましたよ!」 


 さも当然の様に手帳をちぎり差し出してきた三毛縞に、井守は酷く狼狽えながら言葉を発した後、慌てて口を抑えた。

 己が事の様にあたふたと慌てている井守とは正反対に三毛縞は至って冷静だった。

 三毛縞が書く物語は、全て怪異や怪談といった奇々怪々なものを題材にしていたのでこういう所は良いネタになるかもしれないし——正直な所、昔からこういうことには慣れていたのだ。


「い、一応お教えしますけど。危ないと思ったら直ぐに逃げてくださいね。家が決まるまでの間なら、私の家に居座ってもらっても構いませんので……」


 本当に井守という男は実に面倒見が良い人間で、担当と作家の壁を超え三毛縞の身を常に案じてくれていた。

 嗚呼、教えるんじゃなかった。先生に何かあったら私のせいだ、とぶつぶつと呟きながらも彼は書き上げた地図を渋々三毛縞に差し出した。


「これ……」


 受け取った用紙を見て、三毛縞は思わず目を丸くした。

 簡略的な地図の下には大家の名前であろうか少し読み辛い時で『鴉取久郎』と書かれてあった。


「嗚呼……読み慣れないですよね。それで『アトリ クロウ』と読むんですよ。名前の通りカラスみたいに真っ黒な人で——」


 初見では中々読む事が出来ない珍しい苗字。そして苗字によく似合う名前。三毛縞にとっては懐かしい響きだった。


「……鴉取」


 その名を呼べば、懐かしい学生時代が脳裏に蘇る。

 制服に学生帽。まだ若々しい己の横に立つ、ニヒルな笑みを浮かべる鴉の様に黒い知的な青年の姿。

 嗚呼、酷く懐かしい。青い春。


「……せ、先生。大丈夫ですか?」

「あ、嗚呼……すみません。見知った名前だったもので」


 井守の声で我に返った三毛縞は、笑みを浮かべながら書いてもらった地図を懐にしまった。

 思い違いかもしれないが、こんな名前は早々お目に掛かることはないからきっと同一人物に違いないだろうと三毛縞はまだ本人と決まったわけではないのにその人物との再会に心を躍らせていた。


「え、鴉取さんとお知り合いで?」

「ええ。学生時代の友人でした」


 驚いた様に目を丸くする井守に三毛縞は頷く。

 三毛縞と鴉取久郎は高等学校の同級生だった。

 日本の父と英国の母を持つ混血の三毛縞。周囲よりも頭一つ分大きい体、明るい亜麻色の髪。明らかに日本人とは異なる蒼玉色の瞳。その容姿のせいで三毛縞は校内ではかなり浮ついた存在だった。

 そんな三毛縞と同じ様に鴉取久郎という男も一際異彩を放っていた。

 成績は常に首席。あまり自分から他人と連むことはないが、異性には絶大な人気を得ていた。

 長い前髪で目を隠し、真っ黒の学生服に黒い手袋。金鈕と僅かに見える白い肌以外は全て漆黒。三毛縞とは逆の意味で目を惹く存在だった。

 その様な浮いた存在同士はいつの間にか隣にいた。寮部屋も同室となり、ある時は朝が来るまで語らった。

 美しい思い出ばかりとはいえないけれど、共に青春を過ごした三毛縞にとっては大切な友人だった。

 ——とはいえ、卒業してから今までの数年手紙の一通も送り合わない音信不通状態では、あったのだが。


「早速其処に行ってみようと思います。紹介料って事で、偶には僕が払いますよ」

「ええっ、そんな駄目ですよ!」


 珈琲を飲み干し席を立てば、井守よりも先に伝票をひったくって会計へ向かった。


「くれぐれも、お気をつけて。何かあったら直ぐ連絡下さいね! ご馳走様でした!」

「井守さんもお仕事頑張って下さい」


 井守は大慌てで机の上を片付けながら、立ち上がり深々と頭を下げた。どことなく心配そうな表情を浮かべている彼に向かって三毛縞は微笑みを返しながら、同じく頭を下げる。


「ご馳走様でした。珈琲美味しかったです」

 金を財布から取り出しながら女給に声をかけると、彼女はくりくりとした大きな目を更に大きく見開いて三毛縞を見上げた。先程珈琲を運んできた女給だと気付き、思わず体を硬くした。


「有り難う御座います! 私もスクイアルの珈琲が大好きなんです! 今一生懸命淹れる練習に励んでるんです」


 小鳥の様な愛らしい声で口早に話す、齢十八程の少女。

 艶のある黒髪を三つ編みにし後ろで団子に纏め、真新しい仕事着纏うその姿は小動物の様に可愛らしい


「先程は笑ってしまってすみませんでした。とても嬉しそうに喜んでおられたので……つい、つられて笑ってしまって」

「あ……いえ。お恥ずかしい所を」


 先程の光景を思い出して再び赤面しながら頭を掻くと、くすりと女給は笑みを浮かべた。


「何か良いことがあったのですか?」

「ええ……小説の連載が決まったんです」

「えっ、作家先生でいらっしゃるんですか! 凄い! そんな方にお会いできるなんて思っておりませんでした!」


 文芸雑誌も増え、少しずつ小説というものが娯楽として浸透してはきているものの、一方で小説など低俗だと揶揄する人間も少なくはなかった。

 少なくともこれまで、三毛縞を作家として褒め称えてくれた人間は指折り数える程しかいなかった。

 つい気持ちが舞い上がってしまい口をついてしまった事を後悔していると、少女から思ってもみない言葉が返ってきて三毛縞は酷く面食らう。

 少女は曇り一つなく微笑んだのだ。適当な世辞を述べるでなく、心の底から作家三毛縞公人を凄いと褒めたのだ。

 その屈折ない言葉と眩い笑顔に、三毛縞は時が止まった様に彼女に目を奪われてしまった。


「——えっ、と。本当に、美味しかったです。また、飲みにきます……必ず。その、あ、ありがとう……」

「はいっ、お待ちしております! 有難う御座いました!」


 女給は釣銭を渡すと、満面の笑みを浮かべ深々とお辞儀をした。

 三毛縞は赤面した顔を隠す様に深く帽子を被り、足早に外へと出た。熱を持った顔を冷やす様に、僅かに冷たい風が三毛縞の顔を撫でる。

 どうしてこうも自分は一旦女性を意識しはじめると上手く話せなくなるのだろうか。

 あの男の様に出来ていたら、自分だって今頃浮いた話の一つや二つあっただろうに——自分の情けなさに小さく溜息をついた。 


 青い空。人で賑わう煉瓦街。自分が住んでいる街とは全く違う空気に、三毛縞は僅かに胸躍らせた。

 決まった連載。再び進み始めた作家の道。駅前の美味しい珈琲——そして。

 東都に住みたいという理由は次から次へと増えていく。

 兎にも角にも物は試しだ、と三毛縞は井守に渡された地図を取り出してのんびりと歩き出した。

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