第34話 雨の二色町㊤
そっとドアを閉めて、鐘が鳴り終えるのを待つ。
世界が、“戻って”きた感覚に、晃陽はホッと息を吐く。
窓を打つ水滴の音が、早朝の部屋に響いている。二色町は雨。
「俺の折りたたみ傘を持って行くか、
「悪いな
黎はそう言って、歴戦の空き巣さながらの身軽さで窓から出て行く。
晃陽は、影の街では外していた眼鏡を掛け、CTに今日の成果をまとめてから、母が料理をしている居間に向かった。
「おはよう、母さん」
今日の朝食は、何も食べられていなかった。そんなことを心配しなくていけない家庭は世界広しといえど、ここだけだろう。
「久しぶりの雨ね。ちゃんと傘差して行きなさいよ」
「今まさに土砂降りなのに差さないで出かける奴がいるとでも?」
だが、そんな人間になってしまう事態に直面した。
玄関の傘立てに、自分の物がないのである。
「母さん、俺のが無いんだが」
「え? ……ああ! ごめんなさい。ちょっと前に使っちゃったわ」
「傘は使い捨てではないぞ」
油断。今日は食事ではなく、とんでもないものがなくなっていた。
「そうなの。そうなんだけどねぇ。どこに差して行ったのか、全然思い出せないのよねぇ」
「嘘だろ」
そして、結局いつも通りのやり取りに収まっていく。
「自分が埋めた餌を忘れる小動物か、あんたは」
「あら可愛いわね。お母さんはシマリスがいいわ」
「……ッ!」
数分後、夜勤明けの父、
※※
「むむぅ……」
玄関先で唸る晃陽。
父も急用でまた会社に出かけるということで、残った傘が母の華やかな桜色のそれしかなかったのだ。
年齢相応の羞恥心から、しばらく逡巡していると、
「あ……」
と、声が届いた。女子の持ち物としては、ややシックな色合いの傘。その下の、小柄な文学少女っぽい顔。
晃陽は、声の主―――
「……」
「……しょうがないなぁ」
明は転校以来、ほぼずっと遅刻ギリギリで登校していた。今日、本当に珍しい早起きができた自分を褒めると同時に、思いのほか家が近かった同級生を放っておけない性分を呪った。
晃陽に傘を差し出しながら、言う。
「ちょっと遠回りすることに文句は言わない事。話しかけるのも禁止。同級生にあったら絶対に他人の振りをすること。私が傘を持つから、東雲くんは何もしないこと」
相合傘で登校する多すぎる条件の一つに、晃陽は「いや」と言う。
「背は俺の方が高いんだから、傘は持つ」
「だめ」
「なら、かばんを持とう」
「だめ」
「入れてもらうんだ。どちらかはさせてくれないか」
「うぅ……傘、で」
明が、天候とは真逆の曇りなき
「……今朝も、あっちに行ってたの?」
で、結局間がもたず、
「ああ。やっぱりあの大型を仕留めたことで、向こうの明に身体が戻った。今日は、また探索だけだったがな」
「あのって言われても分かんないんだけど。あと、名前呼び禁止」
「強情だな」
「
「正直、俺も分からん」
「ふふっ、なにそれ」
明が軽くくすぐられたような笑い声を出す。傘を打つ雨音のリズムが激しい。会話が、不思議なほどに弾み出す。
「今度、余裕があったら影喰いの写真を撮ってきてやろう」
「いらないし」
「いいや、撮る。氷月先生にも見せなきゃいけない」
「―――怪我、しないでよ」
「しない。してもすぐに治る」
「治らなかったら、どうするの」
一瞬、雨の散弾が弱まった。明は会話の雲行きが怪しくなっているのを感じ、別の話題を探すが。
「そうだな。気を付ける。すまない」
相変わらず彼は、ひたすらに真実一路で実直だった。
「うん……」
再び、沈黙と雨音。
明は、隣を歩く彼の眼鏡の奥を上目でそっと見やる。
こんなに見上げるほど大きかったっけ。そうか、背、伸びたんだ。成長期だもん。……自分もそうであるはずだが、身体測定の結果は、芳しいものではなかった。お母さんも小さいし、こんなもんなのかも。
まだ春も始まったばかりなのに、東雲くんは半袖だ。この辺も男の子だなと思う。傘を持つ腕も、少したくましく見える。去年は、月菜に腕相撲で負けるほど貧弱だったらしいけど。
あ、肩が濡れてる。それにかばんも。でも、私の方は濡れてない。……なんか、生意気。
「こうよ―――東雲くん」
「ん?」
「あー、えーーーーっと」
うっかり名前で呼びそうになったせいで、何を訊きたいか忘れてしまった。全音符の「えー」を発し続ける明に、晃陽は立ち止まり、首を傾げる。
「どうしたんだ。―――それにしても、遠回りし過ぎじゃないか」
わざわざ二色神社方面から商店街を抜け、ぐるっと西側から回り込んでいくルートを選んだ明に、契約違反の文句。だが、明はそれどころじゃない。
「俺と一緒なんて、みんなに見られたくないのは分かるが」
「いや!? そ、そうじゃなくてね!?」
素っ頓狂な声が出てしまった。何がそうじゃないだ。その通りだろうが。すると、動揺する自分を、さらに追い詰める事態が起こった。
「あれ? なんでここにいるの? 学校と反対方向だよね」
高校の制服を着た
「げ」
「ご挨拶にもほどがあるよ明ちゃん」
バス停にいた、すらりと背の高い和風美人はニコニコと言った。
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