黒い花

島倉大大主

序章

プロローグ:事件

「おい、今さ……」

 スマートフォンを耳に当てたまま、浅村あさむら耕哉こうやは絶句した。

「ん? なに、遂に部屋に幽霊が出たか、はは」

「いやあ、見なかったか? 今、桃子とうこさんの後ろの坂の下がちらっと映ったじゃん。そこに、なんかいたぞ……」


 自称、ネット界最高の霊能力者、御霊桃子みたまとうこ

 彼女の信者用VIP怪談ルーム『桃子の部屋』にて緊急特別企画として午後七時から『霊処探訪れいかたんぼう』が始まると、殺風景な山道が映し出された。

 『霊処探訪』は『桃子の部屋』の人気番組である。内容は司会者兼主催者の御霊桃子がいわくありげなスポットにて霊的な存在と接触を試みるというライブ動画で、割とバレバレな仕込みの霊現象によるお笑いや、有志の解析でもまったく判別できない謎の現象が度々カメラの前で繰り広げられるというものである。この有志自体もサクラだろう、というのが今、通話している阿部雄介あべゆうすけの主張で、耕哉も、まあそんなとこだろうと思ってはいるのだが、『もしかしたら』とふっと考えてしまう。

そんな不思議な魅力がこの『霊処探訪』にはあった。

 しかし、今日の『霊処探訪』はいつもと違った。まず開始時間が午後五時と予告されていたが、始まったのは二時間後。更にいつもならば「皆様今晩は」としなを作って厚化粧をした御霊桃子の挨拶から始まるのにそれもない。いきなり山道。しかもいつものスタッフが抱えたカメラでのライブ動画ではなく、どうやらヘッドセット型のカメラで録画した映像らしい。時折、カメラが振り返ると夕焼けに赤く染まった山肌が写る。自己紹介もなく、一体誰が撮っているのかすら不明な映像が五分続いた。

 ぼうっと画面に見入っていた耕哉はやがて飽きて、いつも通り雄介と通話をし始める。今回はハズレだな、いや何か意味があるのかもしれない、といつも通りの会話をしつつチャットを覗くと、時折映る風景の特徴から場所が特定されつつあった。

 その時、ちらりと何かが見えた気がした。

 黒い、真っ黒い何か。

 耕哉はモニターに顔を近づけた。

 開発の所為か、それとも何かしらの農薬でも散布したのか、まるで冬の山道を走っているかのごとく緑が無い。だが、振り返った時に映る向かいの山は青々としていた。

 と、撮影者が短い声を上げ、映像が揺れた。おっという雄介の声がスマホの向こうから聞こえた。

「転んだぞ。今日は桃子さん一人か。大変だな」

「確かに今の声は女の人だったな。でも、ホントにこれ桃子さんが一人でやってんのかね?あの人、箸も持ったことがないってキャラで売ってね?」

「ま、炎上騒ぎの後だしな、これくらいやんねーと年末のイベント失敗しちゃうだろうしな。で、お前行くの? なんだっけ、世界終焉のミサだっけか。えーと、六千五百円?」

「いや、まあ……本物が見れるって話だし、ちょっと考えてるけど」

「マジか。ま、行くことにしたら誘ってみ? 気分がのったら一緒に行ってやっから」

「ま、俺も気分がのったら、かなあ……」

 映像はまだ山道を走るものが続いている。雄介が声を上げる。

「あーあ、つまんねーなー、今回。まあ、毎回毎回そんなに面白くはないけどさ」

「いやいや、お前、毎回こえーこえー言ってんじゃん」

 耕哉の言葉に雄介は馬鹿言え、と鼻で笑う。

「ああ言わないと盛り上がらないだろうが。あーあ、幽霊でもなんでもくっきり映んねえかな。ってか、この番組欠かさず見てるんだけど、部屋にそういうの出た事一回もないぞ。お前はどうよ?」

 桃子の部屋の売り文句の一つは、彼女の番組を観続けると霊的な現象に襲われる、というものだった。耕哉と雄介が入会したのも、SNS上で『彼女の番組を観てそういう体験をした』という書き込みに釣られてだった。そういった書き込みの内容は、部屋で幽霊に遭遇するというものが殆どで、肩を叩かれたとか窓から青白い顔が覗いていたとか、ベッドの下から青白い手が伸びてきたとか、馬鹿馬鹿しくも、一人でいると結構クルものが多かった。耕哉の部屋はそこそこ広く、本棚にベッド、開閉式のクローゼットと怪談には欠かせない物が一通り揃っているのだ。それ故、耕哉は密かに神社で買ったお守りを机の中に忍ばせておいていたりする。

 凄く怖い思いはしたくない。でもちょっとだけ、見て見たい。

そんな彼の思いは、今半分だけ実現しつつあった。

 雄介の問いに応えようと口を開いた瞬間、動画の撮影者は立ち上がった。カメラが揺れ、赤茶けた地面から視線が上がり、左に揺れて後ろを伺う。

 刹那――

「おい、今さ……」

 スマートフォンを耳に当てたまま、耕哉は絶句した。

「ん? なに、遂に部屋に幽霊が出たか、はは」

「いやあ、見なかったか? 今、桃子さんの後ろの坂の下がちらっと映ったじゃん。そこに、なんかいたぞ……真っ黒いでかいのが……」

 何かが居た。確実に居た。

 すでに陽が沈み、辺りは赤から薄紫へ変わりつつある。その中に真っ黒な何かが見えた。

「うーん、俺は気がつかなかったな。あれじゃね、地面とかに開いた穴とか」

「いや、そういうのじゃなくて……もっと、こう立体的な――」

 耕哉は自分の声が僅かに震えている事に気がついた。

 まさか――ついに――キタのか!?

 そんな耕哉の心中を察したのか、雄介は不満の声をあげた。

「んだよ、俺だけ置いてけぼりかよ! くそっ、また後ろ向いてくれないかな!」

「いや、それは――」

 耕哉は最後まで言葉を発せなかった。

 腹の辺りがさわさわする。

 部屋がぎしっときしむ。その音にびくりと体が震え、汗が一滴、額からするすると滴り、眉に当たって右頬を伝っていくのを感じる。

 もうやめよう。見るのをやめよう。PCの電源を落とそう。

 そう思っているのに、体はぴくりとも動かない。ただただ、スマホを左手に持ち、右手でマウスを掴んだまま画面を食い入るように見つめ続ける。

 どこか遠くで雄介の声が聞こえる。だが、それはもう形を成さない雑音で、耕哉の頭の中に渦巻くのは、カメラマンの荒い息、靴が土を蹴る音、木が擦れ合う音に風が唸る音。

 そして、背後から迫る何かが出す音。

 大きくて、重くて、そしてやや半熟の音。

 ぼちゅっ、ぼちゅっ、と段々と大きく早くなってくる足音。


 ぼちゅっ。


 耕哉は振り返ると、椅子の上で悲鳴を上げた。

 彼のすぐ後ろ、部屋の真ん中に何かが居た。

 真っ黒で、渦巻いて、半熟だった。


 大きな悲鳴と物が倒れる音が響いた。

 夕食の準備をしていた耕哉の母、浅村和代かずよは肩を震わすと、天井を見上げ耳を澄ました。

 前に一度、同じ事があった。耕哉がネットの動画を見て驚き悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちたのだ。駆けつけ、ドアをノックすると中からばつが悪そうな耕哉の顔が覗いた。

 何でもない。子供じゃないんだから、一々上に来なくても良いよ。

 そりゃそうだけど……と和代はゆっくりと台所を出ると階段の下まで来た。

 何か音が聞こえる。

 しゅっしゅっしゅっと連続で聞こえるそれは、次第に間隔が短くそして甲高くなってゆく。と、ふっと後ろでまとめた髪がふわりと前に流れた。はっと目を見張ると、階段下の橙色の照明の中を、細かな埃がゆったりと流れてゆくのが見えた。

 目で追う。

 それは二階に上がってゆく。

 二階に空気が流れてゆく。

 窓がどこか開いて――

 途端に足がよろけた。床がきしみ、壁に手をついて悲鳴を上げるが、それは轟音にかき消された。

 ずずずずんっと腹に響く音が聞こえ始めた。

 二階だ。

 何かが起きている。和代はそう思うや、階段を這うように駆け上がった。その間も揺れと音はどんどん大きくなる。階段を登り切り、耕哉の部屋のドアがガタガタと震えているのが目に入る。

 と、更に大きな揺れがきて和代は床に倒れ伏した。半開きになっているドアに四つん這いで辿りつくと、上半身をねじ込んだ。

「耕哉っ! 耕哉大丈夫!?」

 椅子に座っていた耕哉が振り返った。

「うるっさいなあ。だから子供じゃないんだから一々、来なくてもいいってば……あれ、どうしたの? そんな所に寝っ転がって」

「え……」

 和代は上半身を起こすと、耕哉をまじまじと見た。

 ゾッと何かが背中を走り抜け、汗が吹き出す。

 なにこれ? まさか。こんな。

 ドア枠に捕まり立ち上がる。

 こんな――耕哉は、こんな――


 ……あら?


「……そろそろご飯だから下に降りてきたら?」

 和代はそう言うと、ドアから離れて行った。耕哉は頷くと、椅子から立ち上がろうとして、よろけて膝をついた。

 頭が少しふらふらする。眼精疲労ってやつかな。

 耕哉はフローリングの床に転がったスマートフォンを見つめ、体を動かし、首を傾げた。その顔が曇る。

 あれ? なんで通話モードになっているんだ?

 あ、誰かと話して――いや、話してない、か? 最後の履歴は……昨日の母さんだしな。

 和代は既に階段を降り始めた。その音を聞きながら、耕哉はしばらくじっとしていたが、やがて右手でスマートフォンを掴み上げ、左肩を壁に預けると、立ち上がり戸口に立った。

 なんだろう、何かを忘れているような……

 振り返った耕哉は、PCの電源が点けっぱなしなのに気がついた。

 ……まあ、食べてからも少しネットをやるし、別にいいか。

 細長く狭い部屋の奥にあるPCに背を向け、耕哉は階段に向かい、そこでまた立ち止まった。

 あれ? 手摺……

 階段の左側についた手摺を耕哉はまじまじと見つめ、そういえば、この手摺を降りる時最後に使ったのはいつだったかな、と考えた。

「耕哉、どうしたの?」

 和代の声に耕哉はぼんやりと口を開いた。

「母さん、僕の左の腕と足って……いつ無くなったんだっけ?」

 階段の下で、和代が耕哉をじっと見つめ、口を開きかけ、やがて閉じた。

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