たかい、たかい。

プロキシマ

たかい、たかい。


例えばそれが、一般的なデパートやコンビニ等であったなら、私は快く母親の期待する反応をしていたのだろう、と思った。


 りょうちゃん、いくよー!

 たかい、たかーい!

 たかい、たかーい!


しかし、私の場合は全く「一般的」ではなくて。

母親の体と私達の体を包む、ひっきりなしに漂ってくるタバコ臭が、私はあの頃死ぬほど嫌いだった。


だから私は子どもながらに、母親とその周りが発する、まだ二桁にすら達していないはずの人生史上最悪と思える臭いを避けるようにして、母親の背中におぶさっている自分の腕を、母親に気付かれないように鼻に当てていたのだ、と思う。

いや、思うというより、もうそれは確信犯だった。


母親が何を思ったか、

「たかい、たかーい。」と言いながら私の両腕を抱え持ち上げるたびに、さらに悪化したドギツい臭いが私の鼻を侵していったことを覚えている。


きっと、母親の背中におぶさっている私を色々な角度から見ることのできる母親以外の人は、私の行為にとっくに気付いていたのだろう、と思うと、少しスッキリした。


そんな過去のことを、デパートの休憩所で夢想している私の前を、幾人もの大人が何知らぬ顔で通り過ぎていく。

誰もこちらを見ようとはしないし、私も彼らに興味はない。


しかし、強いて言うのであれば、通り過ぎていく全員がそうであれば良かったのに、と思う。


例えば、通り過ぎていく途中に、私の方を見て嫌な顔をしてみせたり、わざと手で仰ぐような仕草をする者も少数ながらいたことは、某政治家のように表現するならば、誠に遺憾であった。


でも、そんな仕草をする人が全体の10分の1以下であるという事実だけが、

私の精神を保たせた。

たったそれだけのポジティブ要素が、よれてシワシワになったジャケットの内ポケットに入っている、全財産32円の使い道を考えないようにしてくれたのだ。


「うわ…何あれ。こっち見てるよ…」


「キモ。行こ行こ」


前言撤回。


私はすぐさま32円の使いみちを考え始めなければならなかった。少なくとも、あの女子学生に力づくで謝罪させるには、全く足りない金額であることには違いない。

少なくとも今の私には、たとえお金がたくさんあったとしても、そんなことをする権力自体が0に等しかった。


なぜ、どんなキッカケで私がこうなってしまったのか、と考えるとキリがない。


昨日、う◯い棒一本で空腹をしのぎ、空港まで歩いて旅行者に混じって一晩を過ごしたことは鮮明に思い出せるのに。

なぜそもそもう◯い棒でしか腹を満たすことができないのか、という根本的な原因は、思い出そうとしても、いつも頭に霞がかったように思い出せなくなってしまうのだ。


私はここ何時間か、ずっと体の半分をベンチに付けて頬杖をつくような体勢になっていたから、そろそろ体の痛みや怠さが限界を迎えていた。


『あのー…』


そして、ありがたいほどちょうどよいタイミングで、中年男性が怪訝に私のことを覗き込み、それだけなら良かったのだが、またまたありがたいことに男性は小綺麗な制服のズボンに片手を入れながら、あろうことか私に話しかけてきた。


『あんたねえ、毎日ここにいるけどさぁ、家がないのかい?それともお金がないのかい?どっちにしてもみんなあんたがここにいるから、この休憩所を誰も利用できない…というか、したくないんだよ。はっきり言って、迷惑だよ』


ああ、この人は確か昨日も私にこうやって突っかかってきたのだ。

そもそも、休憩所をどのように利用するかなんていうルールは存在しない。

奇声を上げているわけでも、裸で座っているわけでもないのだから、文句を言われる筋合いはない。


「うるさいですね…。私がここをどう利用しようと勝手でしょう。それに私は、休憩所で休憩しているだけです。デパートの休憩所は休憩するためにあるのでしょう?いったい何がおかしいんですか。あなたのように毎日汗水垂らして馬鹿みたいに働いて、上司や取引先に頭下げてヘコヘコしながら生きているから休憩する暇もないんでしょう。だからいつでも好きな時に休憩できる私のことを羨んでいるのでしょうそんな暇があるなら、仕事を早く終わらせる能力を付けて誰にも咎められずに休憩することのできる時間を自分で作り出したらどうなんですかねそうしたら私の顔をこっそり覗き込んで馬鹿みたいな文句を付けるよりも遥かに有効的な時間の使い方ができるでしょうに」


大抵の人はこんなふうに早口で捲し立てると、私が全部言い終える前に明らかに面倒臭そうな顔をしながら、私のもとから離れていくのだ。日常においては全く良いことなどないが、その瞬間だけは爽快だった。


だから今回もその手が通用するとたかをくくっていたのだが、そうはならなかった。


『ハァ……あのねぇ、私はここの警備員なの。分かる?「警・備・員」。お客様の安全を守る立場なの。あなたのような不し……ヒトをね、申し訳ないけれどお店の外に案内しなくちゃいけないの』


「人を不審者呼ばわりするなんて何様ですか?私のどこが不審者なのでしょうか。私のような者は休憩所を利用しちゃいけないなんていう規則があるのでしょうか。もしあるのなら口頭ではなく書面で提示してもらえますか」


『あんた、昨日からここにいるでしょ。この店が24時間なのを良いことに』


「それがなにか」


『あのね、くさいの』


「は?」


『臭い』


「はあ」


『あんた…自分で臭くないの?』


「ずいぶん失礼ですね。それにあなたには関係のないことです」


『その…においのせいでね、お店の方に苦情が来てるんだよ。臭くて汚い不審者が休憩所にいるせいで、落ち着いて買い物も休憩もできない、ってね』


「それは心外ですね。そもそも臭いのと買い物ができない、という点に関連性が全くありません。そもそも、私は臭くありません」


『うーん、あなたはそういうかもしれないけどね、実はね、来ちゃってるのよ』


「何がですか」


『いや、警察』


「は?」


『私も、あなたにも事情があると思って大事にはしたくなかったんだけどね。でもね、お客さんの中に、休憩所にこうこうこういう人がいるって事で、警察に連絡しちゃった人がいてね。それでね、もうすぐね、警察到着しちゃうところだか


「……し、失礼します」


私は、

においに群がる野次馬がざわめきの声を上げる前に、

スッと体を起こし、玄関へと一直線に走り出した。

体に付着したホコリが舞い、

二ヶ月も洗っていない体から漂うにおいが自分の鼻にも入ってきて、

自分でそのにおいに狼狽えていると、


前方をひとりで歩いていた子どもにぶつかりそうになったので、

私はすんでのところで身を翻し、

そのままレディース服飾コーナーの中へと文字通り飛んでいった。

その勢いと重みで服をかけていた服の陳列ポールが倒れ、

売り物の服がばらまかれ、値札と下着があらぬ方向へ吹っ飛び、

店員が叫び声を上げたところで、私の体はようやく静止した。


「ちっ!」


しかし、私はそんな状況でも必死に頭を働かせ、とりあえずは自分の保身を優先することにした。顔を見られてはいけない。誰かに悟られてもいけない。

私自身が引き起こした混乱に乗じてその場からすばやく逃げ出し、なんとかひと目のつかない、おもちゃ売り場までやってきた。


ふとデジャヴのような感覚があり、その感覚は、

陳列されたおもちゃの山を、欲しがるでもなくボーッと見ながら過ごしている男の子から来るものであることが分かった。


私は突然、その子がさっきぶつかりそうになったその子であることを思い出し、とっさに話しかけてしまった。


「や、やあ、ぼく」


『………?』


男の子はそれでもボーッとしていたが、少しだけ警戒の色が顔に浮かんだのを、私は見逃さなかった。

そもそも、この子の親はどこで何をしているんだ。


「怪我、なかったかい?」


『…………』


なんのことか分からない、とでも言うような表情で見られてしまった。

とりあえず怪我がない、ということだけは分かって安心したが、私はその子の表情が、やがて色々よろしくない方向へ変化していることにはまだ気づいていなかった。


「あ、あのー、この『ニャンテンドー・スコッチ』が欲しいのかい?」


私が棚に並んでいたゲーム機のパッケージを指差して、

「これが欲しいの?」と聞くと、その男の子は、すこしだけ首を縦に振って、

うん、とうなずいたように見えた。


それでもその顔は、私を見ているのか見ていないのか、

こちらの話が聞こえているのかいないのか、分からないような感じだった。


やがて男の子の顔が泣き出しそうな顔になってきたので、どうしようか困っていると、そのゲーム機の価格が表示されている値札が目に入った。その値段は、今の私の生活費何ヶ月分だろう?とも思えるようなもので、ましてやこの子にそのゲーム機を買ってあげることなど、当然ながら不可能だった。

というか、私は何を考えているのだ。そんなことは絶対にしない。


「うげ。た、高い……」


ん?……「高い」?


そこで、私はあることを思い付いた。

さっきまで昔のことを思い出していたからかもしれない。また、自分のにおいで頭がどうかしてしまったのかもしれない。


私が小さいころ母親は私が自分の思い通りに行かなくて泣いていると、『高い高い』をしてくれたのだった。

それは、私が欲しがったおもちゃ等の値段が思った以上に高く、母親が買えなかったときも、そうしてなだめていたらしい。


 たかい、たかーい!

 高い、高ーい…


要するに子どもをあやす「高い高い」に、「高いから買えなーい!」というしょうもない駄洒落ダジャレとしてのノリも含まれていたのである。解説するのも恥ずかしい。


私がそれにどんな反応をしていたかどうかはこの際置いておき、世間一般の子どもは、その『高い高い』をすると喜ぶからやるのだろう、ということを後で知った。


それと同時に、そもそも『高い高い』は、幼児期の、かなり小さい子どもに対してするものではなかったか、と思った。

母親が最後にしてくれた時、私はいったい何歳だったのだろう。


半ば自暴自棄になっていた私は、すでにもう泣きそうな子どもをあやすことを口実に、その子を持ち上げ、人生初の『高い高い』をした。



……した

かったのだが、ちょうどそこで母親らしき人の声が聞こえ、それがこの子の名前を読んでいるものだと、ようやく分かった。

あまり母親の声が慌てていないようだから、この子とここで待ち合わせていたのかもしれない。しかしそれにしては不用心だ。この子はまだ、見た目4歳か5歳くらいだったからだ。

この子はこういう状況に、慣れてしまっているのだろうか。

それとも…。


いや、そのことと私に何の関係があるのだろう。


やがておもちゃ売り場にあらわれたこの子の金髪の母親は、高価そうな服で身を包み、真珠の腕輪やダイヤの指輪、ブランド物らしいバッグで身を装っていた。


こんな私に言われたくはないとは思うが、「豚に真珠」とはまさにこの事だ、と思い、同時にそんな下衆な考えを簡単に巡らせてしまった我が身のことを恥じた。


私は、ここまで下に堕ちてしまったのか。

他人が所有している富を羨むほどまでに。


『ちょっとあんた、この子に何をしていたんですか!』


予想通りの怒号が飛んできた。


「何もしていませんよ。それよりも大切な子どもを放ったらかして顔に似合わないブランド物のバッグを漁りに行っていたあなたの方がおかしいのではないですか?」


『はああ!?あんたね、私もこの子も、あなたのようなド底辺の人間とは全然違うのよ!』


「何が違うんですか。私に分かるように書面で説明してください。あ、口頭は現在記録する手段がないので受け付けまs


『うるさい!それ以上ゴチャゴチャ言うと警察に突き出してやるから!この子は頭が良いからいっぱいお金をかけて、良い学校に入る子なのよ!将来は弁護士になって私を守るの!たくさん働いて稼いで親孝行してくれるの!だからホームレスのあんたよりもすでに何倍も価値の高い人間なの!私知ってるんだから!あんたがいつもあの休憩所に居座ってること!』


私顔負けの早口で捲し立てていると、店員と警備員らしき人が慌てて飛んできて、母親にどうされたのですか?と聞いた。

母親は「不審者に子どもがさらわれそうになった」というような、祭りの綿あめのごとく何倍にも膨らませた事実を早口で叫んでいた。


私はその隙に逃げ出そうとしたのだが、あろうことかさきほど走った時に右足をくじいてしまったようで、走り出そうにもその一歩目が踏み出せないのであった。

くそっ、病院代が馬鹿みたいにかかるから怪我と病気だけはしないように気をつけていたのに。


やがてどこからかサイレンの音が聞こえてきたかと思うと、店内が騒がしくなり、何人もの警察がこちらへ向かっていることが分かった。


おそらく、さきほどのレディース服飾売り場での騒動が、強盗かテロか何かと勘違いされて通報されたのかもしれない。実際私は何も盗っていないし、誰にも危害を加えていないというのに。


やがて私は、「その汚くて臭いホームレスが子どもを誘拐しようとした」という母親の誇大綿あめ証言案件により、無事デパートのおもちゃ売り場から警察へと任意同行(という名の連行)されることになった。


話を聞くという建前だから正確には「任意同行」ですらないが、私にとっては同じようなものだった。むしろ、そのまま留置場にでも入れられたほうが、今よりも遥かに健康で文化的な生活を送れるかもしれない、と思った。


そして同時に、たぶんこのまま私は不当な罪で起訴され、有罪判決を下され、今よりももっと酷い人生になるのかもしれないと考えると、最低な気分になった。


私は、ドラマみたいなカツ丼を差し出されて空腹でおかしくなった胃にかきこみ、腹痛で便所に行かせてくれと泣きながら土下座で懇願するようになるまで、何もかも面倒くさかった私は取り調べの間ずっと机に頭を突っ伏したまま黙秘しつづけ、やはり昔のことを思い出していた。




たかい、たかーい。

高い、高ーい。


ああ、私はもう赤ちゃんじゃないのに。

いい大人なのに。


そんなに高く持ち上げ過ぎるから。

母さん、目眩がするよ。


今の私にとっては、

最低限の生活をすることすら、高すぎるよ。


もし今後、私に最後のチャンスがあるなら。

誰も届かないくらいの高みを目指して


私の体をもう一度、持ち上げてはくれないだろうか。










――――――――――――――――――――――――――――――――――――











そして、私はまた、「ここ」にいる。


私の前を、幾人もの大人が何知らぬ顔で通り過ぎていく。

誰もこちらを見ようとはしないし、私も彼らに興味はない。


強いて言うのであれば、通り過ぎていく全員がそうであれば良かったのに、と思う。


例えば、通り過ぎていく途中に、私の方を見て嫌な顔をしてみせたり、わざと手で仰ぐような仕草をする者も多数いたことは、某政治家のように表現するならば、誠に遺憾である。


ただ、そんな仕草をする人が全体の10分の3くらいである、という事実だけが、私の精神を保たせた。

たったそれだけのポジティブ要素が、よれてシワシワになったジャケットの内ポケットに入っている、全財産100円の使い道を考えないようにしてくれたのだ。


「うわ…何あれ。くっさ…」


「草。行こ行こ」


前言撤回。


私はすぐさま100円の使いみちを考え始めなければならなかった。


少なくとも、あの女子学生に頼み込んで謝罪させるには、全く足りない金額であることには違いない。というか、そんな体力が0に等しかった。


なぜなら私はここ何時間か、ずっと体の半分をベンチに付けて頬杖をつくような体勢になっており、そろそろ体の痛みが限界を迎えていたからだ。


『あのー…』


そして、ちょうどよいタイミングで老年男性が怪訝に私のことを覗き込み、それだけなら良かったのだが、男性は小綺麗な制服のズボンに片手を入れながら私に話しかけてきた。


うーん、デジャヴ。


『ハァァァ…あんたねえ、毎日ここにいるけどさぁ、家がないのかい?それともお金がないのかい?どっちにしてもみんなあんたがここにいるから、この休憩所を誰も利用できない…というか、したくないんだよ。はっきり言って、迷惑だよ』


ああ、この人は確か昨日も私にこうやって突っかかってきたのだ。


そもそも、休憩所をどのように利用するかなんていうルールは存在しない。

奇声を上げているわけでも、全裸で座っているわけでもないのだから、文句を言われる筋合いはない。


「うるさいですね…。私がここをどう利用しようと勝手でしょう。それに私は、休憩所で休憩しているだけです。デパートの休憩所は休憩するためにあるのでしょう?いったい何がおかしいんですか。あなたのように毎日汗水垂らして馬鹿みたいに働いて、上司や取引先に頭下げてヘコヘコしながら生きているから、きっと休憩する暇もないんでしょう。だからいつでも好きな時に休憩できる私のことを羨んでいるのでしょう。そんな暇があるなら、仕事を早く終わらせる能力を付けて誰にも咎められずに休憩することのできる時間を自分で作り出したらいかがですか?そうしたら私の顔をこっそり覗き込んで馬鹿みたいな文句を付けるよりも、遥かに有効的な時間の使い方ができるでしょうに…」


『あのねぇあんた、昨日からここにいるでしょ。この店が24時間なのを良いことに』


「それがなにか?」


『あのね、くさいの』


「はあ」


『臭い』


「ほお」


『はっきり言って、異臭』


「へえ」


『あんた…自分で自分の臭い分からないの?』


「ずいぶん失礼ですね。あなたには関係のないことです」


『その…においのせいでね、お店の方に苦情が来てるんだよ。臭くて汚い不審者が休憩所にいて、落ち着いて買い物もできない、ってね』


「それは心外ですね。そもそも臭いということと、買い物ができない、ということに関連性が全くありません。そもそも、私は臭くありません。……いいや、実は臭いのかもしれませんが」


『実はね、来ちゃってるのよ』


「ほう、何がです」


『いや、警察』


「は?」


『私も、あなたにも事情があると思って大事にはしたくなかったんだけどね。でもね、お客さんの中に、休憩所にこうこうこういう人がいるって事で、警察に連絡しちゃった人がいてね。それでね、もうすぐね、警察到着しちゃうところだか






「失礼します!」


『あ、ちょ――』


私は、


においに群がる野次馬が驚きの声を上げる前に、

スッと体を起こし、歩き出した。


体のホコリを振り払い、

悪臭を発していたビニール袋の中の生魚を背中越しの警備員に向けて放り投げ、

警備員がそれに狼狽うろたえている間に、

新品のスーツの上に着ていたヨレヨレの服を歩きながら脱ぎ捨て、

スーツの内ポケットから小型の消臭スプレーを取り出して全身に吹きかけ、

小汚いフケが混じったカツラを外して投げ捨て、

そこに現れた、キッチリ整った清潔感溢れる七三分けの髪にクシを通し、

さらに小汚い新聞紙を被せていた新品のビジネスシューズの紐を締め直し、

最後に、先程「万」を単位に付け忘れた今日一日の収入相当分の札束を確認し、

それを、奇異の目で様子を見る野次馬に向かって勢い良くばらまいた。


その一連の様子ショーを見た野次馬共は打って変わって歓声を上げ、

ある者達は大きな拍手をし、

ある者達はばらまかれた札束に向かって一斉に飛びかかった。


私は次々にフラッシュとともに向けられるスマホのカメラには目も向けず、

ただデパートの玄関口に向けて颯爽と歩いていく。


腕に巻いていたブランド物の高級腕時計を、

唖然とする店員の腕に高速で巻き付け、


同じく口をあんぐりと開けて唖然とする、

どこかで見たような、使い古されたブランドバッグを手にした母親と、

あの時からもう10歳ぐらいにはなったであろう子どもの両脇を優しく持ち上げた。

 

 たかい、たかい。

 たかい、たかい。


されるがままの子どもが目を丸くしているその隙に、

子どもが着ているズボンのポケットに、あの時見つめていた『ニャンテンドー・スコッチ』が軽く50個は買えるであろう、デパートで使える商品券が束になって入った封筒を差し入れ、何事もなかったかのようにゆっくりと子どもをおろして、優しくその頬に触れた。



――確かに、高い。

この子にはきっと、高すぎる代物だ。


そして私もこの子と同じように、

たくさんのものを一度に手に入れて、

たくさんのものを一度に失ったのだ。


今の私は、臭くないだろうか。

あの時、私を背中におぶってくれた母親のようなにおいは発していないだろうか。


今はもういない、

病の中でも、たとえ劣悪な環境の中でも一生懸命働いて私を育ててくれて、

そして、もう二度とその背中におぶさったり、支えることができなくなった、

たったひとりの肉親から漂っていたにおいは、


今の私から漂っている、

どんなにおいよりも強烈に人を惹きつけ、笑顔にし、


私の人生を一変させ、

同時に私の身体を、感情を、精神を破壊し尽くし、

どれだけ洗っても、一生ぬぐいきれなくなってしまったお金のにおいと、


果たしてどちらの方が、臭いのだろうか。



私は、半額シールの貼ってある豆腐の入った買い物袋とブランドの鞄を、

中に入っていた借金の請求書の束と一緒に漫画のように落とした、

あの頃よりもかなりやつれたように見える母親の方には目もくれず、


未だにキョトンとしている男の子の眼をしっかり見つめながら、こう言った。



 高い、高い。

 目がまわるほど、高い。

 

 富はどれだけ求めても、

 ゴールなんてないくらい、高い。


 私はそれを、

 身をもって体験したんだ。


 だから、

 今きみが一度に得たお金と、

 これからきみ自身が働いて得るお金。

 

 たとえどれだけたくさんのお金を手に入れるとしても、

 その価値や使いみちは、「きみ自身」が決めるんだ。

 

 誰に決めさせてもいけない。

 誰の言葉に惑わされてもいけない。


 お父さんにも、お母さんにも、お友達にも、

 これからきみの上に立つ人間にも、

 

 きみを慕っていると嘘をついて臭いにたかる人間にも、

 きみは間違っていると意見を押し付けてくる人間にも、

 

 誰にも、決して、

 決めさせてはいけないよ。


 きみが、すべてを決めるんだ。

 きみが、心から本当に正しいと思ったことに、

 高いお金を、使うんだ。

 

 それができた時はじめて、

 きみは本当の意味で、私よりももっと「高く」なれる。

 

 ――できるかい?











その時の僕はわけも分からないまま、

首を縦に振って、その人とゆびきりをしたことを鮮明に覚えている。


デパートの玄関口で待っていた何人ものボディーガードに迎えられながら、

なんとなく寂しそうな背中で自家用ジェット機に乗りこんで帰ったあの人は、


今、どうしているだろう。


ふと目に入った、このデパートの、

あの小さな休憩所のベンチを見ながら、僕はそんなことを思い出していた。


まだ言葉の意味の半分も理解できないであろう僕に、

エラそうに説教を垂れたあの人のまぼろしが、今後一週間で閉店準備のために撤去されることとなったデパートの休憩所のベンチに、あたかも座っているように見えた。


その理由は、ただ単に疲れから幻が見えたというのでもなく、

今そのベンチに横になりながらうなだれている、見るからにヨレヨレの服を着ている人とあの人が重なって見えたからに違いない。


僕は、駄々をこねはじめた片腕に抱えている子どもをあやそうと、

「高い高い」…

……をしようと思って、やめた。


理由は、実はその行為が子どもの体を揺さぶるので子どもの発育にあまり良くない影響を与える、というニュースをどこかで見た気がするから。


…かもしれない。

でも本当は、もっと別の理由があるのかもしれなかった。


ぐずる子どもの頭をなでて、他の店員とは違う、

ちょっと変わった制服の襟元に手を入れてくるまだ小さな手を制止しながら、

僕はベンチに座る人の元へ、ゆっくり近づいていく。


「あのー…」


腰をかがめて目線を合わせると、

その人が、顔を上げた。

その顔は、今はまだ、何の光にも満ち溢れていないようにも見える。


世の中に溢れているものは、高すぎるから。

それなのにさらなる高みを目指すよう、強制されるから。



(あーあー、ぱーぱー、ぱーぱー)

(よしよし。これからけーびのおしごとだから、ちょっとだけしずかにしててねー)



――でもそれは、このベンチに座っている人が「低い」わけでは決してない。


あの時、あの人がそれを教えてくれたからこそ、

僕は、ここにいる。


そして僕はポケットに入っている、

商品券が束になって入った封筒を、そっと握りしめる。







『こんにちは、いらっしゃいませ、お客様。


  何か私に力になれることは、ございますか?』




















おわり






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たかい、たかい。 プロキシマ @_A_

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