幻影電車・弐

 空気がぴんと張り詰め、黒い男以外の全員が息を飲む。

 皆が一斉に窓に張り付くように外を覗き込んだ。滝のような雨で鮮明には見えないが遠くには東都の街並みがぼんやりと見えている。特に変わった様子はなさそうだ。

 第一、先程の衝撃は運転手の急ブレーキが原因だろう。車輪が線路に擦れる音こそすれど、他の物がぶつかった音も衝撃もなかった。仮に本当に電車が突っ込んできたというのであれば、この場にいる全員ひとたまりもないはずだ。

 そうはならなかったはずなのに、とうの運転手は血の気が引いた真っ白な顔で落ち着きなさそうに目を泳がせ、胸元で組んだ手は怯えた様に震えているではないか。


「な、なにを馬鹿なことを……」

「見間違いじゃありません! 確かに見たんです! 本当に、電車がこっちに突っ込んできたんだ!」


 戯言を、と呆れたように笑いとばす髭面の男に、運転手は食って掛かった。

 血走って泳ぐ瞳。大声を張り上げ飛び散る唾液。運転手の勢いに男は背を仰け反らせ、分かった分かった、と両手で彼を宥めた。


「ぶつかると思ってブレーキを思い切り引きながら、覚悟して目を瞑ったんです。でも——」

「次に目を開けたら、電車の姿はどこにもなかった——か?」


 割り入ってきた黒男の言葉に運転手は興奮気味に肩を上下させながら何度も頷いた。

 女達は不安げに顔を見合わせながら、泣き続ける赤子を必死に宥めている。


「……っ、見たにしろ、見なかったにしろ、結局はなににもぶつかっていないんだからいいだろう。さっさと電車を走らせたらどうだ」


 髭面の男は不満げに腕を組みながらひょろりと細長い運転手を見上げた。


「運転手殿は嘘をいってはいない」


 黒い男はそう呟きながら、袖口からでんでん太鼓を取り出した。ととん、とそれを鳴らしながら赤子の小さな手にそっと握らせると今までの奮闘が嘘の様に赤子はぴたりと泣き止んだ。

 嬉しそうに笑う赤子を見て、男は満足気味に微笑を浮かべると再び乗客たちに向き直る。


「恐らく、彼が見たのは『 幻影電車げんえいでんしゃ』だろう」

「——幻影、電車」


 男の言葉に全員が深く首を傾げた。


「そう。 あやかしが成した電車の幻影。そして恐らく——」

「アヤカシだと? ふんっ、なにを神妙な面持ちでいうのかと思えば……馬鹿馬鹿しい世迷言を。そんなもの誰が信じるか」


 言葉を遮る様に、髭面の男が呆れた様に笑い飛ばした。


「人の話くらい黙って聞けないものかね……」


 一々自分に突っかかってくる髭面の男に、黒い男は聞こえない様に小声で悪態をつきながら苛立たしげに頭を抱えた。


「あ、あのぅ……」


 険悪な空気が漂う中、女学生が恐る恐る手を挙げた。


「外ってこんなに暗かったでしょうか」


 彼女の言葉につられて弾かれる様に窓を見た全員がぎょっと目を丸くした。

 いつの間にか雨の音は止み、外は真っ暗闇に覆われていた。黒雲が立ち込めていたにしろ時刻はまだ日暮れ前。真夜中のように暗くなることはあり得ないはずだ。


「……おかしい。日暮れにはまだ早いぞ」


 髭面の男は訝しげに懐から懐中時計を取り出し時間を確認する。


「は……?」


 だが男の口から時刻が返ってくることはなかった。信じられない物を見ているように丸眼鏡の位置を何度も直しながらそれを凝視する。


「時間が分からないんだろう」


 彼は懐中時計を見つめたまま黒い男の言葉に素直に頷いた。

 男の背後からそおっと時計を覗き込んだ女性陣も異様な光景に思わず息を飲んだ。彼が見ていた時計の指針は狂った方位磁石のようにぐるぐると回転していたのだ。


「ふむ……やはり異界に来てしまったか」

「異界!?」

「そう。異界。もう我々は 現世うつしよとは異なる世に立っている」


 全員が青ざめる中唯一人、にいっ、と怪しく口角を上げる黒男はどこか楽しげにも見えた。


「外! 外に出た方がいい!」


 髭面の男は慌てて電車の扉を開けようとするが、鍵でもかかっているかのように扉は固く閉ざされびくりとも動かない。


「おい、運転手! さっさと開けんか! 手伝え!」

「……は、はいっ!」


 運転手も加勢して男手二人で扉をこじ開けようとするが無駄だった。


「駄目です! 開きません!」


 血の気が引いた真っ白な顔でみっともなく叫び声をあげる男達を眺めながら、黒い男は腕を組んで壁に凭れかかる。


「扉が開く筈はないが、もし仮に開いたとしても外には出ない方がいい。生きて帰れる保証は無くなるぞ」


 余裕ぶって高みの見物をしている黒い男が気に入らなかったのだろう。髭面の男は興奮気味にづかづかと男に歩み寄ると胸ぐらを掴みあげた。


「さっきから何を知った様な口振りを! こんな巫山戯た真似をしたのは貴様かっ!」

「……っ、まさか。勝手に人のせいにしないでいただきたいね」


 黒い男はくぐもった声を漏らしながら、左手で男の手を掴んだ。


「ぐうっ!」


 その刹那、まるで人間のものではないような強い力が男の腕を締め上げた。みしり、と骨が軋むような音がして、彼は悲鳴を上げ腕を抑えながら黒男から離れる。

 黒男は乱れた襟元をなおしながら、乱れた前髪の隙間から僅かに覗く切れ長の瞳で全員を見据えた。


「——我々は 怪異かいいに巻き込まれたんだよ」

「カイイって……あの、妖怪とかのですか?」

「そう。その怪異。流石学生さんだ。博識だな」


 微笑を浮かべ褒められた女学生は、ぽっ、と頬を朱に染めて手で両頬を包み込む。


「ふん。何が怪異だ! 馬鹿馬鹿しい」

「信じるか信じないかは其方の自由だが。今この電車に閉じ込められているというの紛れもない事実だぞ」


 構わずに再び扉をこじ開けようとしている男の背中に言葉を放つと、髭面の男は悔しげ唇を噛みながら扉から手を離した。


「どうすれば良いんですか」


 でんでん太鼓の音に夢中になる赤子とは対照的に、母親が深刻そうに尋ねた。

 すると、黒い男は指を二本立て口を開く。


「方法は二つ。一つは妖の気がすむまで怪異に付き合えば良い。怪異というものは嵐と似た様なものだ。嵐が過ぎ去るのを待つ様に、ここでじっとしていればは外に出られる」

「……それなら、慌てる必要はないじゃないか」


 なんだ、と髭面の男は安心した様に座席に座った。

 他の者達も同様に、強張っていた表情が僅かに緩む。しかし黒男は間髪入れずに、くくく、と可笑しそうに笑った。


、ということはそれが数秒先か、数年先かは分からないということだ。そもそも現世と異界の間に流れる時間は違う。今この時も、現世では一秒過ぎただけかもしれないし、既に三日も経っているかもしれない」


 安心しかけていた乗客達から、さぁっと一気に血の気が引く。 

 ここでじっとしてさえ入れば、確実に元の世界に戻ることはできる。しかしそれがいつになるかは誰も分からない。数分で戻れるならまだしも、もし何日も何年もずっとことになるのだとしたら——最悪の状況が彼らの脳裏に過ぎる。


「巫山戯たことをいうなっ!」

「そんなの困ります!」

「も、もう一つの方法はなんですか!」


 緩んでいた空気が一瞬にして張り詰めた。皆目の色を変えて一斉に黒男に詰め寄った。

 全員に囲まれ、鬼気迫る勢いに、彼は苦笑を浮かべながら僅かに身を仰け反らせる。


「なぁに、単純明快なことだよ。この怪異の原因を突き止めれば良いだけだ」

「怪異の原因って……」


 女学生が困惑気味に呟いた。


「地震や台風など、いつ起きるか分からない天災だとしても……地層のずれや気圧の変化などのがあって生ずるだろう。この世の事象には必ず原因がある。例え怪異だとしてもそれは揺らぐことはない。唯——原因が分かっても太刀打ちできない天災とは違い、怪異は原因さえ分かれば俺が解決できる。従って、運転手が見たという『幻影電車』が現れた理由を突き止めさえすれば……我々は揃ってこの電車から解放されるだろう」

「理由っていわれたって……」


 そんなこと解るわけないじゃないか——。

 偶々同じ電車に乗り合わせた、名も知らぬ乗客達。この時初めて全員の意見が揃った。

 沈黙が流れる空間の中で、黒い男は口元に手を当て噛み殺す様な怪しい笑みを浮かべた。


「くくくっ、呆けていると状況は悪い方へ転がるだけだ」


 その瞬間、窓一つ開いていない締め切られた車内に生暖かい突風が吹いた。

 風は女の着物の裾を、女学生の髪を乱し、運転手の帽子を飛ばした。そして黒男の長い前髪も巻き上がり、紅玉のように美しい真紅の瞳が露わになる。


「ほぅら……はじまるぞ」

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