E氏、そして牛丼は松屋(前)
自分の職場の向かいの座席の住人であるE氏は、東京生まれの東京育ち、つまり東京男だ。スレンダー、眼鏡、会計系職人。どれもが彼の魅力だが、何より自分で考えるから、結果として個性的に生きている。
出勤するとE氏は、マウスを操りながら真剣な顔でラップトップの画面を凝視しつつ、小さくて黒いものを口元に添えるように手で持っていた。
「なんすかそれ」
声をかけると、E氏は無言でそれをちょっと持ち上げてみせてくれた。
クールでスタイリッシュに見せてくれたそれは、酢こんぶだった。海苔の時代など、とうに終わっていた。
「いる?」
「いらないです」
E氏はそれを、さっきから何故かずっと口に運び入れようとしない。その、手に持ってる酢こんぶ。片付けてから仕事をしてほしい。
でもこの匂いで集中できる、とか思ってそう。
やがて昼になり、自分がいつものように一人でサッと立ち上がって出て行こうとすると、1ヶ月に1~2度頻度のE氏による「あっ、行く?」が聞こえた。
この「あっ、行く?」というのはE氏特有のテクニカルな言葉で、まるでこっちがE氏とランチに行きたくてE氏を見つめていたかのような感じが演出される。そしてそんな切ない自分に、E氏が優しく声をかけてくれたような雰囲気が演出される。
もちろん自分はいつものように一人でサッと立ち上がっただけなので、事実上この「あっ、行く?」はE氏からのお誘いである。
そしてこれが発動する時は、二分の一くらいの確率で「面白い話もあるし」と言い添えられる。つまり話したいことがある、昼一緒に行こうぜ、というわけだ。勘と経験と勘によるツーカー。
最初に寄ったカフェは混んでいた。
カレー屋を提案すると、「俺、あそこだめだから」と2年以上前に一度だけ食べて出したNG条件が更新されずに継続されていた。
2会計期経過しているんだから再審査してほしいが仕方ない。
最終的に牛丼を提案した。
「さっと食べられるほうがいいですよね。牛丼でどうですか」
「牛丼完璧じゃん……」
悪い気はしない。
ただし自分は松屋推しなので、「その場合は自動的に松屋になります」と告げた。
「松屋でいいの?」
むしろ松屋である。
だから語った。
「自分はもし道に吉野家と松屋が2店舗並んでるところで2日間連続で食べるとしても、むしろ松屋、そして松屋です。松屋アンド松屋です」
「あーわかる。俺は実はさ。味的には吉野家派なんだけど。でも、ゆでたまご先生の一件があってから揺らいでるから、松屋いいと思う」
「ゆでたまご先生の件はよく知らないですけど。あとまあ色んなタイミングで吉野家の豚丼は最高かなと思いましたけど。でも吉野家の店頭にバーンと吊るしてある季節メニューのラインナップがどうも自分好みじゃないんですよ。ターゲット層が自分とは違うコミュニティになんですよ。かつ丼のかつ屋が三分の二くらいの確率で自分の心に響くのに対して、吉野家のポスターが現在の自分に向かってくる気持ちの率が低空飛行なんですよ。そこへ松屋ですよ。松屋はいつ行っても安定の松屋じゃないですか。松屋のそういう、松屋であり続けようとする再現性への情熱的な姿勢に、心の底から安心するんですよ。松屋のサラダが松屋のサラダっぽくないって思ったこと一回もないですからね」
E氏は「すげえわかる!」と言いながら、自分とは完全に違うポイントについて語りだした。
「吉野家も好きなんだけど、やっぱ、ゆでたまご先生の一件があってからな。あれにはモヤモヤしたよな。それに季節メニューはオペレーションが複雑みたいで店員が効率的じゃなさそうだから気になるんだよな。ほら、夜とか少人数じゃん。ああいうとき鍋焼き系頼むの勇気いらない?」
自分は夜とか少人数の吉野家で鍋系メニューとかを頼まないので共感できなかった。つかそれ、けっこう頻繁に吉野家で季節メニュー頼んでるじゃん。結局E氏、吉野家派だし季節メニュー派じゃん。
そういう目でE氏を見ていると、赤信号で立ち止まった瞬間、すかさずE氏が財布を取り出し、自分の目の前にすっ……と小さなカラフルな紙きれを差し出してきた。
松屋クーポン
期間内なら何度も使える
定番丼50円引き!
自分が正月に貰ったものと同じだったが、自分は瞬時に価値を理解できず人にあげてしまった。いま改めて目にすると、口が勝手に「50円引き!」と大声をあげていた。
「何度も使えて50円引き! すごい」
「ふふ。だろう?」
やっぱり松屋だな。
松屋、松屋だな。
なんだE氏も松屋の子だな。
E氏はしかし、同じクーポンを見ながら、やはり自分とは違うことを言った。
「牛丼って元々安いじゃん。無制限に50円も引いて大丈夫なんかね? どう思うよ?」
「自分みたいのがはしゃいで何度もいくから他社から客を刈り取ってるんでしょ」
「それでいいのかね? 松屋は。俺は心配だよ松屋が」
「え、何なんですか? 松屋のクーポンに不満なんですか? いらないんですかクーポン? 松屋はクーポン出さない方が良かったですか?」
「いや、いるんだけどさあ。これがあるから行くんだけどさあ」
まんまと刈り取られてんじゃん。
そして松屋に着いた。
E氏は牛丼に豚汁、半熟卵をつけるなど、クーポンを活用しながらも複雑に食べ物を選んでいった。
自分は単品イッパツで豚丼と普通にセットになっている味噌汁を頼んだ。
ところで、後日同じクーポンを家の近くで使っていて気付いたのだが、E氏が注文機の画面で自分にも適用してくれたクーポンは、「画面を切り替えると他のメニューは割引にならない」という仕様だ。
自分はその日、画面を切り替えて、クーポン適用外のメニューを頼んでしまっていた。
見ていたE氏は、何故かそれを指摘してくれなかった。
E氏はただ、心なしか少し……寂しそうだった。
指摘してよ。
松屋の店内は混雑しており、横に並んで座れる場所がない。昼食に出た時間も遅く、カフェに寄ったりグズグズ歩いて来たので、このままでは戻りが遅れる。まずいと思って焦った自分は、すぐに席が空けば移動も出来るからと思い、一人の見知らぬサラリーマンを挟んで左と右が空いている一人ずつの席を指して「もうここにしましょう」と言った。
E氏は「そう?」と言った。
そしてやはり、心なしか。
少しだけ……寂しそうだった。
松屋で食べるという目的に夢中になっていて、E氏の面白い話を聞いてあげることを忘れていたのだった。
〜無駄に後半へちょっとだけ続く〜
※9割強実話
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます