らのちゃんの声に似ている

雪瀬ひうろ

第1話

「次回のゲストは、『無限の出会いとさよならと』の作者、香川七月先生です。放送は二週間後ですので、それまでにぜひ予習をしておいてくださいね。それでは、さよならのー」

 いつもの一言で、今日のバーチャル読書会も終了した。

「ふぅ……」

 僕は小さく息を吐く。落胆によってではない。もちろん、感嘆によってだ。

「今日のらのちゃんも最高だった……」

 本山らのちゃん。ラノベ好きVチューバーとしてデビューした巫女狐娘だ。普段はラノベを紹介する動画を投稿していて、ときどき、先ほどののようにラノベ作家をゲストに呼んで、インタビュー形式でラノベを紹介する「バーチャル読書会」という生放送を行ったりもする。

 驚くべきはその読書量だ。動画にしていないライトノベルの感想をツイッターで呟いていたりもするから、相当の量のライトノベルを読んでいることになる。一体、どれだけの早さで本を読んでいるのか、想像もつかない。

 そんな行動力のすごさやラノベに対する真摯な姿勢もさることながら、彼女の一番の魅力は――

「やっぱ、声がかわいいことだよな……」

 らのちゃんの声はかわいい。

 Vチューバーは外見がアバターによって定義される以上、魂の持つアイデンティティは声に集約される。最近は、ボイスチェンジャーの精度も良くなっているらしいが、それでもやはり地声の良さにはかなわない。

「俺が実際にらのちゃんと喋ったら限界オタクみたいにどもりそうだな……」

 我ながら悲しい想像ではあるが、実際にらのちゃんと会話したら、間違いなく取り乱す自信がある。

「……そういえば」

 らのちゃんの声について考えていて、ふと思い出したことがある。

 あれは一体なんだったのだろうか。

 単なる偶然……?

 それとも――

 俺は今朝、大学で起こった出来事を思い返した。


「おはらのー」

 俺は思わず、首がもげるんじゃないかってくらいの勢いで振り返った。

(らのちゃんの声……?!)

 らのちゃんに恋しすぎて、ついに幻聴まで聴こえるようになってしまったのかと思ったが、そうではなかった。

「おはらの……?」

「あ、いや、違うの!」

 どうやら、先ほどの声が聞こえていたのは俺だけではなかったようで、大学の教室に居た一人の女の子が首をかしげて、もう一人の女の子を見ていた。

「いや、『おはよう』って言おうとして噛んだだけだから、気にしないで!」

「あー、そう。それより、この講義の課題だけどさ――」

 『おはらの』と声をかけられた側の子は、もともと気にしてはいなかったのか、すぐに別の話題へとシフトしていった。

 だが、俺はその場から固まって動けなくなっていた。

 なぜなら――

(あれは確かにらのちゃんの声だ……!)

 『おはらの』という言葉を発した女の子。その子の声はらのちゃんの声にそっくりだった。もちろん、完全に同じというわけではない。もし、あの子が『おはらの』といういつもの挨拶を口にしなければ、俺も気が付かなかっただろう。だが、一度、とっかかりを見つけてしまうと、もう、そうとしか聞こえなくなる。あれは間違いなく、透き通り、柔らかく響く本山らののソプラノボイスだ。

 俺がその日の講義にまったく集中できなくなったことは言うまでもない。


 あれはいったい何だったのだろうか……。

「まさか、あの女の子が本山らのの正体なのか……?」

 以前、らのちゃんは自分が女子大生だとどこかで言っていた。ならば、あの女の子が本山らのであるという可能性はゼロとは言えない。

 もちろん、Vチューバーの中身について触れるというのは、NGだ。Vチューバーのおっかけとして、そういう不文律があることは十分に理解している。しかし、一度気になりだしてしまうと、もう思考を止めることはできなかった。

 俺はその日から、件の女の子を目で追うようになっていった。


 彼女が本山らのであるという証拠はつかめないままだった。

 例の女の子は他の普通の女子大生と何ら変わらないスタイルで過ごしている。友達と喋ったり、スマフォをいじったり、講義の準備をしていたり……。スマフォでツイッターをしている瞬間をのぞき込んでアカウントを確認できれば、本山らのであるかわかるのではないかと思ったが、さすがに人のスマフォをのぞき込むのはためらわれた。

 俺はそんな風に、彼女のことを気にしながら、悶々とした日々を送っていた。


 だが、決定的な機会は偶然に訪れることとなった。

 その日、俺は普段より早い電車に乗って、大学を訪れていた。その日提出のレポートの仕上げをするためだ。昨日、仕事に追われた結果、レポートに手を付け始めたのが深夜。ギリギリまで粘ったのだけれど、睡魔に勝てず、眠りこけてしまった。家でやるよりは移動した方が眠気も覚めるだろうと思い、教室で続きを書くことに決めた。

 ――だから、その日、例の女の子と教室で邂逅したのは、まったくの偶然だった。

 ぺらり。

 ゆっくりと紙をめくる音だけが静寂に包まれた教室にさざ波を起こしていた。

 俺は思わず、息を呑んだ。

 その理由の一つは、例の女の子と図らずも二人きりになってしまったから。

 もう一つは――

「その本……!」

 俺は思わず、彼女に向かって声をかけていた。

「へ……?」

 彼女は目を大きく見開いてこちらを見ていた。

 どうやら、彼女は俺が教室に居たことにも気が付かないくらい読書に集中していたらしい。

「あ……えっと……」

 明らかに彼女は困惑している。それはそうだろう。いきなり見ず知らずの男に声をかけられて、そうならない方がおかしい。

 だが、すでに俺は彼女に声をかけてしまっている。この状況で逃げ出すのは、逆に失礼だろう。

 俺は高鳴る心臓の鼓動を静めるために大きく深呼吸をしてから言った。

「その本……俺も知ってる本だったから」

 彼女が持っていたのは『無限の出会いとさよならと』。次のバーチャル読書会の題材となる予定の本だったのだ。

「ああ……そうだったんですか」

 彼女は俺の言葉を聞いて、幾分か態度を軟化させる。

「面白いですよね、これ」

「あ、ああ。そうかな」

 俺は緊張で喉が渇き、うまく言葉が紡げない。

「まだ途中なんですけど、もう何回も泣かされそうになってます。ラストになったらどうなっちゃうんだろう、と……。あ、ネタバレはなしでお願いしますね」

「あ、ああ」

 ラノベの話になると饒舌になるあたりもどことなくらのちゃんっぽい。

 俺がそんなことを考えていたときだった。

「あ、ごめんなさい。同じ本を読んでいるって聞いて嬉しくなっちゃって一方的に喋っちゃいました。同じ講義を受けている方ですよね? お名前を教えてもらってもいいですか?」

「俺? 俺は……」

 俺は一瞬の逡巡の後、正直に本名を答えることにする。

「中川夏樹」

「中川さんですか。私は――」

 彼女が名乗った名前は当然「本山らの」ではなかった。それどころか、まったく似ても似つかない名前だ。いや、「本山らの」というのはVチューバーとしての名前なのだから、本名とかすりもしていないのはむしろ当然だろう。本名を文字ってペンネームをつけてしまうようなどこぞの作家とは違うのだ。

 内心で小さく息を吐く。それは落胆なのか、安堵なのか。自分でもよく解らない。

 そのときだった。

「おはよー」

「あ、おはよう」

 いつの間にか教室には何人もの学生が入ってきていた。先程までの静寂はもはやどこにもない。

 いつも通りの喧騒の中に放り込まれると、途端に座りが悪くなる。つい今しがたまで彼女と言葉を交わせていたのがまるで夢であったかのようだ。俺にかかっていた魔法は解けてしまったらしい。

「じゃ、じゃあ、俺、レポート書かなくちゃいけないから」

 俺はどうにかそれだけの言葉をひねり出して、彼女に背を向ける。

「あ、あの」

 俺の足を止めたのは、あの可愛らしい声だった。

「もしよかったらなんですけど……」

 俺はゆっくりと振り返り、彼女を見た。

「この本を読み終わったら、感想をお話できたら嬉しいです……」

 小さな文庫本を胸に抱いて、彼女は淡く微笑んだ。

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