鋭敏な俺と愚直な君
奈月沙耶
第一話
彼女がメガネをはずしたら(1)
増田茅子はよく転ぶ女だ。今も何もない廊下で躓いてびたんと倒れ、抱えていた書類をばらまいてしまった。
駆け寄って書類を拾うのを手伝ってやるべきだろうか。
いや、アナタ思い切り転んでましたから。思い切り鼻打ってましたから。涙目になってるの見えちゃいましたから。
見送る渉の隣で同期の遠藤が茅子を嘲笑った。
「カヤコチャン、とろいなあ。仕事も遅いし。あんなんで長年営業部にいられるんだもんなあ。同じ営業でも事務は楽なんだなあ」
入社一年目のぺーぺーのくせに花形の営業部に配属されたことが自慢らしい遠藤は、ひょいと肩を竦めて茅子の後を追うように営業一課の居室へ入っていった。
そうだろうか。自分も遠藤の後に続きながら渉は思う。営業事務が楽などとは渉は思わない。自分たちには思いもよらない細々とした手配を潤滑に進めてくれるのが営業事務の女の子たちなのだ。
その中でも茅子は凄腕だと渉は見ている。現に、ベテランの営業社員たちは大事な資料作りは必ず茅子に頼むようにしているようだった。目端の利く渉だから気づいたことだ。女の子たちを外見で判断するタイプの遠藤は、見た目が野暮ったい茅子など仕事でも関わろうとしないようだが。
確かに茅子は仕事は遅い。だけどその分、丁寧でミスがない。渉は茅子が係長や課長に叱られているのを見たことがない。
野暮ったく動きも鈍いけれどミスのない女。それが増田茅子だった。
会議が長引いてそろそろ喉が渇いたと思い始めた頃、茅子がお茶を持ってきた。長机の周りをまわって湯呑みを配ってくれる。
背後に彼女の気配を感じた。湯呑みを置きやすいように渉は少し体をずらす。と、ぐきっといやな音がかすかに耳に届いた。ぐき? まさかと思って湯呑みを差し出す茅子の手元に目を落とす。
ぷるぷると手を震わせながら配膳を終えた茅子は、素知らぬ顔で残りのお茶も配り終える。お盆を抱えてお辞儀をし、静かに会議室を出ていった。
ぐきっていったよな。ぐきって。あれは明らかに突き指をした音だ。モニターに目を向けていた両隣の同僚は気づかなかったみたいだけど。
ほどなく会議が終わったので、渉は給湯室を覗いてみた。流し台の前で茅子が蹲っている。
「大丈夫っすか?」
声をかけると、それがスイッチのように茅子はしゃきっと立ち上がった。
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