Ⅱ
階段を駆け上がり、地上階に出た。化粧品が並ぶそのフロアには女性客が多くいた。俺は客の間をすり抜けるようにして走り続けた。少し前を走っていた彼女に追いつくのに、それほど時間はかからなかった。横に並んだところでスピードを落とし、後ろを振り返った。誰かが追ってくる様子はなかった。追い抜かれた客たちが、大理石のフロアの上をバタバタと走る俺たちを、驚きと蔑みの混じった眼差しで見ていた。
「誰も来ないよ」
足が地面を蹴るのに合わせて、声が弾んだ。彼女は唇を噛みしめながら、首を少し左に傾け、俯き加減に走っていた。彼女の必死さがひしひしと伝わってくる。俺は思わず噴き出してしまった。必死な表情の割には、彼女がそれほど速く進んでいなかったからだ。
「何笑ってるのよ」
少し先の床を見つめながら、彼女が怒るように言った。
「失敬」
明るい大理石の空間から暗く冷たいコンクリートの上に吐き出されたところで、やっと彼女は止まり、ガードレールに手を突くようにして息を整えながら、デパートの中に目をやった。やはり誰も追ってきてはいなかった。彼女は俺の顔を見て、恥ずかしそうに笑った。
「見ての通り、運動は、苦手なのよ」
息も絶え絶えに彼女は話した。
「だから俺より先にスタートを切ったんだね」
「ある程度の、ハンデがないと、ハイヒールのおばさんにも、負けちゃうくらい、足が遅いのよ」
呼吸が落ち着くと、彼女はデパートを背にして左の方向に歩き始めた。駅があるのとは反対の方向だった。「付いてきて」とも「じゃあね」とも言われることはなかった。たぶん、そこのところは俺に委ねられたのだろう。俺はもちろん彼女のあとに続いた。あらぬ罪を着せられて、その理由もわからないまま帰されたのでは納得がいかない。
彼女は走るのは遅かったが、歩くのは驚くほど速かった。徒歩と全力疾走の間には、ギア一つ分の違いもなかった。俺は遅れを取らないように懸命に歩いた。走るのよりよっぽど疲れる。どうやら、競歩の部では彼女に軍配が上がりそうだった。
「歩くの速いね」
駅から離れ、行き交う人の数が目に見えて減ったところで俺は言った。
「人は一秒ごとに老いていくのよ」と彼女は言った。だから、一秒たりとも無駄にはできない、ということだろうか。左の細い路地から顔を出した野良猫が、彼女の勢いに驚いたように再び路地の中に引っ込んだ。
「猫も一秒ごとに老いてるんだろうね?」
「猫? 猫は時間なんて気にしないわ」と彼女は面白くもなさそうに言った。どうやら、彼女は彼女なりの信条を持って世界を解釈しているようだった。俺は、「あんたには強い信念がある」と言ったバーのマスターの言葉を思い出した。
小さな個人経営の電器屋や薬局、飲み屋の前を通り過ぎ、小さな橋を渡ると、目の前に坂道が現れた。その道は緩やかに角度が付き始めたところですぐに右に折れ曲がり、その先は上るのに骨が折れるほどの急勾配でUターンを繰り返しながら、高台の上へと続いていた。坂道の到着点のあたりにはいくつかの家が見えた。どうやら高台の上には住宅地が広がっているらしかった。
彼女は歩くスピードを緩めなかった。その足取りを見ると、でたらめに歩いているわけではなくどこかを目指しているようだった。あるいは、彼女は休日の昼下がりにウィンドーショッピングをする時も、これくらいの速さで歩くのかもしれない。
中腹まで来たところで、ようやく彼女は足を止めた。それまでずっと山肌を撫でるようにうねりながら上っていた道は、そこで初めて山の表面から離れ、その間にできた空間は展望台になっていた。車三台分ほどの小さなスペースには、背もたれのない簡素なベンチが二つ並び、その脇には横長の楕円形をした巨大な黒曜石が上半分を切り取られた格好で据えられていた。つるりとした石の断面に「光が丘」と彫刻されているのが、街路灯の漏れた光で何とか確認できた。この場所の薄暗さを考えれば、その命名には皮肉かユーモアか、でなければ切なる願いが込められている気がしてならなかった。
彼女は「光が丘」とその向こうにある闇との境目まで行くと、腰ほどの高さの柵に寄りかかるようにして立った。俺も隣に並ぶ。眼下には決して豪華ではないが、ひっそりと美しい夜景があった。小さな光の粒がバランスよく配置され、一つの大きな絨毯のように広がっていた。
その中央に俺たちがさっきまでいたデパートもあった。哀れな千田保安員は、まだあの巨大な箱の中で当惑しているのだろうか。二つの缶ビールを手に、「ちょっと、どういうことよ」と呟く千田保安員の姿を想像して、少し申し訳なくなった。しかし、俺にはどうしようもない。彼女にしてやられたという点では、俺も同じだ。恨むなら、バベルの塔を造ったノアの子孫たちを恨んでもらいたい。
「どうしてあんなことをしたの?」
夜景を見つめる彼女の横顔に訪ねた。
「私が万引きしたこと? それとも、あなたを万引き犯にしたこと?」
「両方だよ」
少し間があった。
「ただの暇つぶし」
「あまり褒められた暇のつぶし方とは思えないけど」
「確かにそうね。バーでお酒でも飲んでるほうがよっぽどまともだわ。本でも読みながらね」
そう言って彼女は、ふふっ、と笑った。悔しいけど魅力的な笑い方だった。
「いつから俺のことに気がついてた?」
「たぶん、あなたが私に気づくよりも前よ」
「本当に?」と俺は驚いて言った。
「たぶんね。バーで会うよりも前にホテルで見かけたわ。気づいてた?」
「いや、全然」
「ほらね」
俺はふと、ここに来る前、東京のビルの屋上でギターの男に言われたことを思い出した。なるほど。俺の気づかないところで、彼女は俺のことを見ていたのだ。
「この前、バーで俺に酒をおごってくれたのはなぜ?」
今日の出来事についても疑問は山積みだったが、とりあえず時系列に沿って訊いていくことにした。メインの前に前菜だ。
「さぁ、なぜかしら。あなたに惚れたのかも」
彼女は俺をからかっているのか、照れ隠しなのか、それともその両方なのか、乾いた声を立てて笑った。悔しいけれど、魅力的な笑いだ。
「本当に?」
「こっちは嘘。残念ながらね。残念?」
「少しね」
こっちは俺の本心だった。残念ながら。
「お礼よ」
「何の?」
「何のかしら?」
「随分と秘密が好きみたいだ」
「私だってあなたのことは何も知らないわ。村上春樹とお酒が好きで、英語が話せるってこと以外は」
「十分さ」と俺は言った。「俺が自己紹介するとしたら、それが俺の話すすべてのことだよ。『お酒と村上春樹が好きです。大学で英語を勉強してます。よろしくお願いします』」
お辞儀。
「名前はジョン?」と彼女が言った。
「名字はドウ?」
そう言って俺は笑った。「ニコ。もし俺を呼ぶ必要がある時は、そう呼んでくれればいい」
「ニコ?」
「ある友達が名付けた」
「何だかコードネームみたいね。仲間内でしか通じない暗号名」
「コードネーム? うん、そうかもな。似たようなものかもしれない」
そう言いながら、葵は仲良くなった友達に意味のわからないニックネームを付けて回っていたことを思い出した。葵はそうやって仲間である証拠としてのコードネームをつけることで、自分と相手の関係を確認していたのかもしれない。あたしたち、友達だよね、と。
「どういう意味なの?」
「え?」
「ニコってどういう意味なの?」
「別に大した意味なんてないんだ」
和成の「和」って、「にこやか」の「にこ」でしょ?
「平和」の「和」だよ。
だから、それって「和やか」の「和」でしょ?
そうなのか?
そうよ。
その瞬間から、俺のあだ名は「ニコ」になった。「にこやか」の「ニコ」だ。
彼女が俺の前に何かを差し出した。缶ビールだった。
「まだ持ってたの?」
「こんなこともあるかと思って、念のためね」
そう言って彼女は自分の分も取り出した。俺と彼女はほぼ同時に缶を開けたが、どういうわけか俺のほうだけ噴いた。彼女はそれを見て笑った。
「君の名前は?」
「ジェーン」と彼女が答えた。
「やっぱり名字はドウ」と俺が言った。それから俺はしばらく待ったが、彼女は本当の名前を教えるつもりがなさそうだったので、それ以上は訊かずに、メインに移ることにした。
「どうして俺を万引き犯に仕立て上げたの?」
「『仕立て上げた』っていうのは、人聞きが悪いわね」
実際、君は立派に俺を犯罪者に仕立て上げたじゃないか、と思ったが、口には出さなかった。別にそのことについて怒っているわけではない。
「怒ってる?」と彼女はタイミングよく訊いてきた。
「別に怒ってるわけじゃないよ」と俺はたった今思ったことを口にした。「あれはあれで楽しかった」
まぁ、うまく逃げられたから言えることであるのは確かだけど。
「追及すべき対象が二人になれば、相手は戸惑うでしょ? 保安員は二人分のことを考えなきゃならないし、私たちが受ける追及は二分の一になる」
そこで彼女は缶ビールを口に運んでから、「ほら、あれよ」と言った。「虎に追われてる野うさぎが、土壇場で『あそこにいる狸は、私よりもずっとおいしいですよ』って言ったら、虎は出来れば二匹とも捕まえたいって思うでしょ? 虎は二倍頑張んなきゃならないし、野うさぎの命の危険は二分の一になる。ね?」
「ね? って、そもそも、野うさぎが狸を巻き込まなければ、狸は命の危険もなく昼寝をしていられたんだ」
「細かいことは気にしないの」
「細かくないよ。これは狸の命に関する問題だ。だいたい、君が野うさぎで、俺が狸って言う比喩は、その段階で俺に対する差別だ」
「あなたのその発言は狸に対する差別よ」
俺は何か言い返そうとしたが、馬鹿馬鹿しくなってやめた。俺は別に、野うさぎと狸の優劣について議論したいわけじゃない。
「それで、どうして俺の鞄に覚えのない缶ビールが入ってたんだ?」
「私が入れたのよ」
「いつ?」
「あの保安員の人が私たちのところに来る前」
彼女の説明によると、千田保安員が俺たちのところに来る直前、彼女が無邪気な子供よろしく俺の鞄を叩いたあの瞬間に、缶ビールを俺のバッグに滑り込ませたらしい。
「よく入れられたね?」
俺は率直な感想を述べた。
「そういうの得意なのよ」と彼女は言った。他人の鞄にビールの缶を忍び込ませるのは、「そういうの」で一括りにされるような事柄ではないし、ましてや得意も何もあったものじゃないだろう。
「それにあなたの鞄、ちゃんと閉まってなかったのよ」
「ちゃんと閉まってなかった?」
その言葉に昔の記憶が蘇った。そりゃ、ちゃんと閉めなかった俺も悪いけど、だからってそこから物を侵入させたり、自分が侵入したりしなくてもいいじゃないか。
「それで、虎に食べられそうになった時のための脱出路にしようとしたわけだ」
「まぁ、そんなこともあるかと思って、念のためね」
「随分と念入りな性格みたいだ」と俺は言った。「さっきも言ったけど、狸の命の心配はしなかったのかな?」
彼女は、うぅん、と唸りながら少し上を見つめたあとで、「しなかったわ、残念ながら」と言った。随分と無責任な念の入れ方だ。
俺たちはしばらくの間黙ってビールを飲みながら、光の絨毯を眺め、風の歌を聴いた。闇が深まり、空気が冷えるしたがって、光の粒はより鮮明になっていく気がした。俺たちの後ろをゆっくりとしたスピードで車が上っていき、一瞬だけ光が丘に光が溢れた。
「もうあのホテルには泊まってないのかい?」と俺は尋ねた。
「まだ泊まってるわ。でも明日の朝にはチェックアウトするつもり」
それを聞いて、俺は少なからず驚いた。
「奇遇だね。俺もちょうどそう思ってた。明日の朝、この街を出ようって」
彼女は大して驚いた様子もなく、あら、そう、というように二、三度頷いた。
「どこへ行くの?」
「さぁ、どこかしら。まだ決めてないの」
「行く先を決めずに旅をしてるんだ?」
「それも同じだ」と俺は言いたかったが、彼女はやはり、あら、そう、というように頷くのだろうと思い、やめた。
「そんなところね。飽きるまで、思いつくままに色々なところに行ってみるつもり」と彼女は言い、「風の吹くまま、気の向くまま」と添えた。
「The time you enjoy wasting is not wasted」
気がつくと、俺はそう呟いていた。
「何、それ?」
「ある偉人の言葉だ。おそらくは死んだ偉人」
「死んだ人はみな偉人よ。でも、いい言葉ね」と彼女は言った。それから、目の前にある闇を見つめ、口をわずかに開いたままの格好で静止した。言うべき言葉を探しているようでもあったし、ある言葉を言うべきかどうか迷っているようにも見えた。
「世界は愚かだ。でも、お前が思っているほどに愚かではない」
しばらくして彼女が言った。
「それは誰の言葉?」
「私の言葉」
俺はその言葉を口の中で、声にはせずに呟いた。
「悪くない言葉だ」
「そう思う?」
彼女のその問いには答えずに、俺は思いついたことを左の人差し指を立てながら言った。
「世界は賢い。でも、お前が思っているほどに賢くはない」
「世界は偶然だ。でも、お前が思っているほどに偶然ではない」と彼女。
「世界は必然だ。でも、お前が思っているほどに必然ではない」と俺。
「世界は無限だ。でも、お前が思っているほどに無限ではない」と彼女。
「不思議だ。どれも的外れとは言えない気がする」
「結局、世界とか時間とか、そういう大きすぎる存在は私たちにはわからないってことなのよ」
「こういうのはどうだろう?」
そう言って、俺は彼女の顔を見た。「世界は丸い。でも、お前が思っているほどに丸くはない」
「意味ありげね」と彼女は言った。「赤いズボンのネズミが何か言ってきそう」
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