エピローグ
あの戦いを経て 神奈川陣営
神奈川と東京の町田をかけた異境から、七年という月日はあまりにも足早に過ぎ去った。
場所は千駄ヶ谷、東京体育館。
かつて東京オリンピックによって賑わった隣に聳える巨大な競技場と比べると小さいが、体育会系の学生にとっては思い出深い場所となっている者も多いことだろう。
そんな思い出深いコートに、彼女は数年ぶりに立っていた。
あの時から変わったのは年齢とチームメイト、そして立場である。
『さぁ長らくお待たせしました! 全日本女子プロバスケットボール選手権決勝! 両チームの登場です!』
バスケの試合は両チームのユニフォームで色が被らないように、白を基調とした物と黒を基調とした物とで分かれるようになっている。
まずは白いユニフォームのチーム。
さすが決勝戦まで勝ち上がって来たチームだけあって、人気を裏付ける歓声が登場するだけで上がる。
だがそのあとに現れた相手の黒チームの登場と同時に上がった歓声は、それを遥かに凌駕する声量だった。
同じ日本人チームだというのに、まるで白がアウェーである。
その歓声を主に作っているのは、黒チームの二人の選手だった。
『七年前の異境にて敗北を喫したものの、バスケの世界では勝利の女神! 大学入学と共に覚醒した二人が率いる、現在注目度ナンバーワン! 神風ヴァルキリー!』
ここまで来た。
胸の高鳴りは弾むようで、目の前には闘志をむき出しにした敵チーム。
懐かしい光景だ。しかしやはり好きな分野だからか、この胸の高鳴りはそのときを遥かに超えている。
当然と言えば当然か。
今自分がいるのは、自分自身が選んだ自分の戦場なのだから。
キャプテンである
皆も意気揚々、闘志に満ち満ちた気迫ある眼差しをしている。
鎌倉自身、他のどのバスケ選手にも負けないほどバスケに研鑽と努力を重ねていることを自負しているが、唯一自分と同じくらいだと認めているのは、七年前にも同じ戦場に立っていた友だった。
「勝つよ、キャプテン。今度こそ」
「そうね。無様なところは見せられないわ。行くぞ!」
「「「「オー!!!」」」」
白熱した試合はどちらかが一方的に攻めるという展開にはならず、どちらが勝つかわからないシーソーゲームが繰り広げられた。
故にゴールが決まる度に観客席は盛り上がり、第四クオーター後半の残り数分の会場の熱気はもはや人々を熱中症に誘わんばかりの熱気を放っていた。
プレイする側はもちろん、応援する方も汗を掻く。
残り七秒。
白チームのシューターがスリーポイントを決めて、逆転する。
得点差はわずか一点。
黒チームに与えられた時間はわずか七秒。
上鶴がドリブルで切り込んでいく。
味方のシューターには敵のダブルチーム。そのため一人はフリーだが、白チームの圧が凄くて迂闊に動けない。
残り一人もまた、相手のポイントガードにマークされていて完全に封じられている。
しかし上鶴には一つだけ、パスコースが残っていた。
他三人も無論、チームメイトとしての信頼は厚い。だが彼女との信頼はその比ではない。
彼女とはずっとライバルで、ずっと好敵手で、そして永遠の親友なのだから。
今までに築き上げた信頼が、他の誰よりも厚いのは当然だ。
故に上鶴は自分をマークしている選手を見つめたまま、先はノールックかつほぼノーモーションで、敵も味方も予測できない軌道を描いてパスを通した。
受ける側もまた相手に視線を向けたまま自然にボールを取って、相手が気付く間もなく鋭いキレで相手を置き去りにしていく。
残り一秒、ゴールまであと三歩。
一歩を強く踏み込み、二歩目で高く跳び、三歩目で宙を蹴って、三メートルに立つゴールに綺麗なダンクシュートを決めてみせた。
再逆転。
そしてここから相手チームに逆転する術はなく、相手が宙にボールを抛って終了。
黒チームの優勝を湛えて、色鮮やかなテープと紙吹雪が放たれた。
最後の逆転ゴールを決めた鎌倉に、上鶴と控えのベンチ選手も含めた全員が勝利を喜び抱き締めようと飛び込む。
観客席からは惜しみない拍手が送られて、鎌倉も手を振って応える。
だが同時、鎌倉は逆転負けした相手チームを見ていた。
項垂れ、意気消沈。戦いを終えて既に気迫はなく、くたびれている。
それこそ七年前、異境に敗北していた自分達のようだと思いかけて、やっぱり違うと思い返した。
半ば強制的に連れて来られ、能力を与えられ、分野違いの戦場に送り込まれて、犯されて、負けた。
分野違いだから悔しくないとは言わない。
自分を犯したあの悪魔が、永久牢獄へと閉じ込められたと言われてもピンとこないし、だから犯された事実を綺麗さっぱり忘れることなどできない。
でもやっぱり、同じ敗北でも込み上げてくる悔しさが違うのだと思う。
もしも今この試合で負けていたら、自分はロッカールームで泣き崩れていただろうけれど、あの戦いでは負けても意外と冷静で、帰ってからもすぐに寝れた。
しかしだからといってあの戦いが、無駄なものだったとは思わない。
戦いから七年。バスケに向かう姿勢が変わった。
勝利に対して貪欲になった。ただ楽しいだけのバスケは終わった。
しかし何もかもを捨てたわけではない。
がむしゃらに練習するだけではなく、研究し、勉強する努力と研鑽を重ねるようになった。
好きなことを好きなだけ突き詰めることは誰にだってできるけれど、そこに他者からの称賛や評価を求めるのならば他人から認められるだけの努力と勉強を重ねなければならない。
それでも認められるのはごく一部の人間で、しかも永久の栄光などあり得ない。
必ず世代交代があり、頂点はいつか変わりゆく。奪って奪われ、取り戻して取り返される。その繰り返しを延々と続けていく世界に、自分は脚を突っ込んだ。
ならばこれは命の駆け引きに違いない。
例え現実には死なないとしても、負け続ければ心が死ぬ。
死にたくないのなら命懸けで足掻き、戦わなくてはならない。
中途半端な姿勢で、戦場に立つことなど許されない。
それを教えてくれたのが、あの異境という戦いだったと鎌倉は思う。
「ありがとう。またやりましょう、決勝で」
差し伸べた手を、相手チームのキャプテンは強くとって握り締める。
手は涙で濡れていた。
それは相手もまた、ここまで来るのに命懸けの努力と勉強の研鑽を重ね続けてきた証拠。
幼少期から続けてきたバスケという競技が、ただ楽しいだけのものでなくなってしまったのは寂しい気もするけれど、無駄ではないと思っている。
今まで以上に本気で取り組んできたからこそ、今日、日本一という栄誉を得たのだから。
「あなた!」
ふと、上鶴が観客席に手を振っているのに気付く。
見ると、彼女と二年前に結婚した座間
上鶴――座間もまた、あの戦いから自分に不足なものを感じ、努力と研鑽を重ねて勉強して、この場所にいる。
同時に彼女は恋の面でも努力して、座間駿介にとって特別な存在へと成長し恋人となって夫婦となり、元気な子供まで生むことが出来た。
きっと彼女にとっても、あの戦いはとても大事なものになったに違いない。
もう出たくはないけれど、しかし出てよかったと思っている。
命懸けで、全力で好きなことに挑むことを馬鹿にする人だっているこの現代で、あの戦いは全力で戦えない事に対する悲しさと虚しさを教えてくれた。
なんの覚悟も決めずに、他人の覚悟を穢すことは許されない。
そして、覚悟を決めるとはどういうことかを教えてくれた気がする。
異境に出た全員が、同じ教訓を得られたとは思えない。
だがきっと、異境には二度と出ないと言っている半分以上の人が、同じ結論に至ったのだと鎌倉は思う。
異境では負けたけれど、しかし教訓を得られたからには完全なる敗北ではないと言い切れる。
最初こそ特別でもなんでもなかった戦いが、終わってみれば最低の、しかしとても大事な思い出になっていることには、少し納得出来ないような自分と納得出来ている自分がいて、複雑だがスッキリもしていて、結局は矛盾だらけで今も引きずっている。
敗北の味は苦く、得た教訓は重い。
失った物は多く、得た物はない。
だがあの戦いは、これから何かを得るための戦いをする覚悟の決め方を教えてくれた。
少なくとも、鎌倉夏美はそう納得する事にした。
「じゃ夏美、先に帰るね」
「はいはい、旦那さんによろしくね」
ロッカールームには自分一人。
打ち上げの日程も決まって、自分ももう帰るだけ。
割れんばかりの心地のいい喧騒が、今もまだ胸の中で響き渡って、残って、痛いくらいに鼓動に刻まれて、それがまた心地いい。
一人、その余韻に浸っていると扉がノックされる。
清掃に来た人かと思えば、その人はスーツを着てキチンとネクタイを締めていた。
視線が、その人のネクタイピンに止まる。
去年の秋――いや、冬の初めくらいに、鎌倉自身がその人へと送ったプレゼントが。
「お疲れ様。よく頑張ったね、夏美」
「ありがとう」
自分が欲しかったのは、彼に送ったネクタイピンや東京陣営が受け取った賞金のような目に見えるものではない。
勝利という概念そのものであり、何より褒賞は褒め称える称賛に限る。
それも自分にとって大切な、かけがえのない人と共に勝利し、かけがえのない人から送られる称賛ならば、それは人生最大の報酬だ。
ここまでしてきた努力のすべてが、報われる瞬間だ。
「帰ったら晩御飯にしよう。夏美の好きなもの、なんでも作ってあげるよ」
「そう? それじゃあねぇ……」
もう二度と、異境に参加したいとは思わない。
鎌倉も座間夫妻も、誰もがそう答えるだろう。
あの時得られなかった報酬のすべてを得るための努力をする方法を教えられ、それを得た今、あの戦場に再び帰る理由が、自分達にはないのだから。
望みはもう、自分達の手で掴み取った。
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