幻影電車・参
「ほぅら……はじまるぞ」
黒い男は闇に塗られた窓の外を不気味な笑みを浮かべながら見つめた。
その刹那、静まり返っていた車内に突然鈍い音が響いたかと思えば、乗客たちは足元をふらつかせる。
「なんだ、動いたじゃないか——」
音の正体は電車が動き出した音だった。線路の上をゆっくりと動き出したそれは徐々に速度も上がっていく。
「これで東都に帰れるわね」
電車が動けば駅は間も無くのはずだ。乗客たちがほっと息をついている中、先程まででんでん太鼓に夢中になっていた赤子が再び泣き出した。
「あらあら、どうしたの? もう直ぐ駅につきますからね」
「くくっ……状況を理解できているのは其方の赤子だけのようだ。先程も申し上げたが、この場から脱出できる方法は二つのみだ、と」
「しかし、こうして列車は動いている! 東都駅はもう目と鼻の先だ!」
髭面の男の意見に、女性陣も同意する様に頷いた。
外が暗くなる前、少し遠くに東都の街並みが見えていた。つまりはこのまま電車が走れば間も無く終着駅に辿り着くはず——。その安易な考えを、黒男は鼻で笑い飛ばした。
「なんでも楽観視するのは良い傾向だが、電車が無事に元どおり動きだしたのであれば、何故この場に#いないはずの人間__・__#が此処にいる?」
呆れたように肩を竦めながら、男は向かい側を顎でさす。
彼と向かい合う形になっていた乗客たちはゆっくりと後ろを振り返ると、あ、と口を開けた。
「……運転手、さん」
女学生が震えた声を溢す。
乗客たちの後ろ。運転席に通じる扉の近くにいたのは、風に飛ばされた帽子を拾い埃を払う運転手がいた。
「……おい。運転手。貴様、何故ここにいるんだ」
口の水分を失い、掠れ震えた声で髭面の男は運転手を指差した。
そうだ。何故。電車が動いているというのに運転手がこの場にいる。
「何故って……電車が動かなくなったので、私も此処に——」
状況を理解した運転士が言葉を失い、口を開けたまま固まった。
そう。電車が止まって動かなくなったから彼は此処にきた。だが、電車は走っている。客席に、運転手を残したままで。
「電車は今動いているじゃないですか!」
「誰が動かしてるの!」
車内の空気は大混乱に陥った。
慌てふためく乗客たちの声に運転手は我に帰り、転がるように運転席へと駆け込んだ。
「だれも、いない」
運転手は顔面蒼白になって後退り、壁に背をつけた。
運転席は無人のまま。あまりにも奇妙な光景をみた乗客たちも口をあんぐりと開ける。
今度こそ全員がこの状況を異常だと認識した。その瞬間、身を持っていかれそうになる衝撃に皆が体勢を崩す。
「……なんで」
「早くなってる!」
女学生の悲痛な叫びが車内に木霊する。
運転手が不在のまま一人でに電車は急激に速度を上げた。それも日常ではまず出すことはない、身の危険を感じるほどの速度で暴走をはじめてしまったのだ。
「なにしてる! 早く止めろ!」
「駄目ですっ! 止まりません!」
運転手の声は発狂していた。
彼は額に脂汗を滲ませながら必死に停止装置を引くが、電車は止まる様子はなく益々速度を上げていく。車両にずらりと並ぶ吊革が、見たこともない動きで揺れていた。
「……っ、だから無駄だといっている。人間の力では止めることはできない。この電車はもう怪異の中だ」
あまりの速度と振動に黒男からも余裕の表情が消え、壁に手をつき身体を支えている。
外からは雨音に混じり、ざざざと、まるで木々をかき分けるような音が聞こえてきた。前方に点いている灯りはさながら動物の目の様に怪しく光り、まるで森の中を駆けているかの様に車両は激しく揺れる。まるで意志が宿ったかのように電車は全く止まる気配はなかった。
「あああっ、もう駄目よ……!」
「こんな所で死にたくないよぉ!」
車両の隅に腰を抜かして蹲っていた女二人が泣き喚く。母の不安を読み取ってか、赤子は更に激しく泣き喚いた。
黒男はそんな二人の手を取って、ゆっくりと座席へと導いた。
「お二人は此方に座っていなさい。ご婦人は赤子をしっかり抱いて。貴女が不安がってはお子も安心できまい。お嬢さんも手摺りをしっかり掴んでいるんだよ」
どうしてこんな目に。無事に生きて帰ることが出来るのだろうか——最早声も出せない恐怖の中、唯一この状況を打破できるであろう名も知らぬ黒男を縋る様に見据えた。
「大丈夫。安心なさい。この様な事態が起こった時の為に私がいるのだから」
二人と目を合わせるようにしゃがみ、手袋越しに二人の手に触れたまま黒男は柔らかい笑みを浮かべた。そして戦々恐々としている運転席の中に足を踏み入れる。
そこでは必死に停止装置を引く運転手と、その背後で声を荒げている髭面の男。
「おい、黒いの! どうにかならんのか!」
彼は黒男に気づくと、目を泳がせながら胸ぐらを掴み激しく揺さぶった。
「嗚呼、もう。貴方は人を責めることしかできないのか」
「なんだと!」
髭面の男に揺さぶられながら、黒男は呆れまじりにため息をつく。
離せ、と男の手を掴み扉の方に投げやると、運転手の隣に立ち目の前の景色を見つめた。
「この電車は恐らく妖に乗っ取られたんだろう」
暗闇に慣れた目が、その全貌を明らかにする。
真っ暗闇だと思っていた外には電車を横切るように通り過ぎる黒い影が見える。その陰の正体は木の幹だった。
まるで大木の足元を走っているかの様に——否、自分達がまるで小人になったかの様に、背の高い木々が何本もそびえ立っている。運転席から上を覗くと空は広く、大きな満月が空高く浮かんでいた。
「こっ、このまま止まらなかったらどうなるんですか!」
「怪異を成した妖と同じ運命を辿る。このままだとまた電車に突っ込むことになるだろう……恐らく今度は本当に」
深刻そうな面持ちで呟かれた言葉に、運転手と髭面の男は呆然と口を開けた。
「ああっ! 糞っ……どうにかならんのか! もう駄目だ!」
髭面の男は自暴自棄になり、頭を抱え諦めたように運転席の壁に凭れ掛かりながら座り込んでしまった。
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