ケンタッキーの悲劇
ジム・ツカゴシ
第1話
ケンタッキー州。日本人の多くが親しみを感じるニューヨーク州やカリフォルニア州とは異なりこの州の知名度は低い。
競馬ファンには三歳馬が競うダービー競馬がこのケンタッキー州で毎春開かれることが知られている。ファースト・フーズでは老舗のケンタッキー・フライド・チキンは文字通りこの州で生まれた。創業時の第一号店が今でも営業を続けている。産業界に身を置くビジネスマンならば、トヨタが世界でも最大規模の組立工場を州の北部に持っていることを知っているであろう。
しかし、多くの人は、この州が米国のどこに位置するのかをすぐには指摘できないであろう。
このように有力な州とは考えられていないケンタッキー州も十九世紀半ばまでは今とは異なり政財界では一目置かれる存在であった。正副大統領が死去あるいは事故によって責務を果たせない事態に陥ると、大統領職は連邦下院議長が担う。その連邦下院議長でケンタッキー州出身のヘンリー・クレイは政界では重鎮のひとりだった。クレイは国務長官も歴任している。ケンタッキー州生まれのリンカーンが駆け出し政治家の時代に師と仰いだのがこのクレイだった。牧畜業はこの州の伝統的な産業だ。また、奴隷州だったためにその豊富な労働量を利用したタバコやヘンプと呼ばれる麻のプランテーションが盛んで、ヘンプから作られるロープは全米に供給された。プランテーション主たちが金を投じたのが英国原産の高級馬であるサラブレッドであった。富裕層はアパラチア山脈の西側では唯一の舞踏会を頻繁に開き、そこにはニューヨークからも男女が訪れた。
このケンタッキー州で、一八二五年十一月六日、州都フランクフォートで当時の州司法長官が何者かによって刺殺されるという大事件が起きた。殺害の場は司法長官が住む官舎の玄関先で午前二時ごろのことだったとされている。
殺害された司法長官はその名をソロモン・シャープといい、二十四歳で連邦下院議員に選出された将来を嘱望される若手の政治家であった。第六代大統領に選出されたばかりのジョン・クインシー・アダムスが、シャープはこれまでにアパラチア山脈の西側が輩出した最も優秀な政治家だったと賛辞を送ったほどだ。シャープはそれほど裕福ではない家庭の出だったが、ボーリング・グリーンの町で弁護士として辣腕を振るい政界に進出したのだ。
ボーリング・グリーンは今は州を南北に縦断するルート六五に面した人口が十万人ほどの、GM製の高級スポーツカーであるコルベットの生産地であることを除くと取り立てて特徴もない地方都市である。十九世紀には米国北部から南部にいたる街道が走る宿場町だった。
やり手の弁護士ではあったが、短期間で三千六百エーカーもの土地を手にしたシャープには、黒い霧の噂も付きまとっていた。日本と異なり地価が安い米国ではあるが、三千六百エーカーは十八ホールのゴルフ場に換算すれば十八面に匹敵する。
どの時代でも政界に政争は付きもので、このような噂の司法長官には少なからず政敵がいた。殺害の容疑者はそれらの政敵のひとりと考えられた。深夜に扉を開けて玄関のすぐ外でシャープが加害者と相対していたことも顔見知りの犯行とされた根拠だった。直ちに犯人探しの捜査が始まった。政界で政敵とみなされていた政治家やその支持者たちが捜査の俎上に上がった。が、確信犯が見つからないまま時が過ぎた。
壁に掛かった蝋燭の灯だけが灯る薄暗い食卓を三人の男たちが囲んでいる。話のようすではひとりは州議会の議員で他のふたりはその議員の支持者たちのようだ。
ここは州の中央に位置するバーズタウンの町だ。町の中心にある広場に面した旅籠内の食堂に男たちはいる。ミシシッピー河の支流であるオハイオ川に面した州北部の商業都市ルイビル。そのルイビルと南隣の州であるテネシー州の州都ナッシュビルを結ぶ街道がバーズタウンの町を貫通している。この旅籠は街道を駆ける駅馬車の駅逓にもなっていた。一階にはトランプ遊びのテーブルを備えたバーとその隣に食堂が、二階には駅馬車の乗客が宿泊に利用する寝室がいくつかある。
議員が他のふたりに向かって苦り切った口調で、「ボーリング・グリーンのソロモン・シャープが州の司法長官に立候補するそうだな」手にしたバーボンのグラスを一気に飲み干す。
「シャープはやり手の弁護士として突然注目され、あれよあれよという間に連邦議員に選出された若僧でね。次回の連邦議員選挙に再出馬するともっぱらの噂だったが、まさか司法長官を狙うとは予想もしていなかった」議員の真向かいに座った年配の男が応じる。
年配の男と並んだ中年の男が、「俺たちは隙を突かれたようだ。シャープは派手な選挙運動を展開中で、このままではこのバーズタウン出身の現職の司法長官の再選が危ぶまれる」
「そんなことになると俺たちの資金源である密造酒取引の存在が明るみにされてしまうぜ」空いたグラスにバーボンを注ぎながら議員がふたりに険しい視線を送る。
そこに給仕の女が大皿に盛ったカントリー・ハムと茹でたポテトを運んできた。カントリー・ハムは大きな豚肉の塊を塩漬けしたもので、冷蔵庫がなかった時代には貴重な保存食であった。料理する前夜にその塊を水に浸して塩抜きをする。それでも焼いて薄くスライスしたハムは塩辛い。酒の肴には最適で、今日でもケンタッキー州やテネシー州では人気がある。
給仕の女が立ち去ると中年の男が加える。「そうなんだ。シャープが突然司法長官を狙うことにしたのは、ひょっとして密造酒業者からの政治献金の存在を察したからかもしれない。なんとしてもシャープを落選に追い込まねばならない」
ケンタッキーと東海岸の間にはアパラチア山脈が南北に走っている。標高はさほど高くないものの太古から茂る鬱蒼とした森林が続き、馬車では容易に乗り越えることができない。そのために東海岸からの移住者は騎馬か徒歩に依存する時代が続いた。そのアパラチア山中に居を定めたのは、いったん東海岸に移り住んだものの豊かな土地はすでに他人の手に渡っていたために、再び西に進んだスコットランドやアイルランドからの貧しい移民が大半を占めていた。元々母国ではウイスキー造りで知られた人種だけに、酒税を回避しようとアパラチア地方の鬱蒼とした森林地帯を利用して秘かに蒸留酒の密造を始めた。月夜に紛れて酒を造ることから“ムーンシャイン”という今でも頻繁に耳にする語が生まれた。こうしてこの一帯には密造酒が氾濫することになったのだ。三人が囲む食卓に置かれたバーボンの瓶も旅籠屋が密造酒のルートで手に入れたものだ。
年配の男が、「あの男は一体どこから選挙資金を得ているのだろうか?」
「古参の連邦議員にも頻繁に接触をしていて中央政界に受けがよいそうだ」中年の男が付け加える。
「俺たちが担いできた現職の司法長官は既得権に胡坐を書くだけで州議会でも評判がよくない。歳だからな。積極的な議会への働きかけが見られない」
諦め切ったような年配の男の言に、議員が吐き捨てるように、「だからといって、選挙は来年だ。我々には代役を担ぎ出す時間の余裕がない」
中年の男が、「ここはスキャンダル騒動をでっち上げてでもシャープの政治生命を断つしかないな」
「何か妙案はあるのか?」議員がふたりに問いかける。
「シャープの地元にキャスリーン・ジレットという未亡人がいる。ボーリング・グリーンでは名が知られた女だ。知っているかい?」年配の男が中年の男に問いかける。
「何でもバージニア州から移ってきた一家とか聞いたことがあるが」
「そうなんだ。死んだ夫はバージニアでは政界にも顔が利いたやり手で相当の資産を築いたそうだ。ところがその夫が急死してからは未亡人の浪費で財産を使い果たしてしまい、世間体もあって六人の子供を引き連れてケンタッキーに移住してきたんだ。この未亡人は金のためにはなににでも手を出すと地元では評判だそうだ」
「確かにそのような評判を耳にしたことがある。その未亡人とシャープの間にスキャンダルでもでっち上げるのか?」
「実はな、未亡人には地元の男たちとの噂が絶えない行かず後家の三十歳半ばの娘がいてね。アンナというその娘が妊娠したそうなんだ」
「その相手がシャープなのか?」議員が年配の男に問う。
「どうしたことかアンナは相手の名を明らかにしないそうだ。ところが、母親のキャスリーンが、相手は顔なじみのシャープに違いないと口にしたのを俺の知人が耳にしたんだ」
「それは面白い。シャープには妻がいるはずだが?」
「シャープ夫人は敬虔なクリスチャンで毎日曜日のミサを欠かさないそうだ。堅気の女を伴侶に持つ男の常でシャープには女遊びの噂が絶えない。州都には単身赴任で、住まいの官舎には夜毎女の出入りが絶えないそうだ。自宅では仕事優先ということで日曜日の午前中も自宅に留まることが多い。口実は法律相談のためとしているが、訪れるのは女性ばかりだ。ミサに出席のために夫人のいない自宅に女性が。なにをしているのか容易に察しが付くというものだ。ある日曜日の朝にアンナがシャープの家から出てくるのを目撃した者がいるんだ」
乗り出した議員が、「そのアンナなる娘が妊娠した。舞台装置は揃いそうだな。娘の言を取り付けるためには母親を抱き込むのが先決だ。餌をちらつかせて接近してくれ」
「母親は金には目がないと評判だ。百ドルもちらつかせれば、話に飛び付いてくるだろうよ」
バーボンのグラスで乾杯する三人。すぐ傍の柱の陰で給仕の女が聞き耳を立てていることに気付いた気配は見られなかった。
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