恋して、振られて、死んで

@VRN

本編

 某市立神原東中学校2年4組に通う春山駿は地味で友達も少なく、クラスでは目立たない存在であった。それでも彼はいじめられるわけでもなく、数少ない友達との仲も良好だったため、自分の境遇にはおおよそ満足していた。

 そんな彼も思春期の中学生、ある一人の女子生徒に恋をしていた。その名は笹原香織。駿と同じく2年4組の生徒である。彼女はクラスで日陰者の駿とは正反対の、クラスのマドンナ的存在であった。いずれの科目も成績は優秀、所属している吹奏楽部では新部長を任されている。クラスでは男女の区別なく多数の友人を抱え、担任のみならず教師達からの信頼も厚い。性格は穏やかで優しく、おまけに容姿端麗。当然のことながら男子からの人気は絶大であり、駿のライバルは数多い。にもかかわらず、駿と香織の接点は数回話したことがあるというだけ。さらに駿の顔は残念ながら不細工である。同級生のモテる男子達がことごとく振られたという噂も駿は耳にしていた。上手くいく見込みがないであろうことは駿自身が最も良く分かっていた。それでも、駿は告白することを決心していた。失恋してでも想いだけは伝えたい、そんな一心であった。

「放課後6時ごろにプールの裏に来てください」

 このためだけに買った、駿の目にはおしゃれに見えた便箋に生涯で最も丁寧に書いた字でこう書き、自分の名前は書かないで香織の机に入れた。6時頃のプール裏には滅多に人が来ないことを駿は予め調べていた。

 その日の午後6時、プール裏。20分前から待っていた駿の前に香織は現れた。

「……何、かな……」

 香織は静かに駿へ問う。その声色と表情は嫌悪感を必死に隠しているようだったが、駿は気付いていない。

(言わなきゃ……言わなきゃ……そのために……呼んだんだ……)

 駿の全身は震え、口を開いてもなかなか言葉が出ない。そんな状態で相手の細やかな表情を読み取ることはできなかった。

「あ……あの……俺……さ、笹原さんのことが……すっ、すっ、すき……好き……なんだ……だ、だから……その……俺と、付き、合って……」

 たどたどしい告白。こんなにも声が出なくなるものかと、駿は自分の言動に驚いていた。

「いや……」

 香織は目に涙を浮かべながらそう言うと、駿の告白を聞き終わる前に背を向けて走り去ってしまった。駿はしばらく呆然と立ち尽くしていた。

「……そんなに嫌かよ……」

 駿はそうつぶやくと、彼もまた涙を流し始めた。数分間棒立ちで涙を流した駿は、それからゆっくりとその場を後にした。帰宅してからも、駿は夕飯の時間まで枕を涙で濡らし続けた。

 駿は失恋した。それ自体は――彼の場合少しタチが悪いが――誰にでもあることである。しかし彼の受難はこれで終わりではなかったのだった。



 翌日。

「かっおりー!おはよー!」

「わっ。みっちゃん、おはよ」

 登校してきた香織に対して、一人の少女が後ろから抱きついてきた。この少女の名前は古川美智恵。駿、香織と同じく2年4組の生徒である。

 香織との出会いは去年の春、入学後すぐのことだった。この年の4月に神原東中の学区に引っ越して来たばかりの美智恵は、新しい環境になじめるかどうか不安を抱いていた。

「あ、美智恵ちゃん!美智恵ちゃんって今年越してきたんだっけ?」

「あ、うん」

「っと、いきなりでごめんね?私は笹原香織、美智恵ちゃんと同じ二班だよ」

「う、うん。よろしく、笹原さん」

「香織でいいよ!それでね、周りが知らない子ばっかりだと不安じゃないかって思ってね、声かけてみたんだ」

「あ、そうなんだ……ありがと、香織さん」

「女の子にはさん付けしましょうって言われたけどさ、私さん付けで呼ばれると距離置かれてるみたいで苦手なんだよね。あ、それでさ、美智恵ちゃんだから、みっちゃんって呼んでいい?」

「……うん!これからよろしくね、香織!」

「えへへ、これでもう私達、友達だね!」

 そんな美智恵に対して、同じ班に所属していた香織は、真っ先に美智恵に話しかけ、すぐに打ち解けた。知り合いのいない、不安な環境の中に颯爽と現れた美少女の存在は、たちまち美智恵の心を魅了していったのだった。そして、その数日後に行われた遠足にて、香織は班長を自ら買って出た。

「じゃあ後藤くんと富野くんはご飯を炊いて、みっちゃんとゆうちゃんはカレーの具を切り分けて、私と坂田くんは水汲みに食器洗いに配膳に……まあ雑用だね。それじゃ、みんなよろしく!」

 遠足では各班ごとにカレーを作ることになっており、香織たちの班は香織の下で手際よくカレーを作ることができた。その結果として、香織たちのカレーは学年で一番高く評価されたのだった。美智恵はますます香織に夢中になった。

 それ以来、美智恵は香織に対して強い憧れを抱くようになり、いつも香織にべったりとくっつくこととなった。部活も香織が入るからという理由で吹奏楽部を選んでいた。当の香織はそのことをうっとうしく思うことがあっても、それを言い出すことはなかった。それによって美智恵が傷つくのではないかと心配していたからだった。

 そして今、美智恵は大好きな香織に抱きついて、わずかな至福を得ている。

「今日は朝練なくて良かったねー。毎日毎日練習ばかりで大変だよね」

 名残惜しそうに抱きつくのを止めた美智恵が世間話を始める。

「うん……そうだね」

「香織、部長にはもう慣れた?部長が香織なのは当然だけど、副部長が安藤じゃ大変じゃない?」

「そんなことないよ……安藤くんだって肝心なところはしっかりしてるし。私より適任かもよ?」

「ダメダメダメダメ!香織以上の適任なんかいないって!もっと自信持たなきゃ!」

「あ、うん……ありがと」

「……ねえ香織、何かあった?元気ない気がする」

 普段の香織とのわずかな変化を感じ取った美智恵は、心配そうな口調へと変化していく。

「え?あ、ううん、そんなことないよ!」

 香織は意識して笑顔を作り、明るい声を出して返事をする。

「笑って誤魔化してもダメ!心から笑ってる時の香織と違うもん!私、香織の事なら何だって分かっちゃうんだから!」

 心配そうな口調からしっかりした口調に変化した美智恵が香織に詰め寄っていく。

「みっちゃんには隠し事できないね……そんな大した事じゃないから、本当に大丈夫だよ」

 軽く溜め息をついた香織は笑顔を崩し普段と同じ口調で話す。

「大した事じゃなくても悩みは悩みだよ。それで気分が沈んでたんだから、私に相談して欲しいな」

「うん……昨日ね、男子から告白されたんだけど……」

「ああ、また?誰?」

 美智恵は当然のように告白してきた男子の名前を聞いてくる。

「……春山くんなんだけど」

「春山?ああ、うちのクラスにそんなのいたね」

 そもそも香織は男子の名前以前にこの件について話したくはなかったが、どうせしつこく聞いてきてそのうち答えることになるので、早々に答えることにした。

「それで?断ったんでしょ?」

「うん、断ったんだけど……その、うまく断れなかったというか……」

 香織は告白してきた相手を振るのには慣れていたのだが、さすがにその場で泣いて逃げ出すというのは過去に例がなかった。そのせいで駿を傷つけたのではないかと気にしていたのだった。

「それでしつこく言い寄られてるの!?」

 美智恵は声を荒げ、さらに香織に詰め寄っていく。

「いや……そういうわけじゃないんだけど……」

「香織……こういうことは一人で抱え込んじゃダメだよ?私が何とかするから」

「え?」

 美智恵の心は決まった。春山などという訳の分からない奴が香織に言い寄っている。告白どころか香織と話すことすらおこがましいような馬の骨が、である。絶対に許すわけにはいかない。自分の立場というものを分からせてやらねば、と。



 香織と美智恵が教室に着いてから十分ほど経ってから、駿は教室に着いた。

「ちょっと、そこのお前!」

 駿が教室に入るなり美智恵は彼の元へ怒鳴り込んだ。

「え……何?」

 駿は呆気に取られ素っ頓狂な声で返す。

「香織に何したんだよ!」

 怒りに満ちた表情の美智恵が駿を問い詰める。口調もチンピラのような口調になり、声の大きさゆえに教室中の視線が彼女に集まっている。

「何って、え?」

 駿には事態が飲み込めない。ただ目の前にいる美智恵――両者が会話したのはこれが初めてである――の態度がただ事ではないことだけは理解できた。

「とぼけんなよ!香織に何したかって聞いてんだよ!」

 駿の困惑した態度によって、美智恵の怒りはますます募っていった。

「え、あ、え、えーっと……昨日の、話、かな」

 落ち着いて話ができない状況ゆえか、駿はかなりどもっている。美智恵が何を言いたいのか、彼にも少しずつ分かってきたが、告白した時のことを蒸し返されたくはなかった。あのようなひどい振られ方をしたショックから一晩で立ち直れるほど、彼の心は成熟してはいないのだ。

「そうだよ!昨日!お前が!香織にしつこく言い寄ってきたせいで!香織は今嫌がってるんだよ!」

「え、いや、あ、あの、そんなにしつこくは……」

「いぃーわけっ!すんのか!このっ!ふざけんな!香織に謝れよ!」

 駿はともかく、美智恵の言っていることは教室中、それどころか廊下にまで筒抜けだった。ここまでの会話内容から、駿が香織に告白したという事実はクラス中に知れ渡ることとなった。そして、駿が香織にしつこく言い寄っているという美智恵の思い込みもまた、クラス中に知れ渡った。当然、香織の耳にも聞こえていたのだが……。

「ちょっと古川さん、何やってるの?そんな大声出して」

 朝礼の時間が迫っていたので、担任の小沢聖が教室に入ってきた。当然、大騒ぎしている美智恵に気付かないはずはない。小沢はすぐさま両者に割って入る。小沢の登場によって、香織は美智恵を止めるタイミングを失ってしまった。

「あっ、先生!聞いてくださいよ!こいつ香織に嫌がらせしてるんですよ!」

 美智恵は駿のことを思い切り指差し、鬼気迫る表情で小沢に詰め寄る。

「えっ、嫌がらせ?」

 小沢は驚いたように駿の方へと視線を向ける。駿はそれに対して軽く視線を逸らしている。

「本当ですよ!香織が私に相談してきたんですから!」

 美智恵は思い込みの激しさからか、発言に嘘が混ざってきている。

「春山くん、本当?」

「え、あ、っと、ち、違いま……」

「はあ~あ!?嘘吐いてんじゃねぇーよ!」

 駿が言い終わる前に美智恵が割って入る。目と口を大きく見開いた美智恵の表情は、信じられないという感情を端的に表している。

「先っ生も先生ですよ!こんな奴に聞いて本当のこと言うわけないじゃないですか!」

「分かったから!とりあえず朝礼始めるから二人とも席に着いて!」

「全然分かってない!今、香織に危険が迫ってるんですよ!?」

「いいから!とにかく席に着きなさい!」

 小沢は苛立ちを隠しつつ二人に着席を促す。駿がそそくさと席についたのに対して、美智恵は歯ぎしりしながら駿を睨みつつ、ゆっくりと自分の席へと向かっていった。



 朝礼は普段どおり行われた。

「あと春山くんと笹原さんの二人はちょっと来てもらっていいかな?」

 朝礼終了時に、小沢は駿と香織を呼び出した。二人は小沢の下へ向かうが、香織には美智恵が付いて来た。

「……古川さんは呼んでないんだけど」

 今度は苛立ちを隠さなかった小沢は美智恵を追い帰そうとする。

「だって、香織が苦しんでるんですよ!?私がいなきゃ……」

「みっちゃん、大丈夫だから……」

 激昂する美智恵をなだめようと、香織が割って入る。

「ダメだよ香織!香織は優しすぎるからあいつをつけ上がらせることに……」

「いいから待ってなさい!気になることがあれば後で聞くから!」

 小沢はしつこく食い下がる美智恵を制して立ち上がる。この間、駿はただただ押し黙っていた。

「ここじゃ何だから職員室まで来てもらおうか」

 不安そうに香織を見つめる美智恵を尻目に、小沢は二人を引き連れて職員室へ向かう。三人は黙って職員室へと向かっていく。他人からあれほど感情的に詰め寄られることも、教師からこうした形で呼び出されることも経験したことの無かった駿は、びくびくしながらうつむいていた。

 職員室に着いた三人は、自分の席に着いた小沢を中心に話し始める。

「それじゃ笹原さん、古川さんが言ってることについて聞きたいんだけど……」

「……昨日のことなんですけど……」

 香織は話しながら駿の方をちらちら見ている。どこまで話していいやら考えあぐねているようだった。

「……あの、全部話しちゃっていいから……」

 駿は自分のことを見てくる香織にときめきつつも、香織の心情をある程度理解し、発言を促す。

「うん。昨日、春山くんに告白されたんですけど……」

 告白されたと聞いて、小沢の表情が一瞬曇る。

「その時、えっと……ちゃんと返事ができなくて、その場から逃げちゃったんです。それで、そのことを気にしてたのをみっちゃんに見抜かれて……上手く伝わらなかったのか、あんな大騒ぎに……」

 香織は自分が告白された時具体的にどうしたかをぼかしつつ、事の顛末を説明した。

「えっと、まず春山くんが笹原さんに告白した、と。これは本当?」

「……はい」

 小沢が駿の方を向いてそう尋ねると、駿はうつむきながらぽつりと答える。

「それじゃ、その告白に対して返事を聞く前に笹原さんが逃げたのは?」

「……本当です」

 駿は香織が泣きながら逃げたということは話さなかった。

「じゃあ笹原さん、春山くんからの嫌がらせはなかったってこと?」

「……はい、そうです。このことをみっちゃんに話したら何か勘違いしたみたいで……」

「つまり全ては古川さんの勘違いだったってことか。そもそもうちの学校だと恋愛自体がNGなんだけど、まあそれについての責任は問わないから。じゃあ二人とも、教室戻っていいよ」

「はい、ご迷惑おかけしました」

「……失礼しました」

 二人は小沢に背を向け、職員室を出て行こうとする。

「おっと、笹原さん、後で春山くんにちゃんと返事しといた方がいいよ」

 事の核心を知らないせいか、小沢は香織の背中に無神経な助言を投げかける。

「あ、はい」

 香織はその言葉に振り返り、返事をする。その間、駿は足を止めたものの振り返りはしなかった。

「……あの、春山くん」

 二人が職員室を出ると、香織は駿に声をかける。

「なんか、ごめんね?私がみっちゃんに話したせいで……」

「あっ、い、いや、その、気にしないでよ」

 発言の内容から謝罪していることは分かったが、駿は香織の声色から感情を読み取ることが出来なかった。香織と二人きりで話す機会など告白の時ぐらいしかなかったので、この時駿は少し緊張していた。しかし、好きな人と二人きりで話せるという状況ながら、駿の気分は沈んでいた。香織への気持ちが冷めたわけではないが、この件については早く忘れたかった。

「あと、告白の返事なんだけど……」

「……いいよ、あんなの俺だって返事ぐらい分かるよ」

「……ごめん」

 言い終わるかどうかという時に、今度は駿が走り去ってしまった。香織もそれを追いかけることはなかった。

 駿は失恋を蒸し返された。このような屈辱を味わった彼は、もうこの一件を忘れたかった。しかし、それが許されないということを、この時の彼が知ることはなかった。



 駿と香織が職員室に行っている間のこと。

「君島くん、ちょっといいかな?」

 美智恵はさっそく行動を始めていた。

「香織ちゃんに何があったんだ?」

 学級委員の君島義道は、話しかけてきた美智恵の意図をすぐに理解した。

「あの春山って奴?あいつが香織に告白したの!信じらんないよね、あんな誰なのかもよく分からない奴がだよ?それだけでも許せないんだけど、あいつその後やんわりと断った香織に対して断られたのに気付かないでしつこく言い寄ってきてるんだよ!?あり得なくない!?」

 美智恵はまるで自分がその場で見聞きしたかのように話した。ちなみに、彼女には自分が嘘をついているとか話を盛っているといった自覚はなかった。

「どうしようもねえな……ちょっとシメてやらなきゃダメか」

 君島は香織と共に学級委員を務めているのだが、学級委員の割に性格は荒っぽく、気に食わない相手には平然と暴力を振るうこともあった。彼が学級委員になれたのは、他に立候補者がいなかったこと、彼の強引な決断力をリーダーシップと受け止める者が少なからずいたことが理由である。

「でもあんまり香織には知られない方がいいかも。香織ってすごく優しいから」

「確かにそうだな」

「じゃ、そういうわけでよろしく!」

 美智恵は君島の元を離れる。それからある程度仲のいい女子達に、君島へ話したような内容の話をする。美智恵が具体的な内容を方々で話していったので、駿が香織にしつこく言い寄っているという噂は徐々に真実として扱われるようになっていった。



 この日最初の休み時間。

「春山、笹原さんに告白したってマジ?」

 駿は友人の横山稔からこう話しかけられた。

「……マジだけど、あんまりその話しないでくんねえかな」

「まあ……そうだよな。呼び出されたのも、そのことか?」

「そうだよ」

「小沢もそんなことで呼び出すんじゃねえよな。古川がギャーギャー騒ぎ立てただけじゃねえか」

「しょせん小沢もそんなもんなんだよ」

 告白の結果を察した横山は、話題を美智恵と小沢への悪口へと切り替えていった。

「ちょっと来いよ」

 突然、君島が駿に対して威圧的に呼びかける。

「何か用?」

 いきなり威圧的に呼ばれたため、駿は嫌そうに聞き返す。

「いいから来い!」

 君島は駿を掴み、無理矢理引っ張っていく。駿はそのまま廊下まで引っ張り出される。

「な……何だよ」

 困惑する駿の腹を、君島はいきなり殴る。

「香織ちゃんにしつこく付きまとってんじゃねえよ!」

「が……な……ち、ちが……」

 いきなり腹を殴られてうまく喋れない駿に対して、君島はもう一回腹を殴る。

「二度と香織ちゃんに近付くな!」

 君島はそう吐き捨て、教室に戻っていく。一方の駿は痛みに悶え、その場で膝をついている。しばらくしてから、彼もふらつきながら教室へ戻る。教室に着いた頃には、授業開始のチャイムが鳴っていた。駿は席について机から国語の教科書を取りだそうとするが、教科書が見当たらない。昨日、国語の授業を終えて机に入れたきり間違いなく出していなかった。駿はさっき君島に連れ出された時に、誰かが持ち出したということを直感した。とはいえ、誰が持ち出したか、という部分に関しては確信が持てない。それよりも教科書がなければ授業に支障が出るので、とりあえず隣の席にいる女子に教科書を見せてもらうことにした。

「ごめん、教科書見してくんない?」

 駿が小声でそう尋ねると、彼女はものすごく嫌そうな顔をしながらも無言で教科書を彼にも見える位置へ持っていく。この時間に関してはとりあえずこれで凌いだ。



 次の休み時間。駿は他の教科書があるかどうかをまず確認する。幸い無くなったのは国語だけのようだった。ただ、このまま教科書が無いままでは困る。

「横山、俺の教科書が無くなってんだけどさ、誰かそれっぽい奴知らない?」

 駿はとりあえず横山に心当たりがないか聞いてみる。

「ああっと、古川がお前の荷物漁ってたみたいだったな……」

「それ、黙って見てたのか?」

「いや、だってよ、古川ってあんなじゃん、絡まれたくねえよ」

「まあ……そうだけどさ……」

 意外に早く犯人に辿り着いたが、駿の気分は前より沈んでいる。相手が美智恵ではそう簡単には返ってこないだろうと予測できることもさることながら、横山が何もしなかったというのがショックだった。確かに、友達とはいえ悩みを打ち明けたりするような間柄ではないと前々から思ってはいた。香織に告白する時も、軽く済まされそうな気がしたので、横山に相談したりはしなかった。そのような関係であることを、今までは特に気にしていなかった。しかし、いざ問題が起こった時に頼りにならないという事実を突きつけられると、思っていた以上に落ち込んだ。彼はとりあえず国語の教科書を諦め、これ以上自分の荷物が漁られないために自分の席を離れないことにした。

 昼休み。教科書が無くなって以降は、駿に直接嫌がらせをする者は現れなかった。しかし、彼は自分のことがクラスで噂されていることに気付いていた。周りに気付かれないようなトーンで噂する者が多かったが、周りに聞かせるかのようにわざとらしく声を上げて噂する者もいた。自分が周りから噂されているという状況は、彼に猜疑心をもたらす。いつ、誰が、何をしてくるのか、彼は不安に駆られている。

「お~い、春山ぁ~」

 横山からの呼びかけに、駿は身体をびくつかせる。

「おいおい、どうした?」

「あ、いや、また何かされるんじゃねえかと思ってさ……」

「何かえらいことになってきてるな」

「他人事みたいに言うなよ……」

「だって他人事だし……」

「お前さ、もうちょっと気の利いたこと言ってくんねえのかよ?」

 横山の普段と変わらぬ遠慮の無い言動が、駿を苛立たせる。

「……お前、そんな面倒臭いこと言う奴だったっけ?」

「……悪かったな、こんなこと経験無いんだよ」

「まあ、そうか」

 二人の間に気まずい沈黙が訪れる。横山にしてみれば、今までのように無遠慮な会話をしづらいので、話が続かなかった。

「ええと……」

「香織に告白した春山って誰だっけ?」

「あれじゃない?私もよく知らないけど」

「うわっ!あれでよく告白できたね」

 横山が会話を続けようとする間に、女子達からの噂が二人に聞こえてくる。

「しかも断られたのに気付いてないらしいよ?」

「え~っ、ウソでしょ!?よくそんな勘違いできるね、バカじゃん!」

「ねえ、聞こえてるんじゃない?」

「別に?だからって何でもないでしょ」

「ていうかあいつさ、いつも同じ奴といるっぽくない?」

「他に、友達いねえのかよ!」

 完全に悪口と化している噂はエスカレートし、横山にも話題が及びつつある。

「他人事じゃ無くなったんじゃねえの?」

 そう皮肉っぽく言う駿に対して、横山は舌打ちで返す。結局、二人はろくに話すことなく昼休みを終えた。



 この日の授業が終了し、掃除も終わった後のこと。駿が教室に戻ると、自分の机に無くなっていた国語の教科書があることに気付く。ようやく見つかったというのに、駿はどうにも安心できない。とりあえず席に着いて中を確認してみると、極太のマジックで落書きされていた。『消えろ!』『香織に謝れ!』『存在が迷惑!』などという罵詈雑言が教科書全体に書き殴られている。予想はできたことだが、駿は苛立ちを抑えられなかった。放課後になると、駿は横山を待たずに教室を出て行った。事態が好転するどころかむしろストレスを溜めるだけになりそうなので、横山にこの件を相談しようとは思わなかった。さっさと教室を出てから、普段一緒に帰っている横山が追って来たりすることも無かったため、この日彼は一人で足早に帰宅することとなった。

「ただいま」

 帰宅した駿は手洗い、うがいを済ませると早々に自分の部屋へと入っていく。あまりにも腹を立てていた駿は何かをしようという気になれなかった。何をやってもイライラして楽しめなさそうな気がしていた。すると、突然部屋のドアが開き、布団を抱えた駿の母親が入ってきた。

「何だよ!」

「何よそれ!布団取り込んであげたんじゃない!」

 いきなり怒声を浴びせられ、不愉快になった母は苛立ちを隠さずに応える。

「ノックぐらいできないわけ!?」

「両手が塞がってるからドア開けるのだって大変なの!大体いつもこのぐらいの時間に布団取り込んでるんだからドア開けといてよ!」

 今日は一人で、かつ早足で帰ってきたので、いつも駿が家に着くころには終わっている布団の片付けがまだ終わっていなかったのであった。

「知らないよそんなの!」

「知らないじゃないでしょ!大体、いきなり帰ってくるんだから!何かあったわけ!?」

「うるせえな!いいからさっさと出てけよ!」

 自分のことを見透かしたような言動にかっとなった駿は、普段親に対しては控えているような乱暴な言葉が出てしまった。

「親に対してうるせえって何よ!それが親に対する口の利き方!?」

 こう返されてしまっては返す言葉が無い。それでも今の駿には苛立ちを抑えて謝るようなことはできない。

「何でもいいから!布団置いて出てくんだよ!」

 駿は母から布団をひったくり床へ放り投げると、力ずくで母を部屋から追い出し、勢いよくドアを閉めた。

「何よ!……」

 母はドアの外から一言声を上げると、どたどたと足音を出して部屋から離れていく。中学に入って以来、特に2年生になってからは、駿と母親との関係は大体こうであった。今回はイライラしていたせいか特に当たりがきつかった。駿は今14歳、思春期であると同時に反抗期でもある。同年代の友人数名が世界の中心を成すコミュニティであり、そこから離れた存在――対極にあるといってもいい大人達はなおさら――を排斥することでコミュニティの結束を高めていた。そのような経緯から、教師達、ましてや両親に学校での一件を相談しようなどとは思わなかった。

 駿は大人にも、友人にも相談しないという決断を下した。その決断は正しかったのか、間違っていたのか、はたまた意味など無い決断だったのか。



 駿が香織に告白してから1週間。噂はあっという間に学校全体へと広がり、駿はいじめられるようになった。噂の内容も伝言ゲームの要領でどんどん継ぎ足されていき、今では告白してからずっと香織に付きまとい、嫌がらせをしているということになっている。香織本人はそのことを問われると否定しているのだが、あまり強く否定することは無かった。あまり駿に肩入れすると、今度は逆に駿のことが本当に好きなのではないかと噂されることを気にしていたからだった。このような態度も相まってか、香織は何らかの事情で本当のことを話さないのだという噂も同時に流れていた。その内容は、駿に脅されて本当のことを言えないであるとか、その優しさゆえに駿に対してさえ気を遣っているだとか、鈍感なので付きまとわれているという認識がないなどなど、コミュニティによって微妙に異なっていた。このような状況でも、横山は以前と変わらぬ態度で駿に接していた。初めのうちはこの件の解決に全く動こうとしない横山に苛立っていた駿だったが、今ではこんな状況でも対等な友人として接してくれる彼に感謝の念を抱いていた。

 そしてこの日の休み時間、駿は君島によって廊下に連れ出されていた。周りは美智恵ほか数名が取り囲んでいる。君島は駿に対して、声をかけるより前に腹を殴る。

「香織ちゃんに近付くなってよ……前に言ったよな、ええ!?」

 駿からの返答がされる前に、君島は彼の脇腹に蹴りを入れる。彼はその場に倒れこんでしまった。

「人の話聞いてんのか、クソ野郎が!」

 君島は倒れこんだ駿の上体を起こし、胸に膝蹴りを加える。彼は痛みに悶え、返事ができなかった。

「や、やめて……」

 辛うじて答えた駿の頭に、君島の拳骨が一発、二発と降りかかる。痛みに耐えかねた彼はとうとう泣き出してしまった。

「はあ~あ!?何なんだよ、テメエ!いきなり泣くとかよぉ!」

 突然、ギャラリーの一人であった美智恵が駿の前に飛び出してきた。

「気っ色悪い面見せやがってよぉ!泣きたいのは香織の方なんだよ!香織はテメエのせいで辛い思いをしたっていうのにそれをこらえて普段通り過ごしてるんだよ!何なんだよ、自分のほうが悪いくせしてさ!ちょっとは周りのこと考えらんないわけ!?」

 美智恵は駿の髪を掴み、目の前で怒鳴り散らしている。彼の顔に唾が飛んでいるが、そんなことはお構いなしに怒鳴り続けている。ギャラリーはにやにやしながらその様子を見ているが、その笑みは心なしか引きつっているようにも見える。

「おい古川、時間時間」

 君島に呼びかけられ、美智恵は我に返る。休み時間はもう残り三分を切っていた。

「二度と香織に近付こうなんて思うな、クズが!」

 最後に一言罵倒を浴びせててから思い切り突き放し、美智恵は駿の元を離れる。そして君島やギャラリー達と一緒に教室へ戻っていく。駿は1分弱その場で泣き続けた。その間すれ違った生徒達は皆、駿を憐れむことはなくむしろ軽蔑していた。教室に戻ってもなお、横山以外の生徒から駿に注がれる視線は、憐れみによるものではなく軽蔑によるものだった。



 駿の告白から1ヶ月後。

「それから春山くん、ちょっと来てくれない?」

 この日の朝礼が終わった後、小沢は駿を呼び出した。駿は黙って小沢について行く。職員室へ向かう間、二人は言葉を交わすことはなかった。

「それじゃあ春山くん、単刀直入に聞くけど、あれから笹原さんに何かしてないよね?付きまとったりとか」

 小沢は自分の席に着いてすぐに、感情を込めず駿に問いかける。

「……してないです。あの時も俺は悪くないってことで結論が出たじゃないですか」

 駿はむっとしながらそう答える。

「ああ悪いね、学校中どこ行ってもそんな噂ばっかりでさ、僕も担任として確認せざるを得なかったんだよ」

 小沢は悪びれることなく説明する。

「……笹原さんには聞いたんですか?」

「ああ、聞いた聞いた。あの子も特に何にもないって言ってたよ」

「じゃあ俺に聞くこと無かったんじゃないですか?」

 駿は苛立ちを隠さず、さらに問い詰める。

「まあ関係者全員から話を聞いて総合的に判断しようってことだよ」

「じゃあまだ疑われてるんじゃ……」

「大丈夫だよ、春山くんのこと信じてるから!」

 小沢は駿の疑念に対してこう返す。駿は釈然としなかったが、これ以上言葉が出てこなかったので教室へと戻っていった。駿はこの期に及んでまだ見栄を張っているので、自分の方がいじめられているという事を相談する気も無かった。

 駿が香織に付きまとっているという噂は、この頃になると教師達の耳にも入ってくるようになっていた。駿が小沢に呼び出されたのも、駿が悪者であるという認識を教師達が抱き始め、なおかつ駿がいじめられていることはまだ知らないというこのタイミングを狙って、またしても美智恵が行動を起こしていたからであった。さかのぼること2日前。

「あの春山ってさ、ま~だ香織のこと付け回してるんだよ!香織もさ、もういい加減うんざりしてて最近元気ない感じだし?あいつはそんなのお構いなしに延々嫌がらせばっかり!そろそろ本格的に何とかしないとダメじゃない!?」

 美智恵はおおむねこんな内容の噂話を担任の小沢、学年主任の大越雄吾、そして生活指導の八幡譲治の前でわざと聞こえるように大声で話した。その結果として、美智恵の思惑通り教師達の間でこの一件が話題になった。小沢は美智恵の噂を信用していなかったが、大越と八幡はこの噂をいじめのシグナルと危惧し、その熱意に押される形で香織と駿から聞き取りをすることになったのであった。



 駿への聞き取りの翌日。

「ええと古川さん、ちょっと来てもらいたいんだけど」

 香織と駿への聞き取りを終えた小沢は、気が進まないが美智恵からも聞き取りをすることにした。当事者二人からの聞き取りが正しいなら、美智恵は根も葉もない噂を流していることになる。美智恵の言い分も聞くつもりではあるが、小沢はどちらかというと美智恵がこれ以上噂を流さないように説教するつもりだった。美智恵はかばんから何かをポケットに入れると、彼女にしては珍しく、職員室まで大人しく小沢に付いていった。

「早速だけど古川さん、今笹原さんが春山くんに付きまとわれてるって噂が……」

「そうなんですよ!あいつ一ヶ月もの間執拗に香織のこと付け回してるんですよ!気持ち悪いですよね!先生方の力で早く何とかして欲しいんですよ!」

 美智恵は小沢の話が終わる前に割って入り、まくし立てる。

「まず最後まで聞いてくれないかな?この噂の出所って古川さんじゃない?」

 小沢は平静を装いつつ、美智恵に質問を投げかける。

「さっきから噂、噂って、失礼じゃないですか!?これは真実なんですから!」

 小沢の口振りに機嫌を悪くした美智恵は声を荒げる。

「……まあ落ち着いて。とにかくこの話が出たのって古川さんからじゃない?」

「そうですよ!香織が私に相談してきたんです!告白してきた奴に付きまとわれて嫌がらせされてるって!ひどい話でしょ!そういうことだから早く香織を安心させてあげたいんです!」

「それなんだけどさ、本当に笹原さんって嫌がらせされてるの?」

「なっ、ふっ、ふぅたがってるんですか!?香織がっ今!あぁんな奴のせいでっ、苦しんでるのに!?何っで、そんなことが出来るんですか!?」

 小沢の指摘に対して美智恵は激怒し、ヒートアップしていく。

「あのね、その笹原さんがそんなことは無いって言ってるんだよ。当然、春山くんもやってないって言ってる。それなのにそうやって噂を流す根拠はあるの?」

 今にも食ってかかりそうな美智恵を前に、小沢は可能な限り冷静に問いかける。

「あるに決まってるじゃないですか!」

 小沢の問いかけに対して、美智恵は鼻息荒く勝ち誇るかのように答える。

「じゃあその根拠は何?」

「この写真です!」

 美智恵はポケットから一枚の紙を取り出して小沢に見せる。そこには一枚の写真が印刷されている。その写真には神原東中の制服を着た一組の男女が写っている。二人とも後姿ではあるが、駿と香織であることは髪型で何となく判別できる。そして、その構図は駿が香織の後を付けているというものである。

「この写真を見てもまだ私が嘘吐いてるって言うんですか!?」

 確かにこれが本当なら証拠として成立するだろう。しかし、小沢の目にはこの写真が合成写真のようにしか見えなかった。

「……こんな写真まであるならさ、何で笹原さんは付きまとわれてないって嘘吐いてるのかな?」

 小沢は写真ではなく、香織の発言との矛盾を美智恵に問う。合成にしか見えないとはいっても、小沢はパソコン関係の知識に疎く、とても合成であることを証明できそうになかった。

「先生は香織のことが何っにも!分かってない!香織は自分の苦労を相談しないで背負い込むタイプじゃないですか!」

「そうは言うけどさ……それって自分から言わないってだけで一対一で聞いたら答えてくれそうなもんじゃない?」

「だぁからぁ!香織は背負い込むタイプなんですよ!私にだって私がじっくり聞かないと言ってくれなかったんですから!」

 小沢の問いかけに美智恵は再び憤慨する。

「……それじゃあさ、春山くんが尾けてるのを黙って見てたの?」

「ッ!し、しょうがないじゃないですか!証拠が必要なんですから!」

 この時、美智恵が少しだけ言葉に詰まるのを小沢は見逃さなかった。

「じゃあ笹原さんはこの写真のこと知ってるの?」

「えっ!……し、知らないはずです」

「じゃあ笹原さんのこと黙って尾けてたんだ?」

「だからっ!しょうがないじゃないですか!証拠のためには!」

「でもさ、そのせいで古川さんは笹原さんに内緒で付きまとってることになるよね?」

「一日……いぃちぃにぃちぃだぁけなんですよおぉぉ!さあっきから!なあんなあんですかぁ!じゃじんまでっあんのにぃ!ぞんなわだしをぶたがうみたいにぃ!あいづが悪いのにぃ!あぁいづが!ばるいのにぃ!わだじがぶぞづきみたいにぃ!ぜんぜいが悪いんじゃないでずがぁ!あいづがばるざずるのおぉ!どめないのがいげないんじゃないでずがあぁ!」

 追い詰められた美智恵は泣き出し、騒ぎ立てる。この騒ぎに対し、職員室中が二人に注目する。

「分かった、分かったから!とりあえず落ち着いて!」

 小沢はこれ以上の聞き取りは不可能と判断し、切り上げることにした。

「ぜんっぜいが!ばやぐっ!あいづをどめでぐだざぁい!ぜんぜいがぁ!」

「分かったから!ちょっとこっち来て!」

 小沢は赤面しながら美智恵を職員室から連れ出す。

「古川さんの言い分はもう分かったから!今回はもう戻って!」

「あいづをぉ!ばっずるのぉ!じがるのぉ!」

「大丈夫、大丈夫だから!授業始まっちゃうよ!」

 美智恵は泣き止まなかったが、小沢に促されて教室には戻っていった。溜め息をついてから、小沢は自分の席まで戻っていく。机の上には例の写真が置いたままになっていた。



 美智恵への聞き取りから三日後。

「笹原さん、申し訳ないんだけどちょっと来てくれるかな」

 小沢、大越、八幡の三者で相談した結果、もう一度香織から聞き取りをすることになった。小沢は写真の信憑性を疑っていたが、職員室での騒ぎのせいか、小沢の要求は通りづらくなっていた。

「今回はどんな用件なんですか?」

 職員室までの道中、香織が小沢に尋ねる。

「申し訳ないんだけど、また春山くんとの一件なんだよ」

「……またですか」

 小沢からの返答に、香織は露骨に顔をしかめる。

「ああ、悪いね。着いてから詳しく話すから」

 それから二人は黙って職員室へと向かう。

「ええと、まずこの写真を見てほしいんだけど」

 自分の席に着いた小沢は、美智恵が置いていった写真を引き出しから取り出し、香織に渡す。

「……何ですか、これ?」

 香織は目を見開き、青ざめた顔で小沢に尋ねる。

「この間古川さんから預かった写真なんだけど、何か心当たりは無いかな?」

「……」

 小沢の質問に対して沈黙する香織。

「……えっと、特に何も無いんだったらそれでいいんだけど…」

「……いえ、あります」

 香織の沈黙に気まずさを感じた小沢は香織より先に口を開いたが、香織の方もすぐに沈黙を破った。

「えっ、じ、じゃあ聞かせてくれないかな?」

「……はい。実は告白された後、いつからかはよく分からないんですけど、春山くんが私のこと付け回ってたみたいなんです」

 香織はこれ以上駿をかばう事を諦めた。写真が合成であるという事はすぐに分かったが、これを否定したところで美智恵は止まらないということは容易に想像できる。それに、あまりムキになって否定すると今度は駿に対して本当に気があると思われかねない。そんな事になるぐらいなら、自分の良心のために駿をかばうより、彼をスケープゴートにする方がよほどマシであるように思えた。被害の内容が噂よりマイルドなのは、香織にとって最後の良心であった。

「それじゃあ、前に否定していたのは?」

「……自分から事を荒立てない方がいいんじゃないかって思ったんです」

 香織は話しながら理由を考え、捏造する。

「そっか……」

 駿がこんなことをするというのが小沢には信じられなかった。しかし、被害者本人が被害を認めた今、これ以上駿をかばうのは難しい。駿は自分があずかり知らぬ所で味方を失ったのである。

「……一ヶ月も気付けなくてごめんね?これから何とかするから」

「あ、いえ、お気になさらず。自分から言わなかったのが悪いんですから」

 二人は話を終え、香織は職員室を出る。



 駿の告白から一ヵ月半後。

「そこに座れ」

 朝礼の後、呼び出された駿は応接室に通された。彼を呼び出した八幡の他に、香織、美智恵の二人が入ってくる。職員室ではなく応接室なのは、八幡が説教をする前提であり、大声を出しても迷惑にならない場所を選んだためだった。

「何で呼び出されたのか分かってるよな?」

「……はい」

 八幡は威圧的な態度で駿に問いかける。それに対して駿はうつむいたまま小さな声で返事をする。

「告白を断られたのに気付かなかったのか逆上したのかは分からんが、それ以来延々と笹原に付きまとってるわけだ……恥ずかしいとは思わないのか?」

 八幡は威圧的な態度を崩さず駿をなじる。

「どうしてこんなこと続けてるんだ?答えろ!」

「……あ、あの、つ、付きまとって……ないです」

 威圧的に迫られ、駿の言葉はまたしてもどもりがちになる。

「だ、そうだ!笹原、春山の言ってることは間違ってるよな?」

 八幡は半ば呆れたように香織へ問いかける。

「……は、はい。あれからずっと……」

「本人はこう言ってるぞ!嘘ついて誤魔化そうとするんじゃない!」

 八幡は駿に怒鳴り散らす。駿は驚いたように目を丸めて香織の方を見る。申し訳なさそうに目を逸らす香織の横で、美智恵が勝ち誇ったかのように駿を睨みつけている。駿を助けられる唯一の人物である香織は彼を見捨てた。もはや自分に味方はいないという事実を、駿は土壇場で突きつけられたのである。

「まず謝るべきなんじゃないか!一回でも謝ったのか!」

 八幡はさらに駿を追い詰める。もはや駿には涙目でうつむく事しか出来ない。

「何とか言ったらどうなんだ!黙ってたって何も進展しないぞ!」

「……ですか」

「何だって?」

「好きになっちゃダメですか!?俺みたいな奴は告白するのもダメなんですか!?」

 駿は泣きながら絶叫している。それは学校中から追い詰められた彼にとって最後の抵抗であった。

「俺だって受け入れてもらえるなんて思わなかった!それでも!それでも気持ちを伝えちゃいけないんですか!?こっぴどく振られて!俺だって傷ついた!俺みたいな奴は、その傷を、何度も何度も、抉られなきゃいけないんですか!?」

 この絶叫に香織は恥じ入ってうつむく。自分が駿を傷つけているという事実から目を背けるように。美智恵はそれを見逃さなかった。

「先生!俺みたいな奴は恋しちゃいけないんですか!?恋したらこんな罰を受けなきゃダメなんですか!?俺みたいな……」

「ふううざけてんじゃねえええよおぉぉ!!」

 駿の絶叫をかき消す更なる絶叫が応接室に響き渡る。美智恵だ。彼女は目の前のガラステーブルを思い切り叩きながら立ち上がった。

「さっきっから聞いてりゃあよぉ!テメエは自分のことばっかり!きぃずついただ?知ぃらねえよ!テメエが傷つけた香織の事なんか眼中にないってのかよ!?」

 美智恵の迫力に、部屋中の人間がうろたえている。

「八ぁ幡先生の言ったことぉ聞ぃてねぇのかよぉ!謝んだよ!なぁん度でも謝んだよ!許してもらえるまで!何度でも!死ぃぬまで!死んでぇも!地ぃ獄で謝り続けんだよおおおおおお!!」

 美智恵は絶叫し続けている間、何度もガラステーブルを思い切り叩いていた。彼女の絶叫が最高潮に達したその時、彼女に叩かれたガラステーブルは砕け散り、彼女の手に突き刺さった。

「痛い!イタイ!いぃぃたいぃぃぃ!!お前のせいだぁ!オォマエェのおおぉぉぉ!!」

 美智恵は駿の胸倉を掴み、思い切り揺さぶる。ガラスの突き刺さった手からは血が流れ出し、彼の制服に赤い斑点を刻んでいる。

「お、おい古川、落ち着け!落ち着けったら!」

 呆気に取られていた八幡が冷静さを取り戻し、駿と美智恵を引き離す。

「笹原、古川を保健室に連れて行け!」

「は、はい。みっちゃん、落ち着いて。痛くない?」

「かぁおりぃぃ!そんなことよりもぉ!」

 美智恵はなおも食い下がるので、香織は強引に引っ張っていく。二人が出て行った応接室には気まずい空気が流れている。駿は美智恵の迫力に対して呆気に取られ、泣き止んでいた。

「……とにかくだ、まず笹原に謝ること。それから笹原に対して変に付きまとったりしないこと。いいな?見られてないと思ってるかも知れないが、皆見てるからな?」

「……はい」

「……今日はもういい、戻れ」

 駿は天板が割れたガラステーブルのある応接室を一人後にし、八幡は割れたテーブルを片付ける。怪我をした美智恵は早退し、香織はそれを見送っていたので授業には遅れてきた。駿はそれから一日中上の空であった。授業も、会話も、いじめでさえ駿の表情は変わらなかった。放課後になると、駿はいつかのようにさっさと教室を後にし、一人で足早に帰っていった。その胸に新たな決意――あるいは責務を抱きながら。



 翌日。

 登校してきた駿は、教室ではなく屋上へ向かう。生徒達の視線を無視し、教師の目を掻い潜り、駿は屋上へと辿り着く。ここで死ななくてはならない――そんな一心で彼は今日学校に来ていた。

「好きになってすいませんでした」

 駿は香織に告白する為に買った便箋の余りをかばんから取り出し、そう殴り書きする。上履きを脱いで便箋の上に置いてから、彼は屋上の柵をよじ登っていく。教室では朝礼の時間になっている。

「春山くんは来てないのかな?」

「あんな奴来ない方がいいでしょ!」

 小沢の心配をよそに、両手に包帯を巻かれた美智恵が騒いでいる。昇降口近くの舗装された地面に駿が落ちてきたのはそんな時である。教室からは見えない位置なので、2年4組の日常はすぐには変わらなかった。この事件の第一発見者はこの日たまたま遅刻してきた男子生徒である。彼は突然の出来事に腰を抜かし、しばらく立てなかった。それから十数秒後に立ち上がり、土足のまま職員室に駆け込んでいく。

「とっとっ、飛び降りだああ~!」

 錯乱したその生徒の証言を基に職員室の教員が現場へ向かう。現場に着いたその教員も激しく動揺したが、すぐに救急車を呼ぶ。情報はすぐに学校全体で共有され、この日の授業は中止となった。

 駿は即死だった。救急車が着いた時にはすでに死んでいた。いじめっ子が、なぜ?教師達は悲しみながらも、その点に疑問を抱いた。いじめていたことがバレたせいなのか?本当にいじめはあったのか?駿が死んだ次の日から匿名でのアンケート調査が行われたが、本当のことを書く者はいなかった。確かにいじめはあったのだが、その原因は駿自身にあったと考える者が多かった。そうではないと思っていた横山のような者達は、駿のために行動しなかったことによる罪悪感から逃れるために、真実を語らなかった。2年4組以外のクラスの生徒達に至っては、大半がそもそも駿の死に対して関心を示さなかった。休みが増えてラッキーと思っている者さえ珍しくは無かった。この件の最重要人物である香織も、本当のことを書かなかった。最悪の結果に終わった現時点で全てを話しても意味がないと考えていたばかりでなく、駿をかばうどころか嘘をついた自分が本当のことを語れば、周りの大人達から叱責されるだろうと予想し、それを恐れていたのだった。結局、生徒達と教師達の間にある事件への認識の溝が埋まることは無かった。



 駿の死から二週間後。駿の葬式も終わり、カリキュラム上は普段どおりの日常に戻っていた。しかし、当然ながら同級生の自殺に対して中学生達は二週間で立ち直れはしない。2年4組の空気は重苦しいまま、日常は過ぎていく。嫌がらせを糾弾するため、という理由の下で皆いじめを容認、黙認していた。本当にそれでよかったのか、もしかして嫌がらせなど最初からなかったのでは、いや、自分は悪くない。教師達に対しては誤魔化しが利いても、自分の心は誤魔化せない。生徒達は駿に対してしてきたことが正しかったのか自問する日々を送っている。中でも香織の落ち込みようは深刻だった。なにせ彼女のせいで彼は死んだと言っても過言ではないのだから。皆に本当のことを言っていれば彼は死ななかったのでは、いや、そもそもあの告白を受け入れるべきだったのか……香織の後悔は尽きることがない。

 そんな2年4組でただ一人、駿の死に対して怒りを抱く者がいた。美智恵である。その日の昼休み。

「香織……」

 明らかに落ち込んでいる香織を美智恵は心配そうに見つめながら話しかける。

「あ、みっちゃん……」

 香織が美智恵に気付き、落ち込んだ表情のまま応える。美智恵は香織を心配しつつも、駿への怒りをますます燃え上がらせている。普段の香織なら、少しぐらい落ち込んでいても笑顔を作ってくれる。今はそれすらできないほどに落ち込んでいるのだ。香織から笑顔を奪ったあの男、絶対に許せない。美智恵はそんなことを考えながら、香織と話し始める。

「香織、あいつのことで落ち込むのは間違ってるよ」

「でも、春山くんの自殺を止められたのは多分私だけだから……」

「……それなんだよ、あいつの目的は」

「え?」

「あいつの目的は!自殺することで香織にトラウマを植えつけることだったんだよ!今の香織はあいつの思う壺なの!あいつ絶対地獄から香織のことにやにやしながら見てるに違いないよ!」

 美智恵は語気を荒げ、両手で机を叩く。

「当然、香織は何も悪いことなんてしてない!それどころかクラスの誰も悪いことなんかしてない!それなのに、皆落ち込んでクラス全体が暗くなってる!あいつは異常だよ!香織に振り向いてもらえないからって自殺までしちゃってさ!」

 美智恵は言いながらどんどんヒートアップしていく。席を立ち、大げさな身振りを交えて話し続ける。

「だって本当に悪いと思ってるなら香織に謝るはずじゃん!あいつ謝るどころかこうやってますます香織を苦しめてる!それだけじゃない!香織に謝れっていう当然の要求に対してあいつは逃げ出したんだよ!あいつを許すだとか私達が悪いだなんてとんでもない!これからもっとあいつを責め立てなきゃダメなんだよ!香織もそう思うでしょ!?」

「……みっちゃん、怖いよ……」

 同意を求める美智恵に対して、香織は目を伏せながらこう答える。

「香織……!大丈夫だよ、私はどんな時だって香織の味方だから!」

 美智恵は席に戻り、香織を力強く抱きしめる。

「死んだ奴をどうやって責めようか?あいつの両親に文句を言うか、墓を壊すか……」

「……みっちゃんが、怖いんだよ……」

「えっ……?」

 美智恵の表情が変わる。そして香織を抱きしめる腕からは一瞬にして力が抜ける。

「元はと言えば、みっちゃんが私の話をちゃんと聞かないで変な早とちりをしたのが原因じゃん。本当だったら、春山くんの告白を断った時点で全部終わりのはずだったんだよ」

 香織は話しながら、美智恵に対して抑えつけていた心の内を自覚し、吐露していく。

「それをみっちゃんが騒ぎ立てるから、事が大袈裟になったんだよ。最終的には自殺までしたのに、本当にまだ春山くんが悪いって思ってるの?みっちゃん、ちょっとおかしいよ。どこまで行ったらみっちゃんは納得するの?春山くんがこれ以上何か……」

「いや……いやっ!やめてえええぇぇぇ!!!!」

 突然、美智恵が悲鳴を上げる。その大きな悲鳴によって、二人はクラス中の注目を集める。頭を抱えて顔面蒼白になっている彼女は、それからすぐに泣き始めた。

「あ……あ……い、いや……いやあっ!」

 美智恵は完全に錯乱している。香織が、嫌がっている?私を?そんな。嘘だ。私はずっと香織のために行動してきた。香織のために。香織が喜ぶために。香織に悪い虫が寄りつかないように。でも、私を嫌がっている?いや、香織のための行動を、嫌がっている?その事実にようやく気付いた彼女は、泣きながら教室を駆け出していった。

「あ、みっちゃん……」

 香織はそれを心配そうに見つめながらも、席を立つことはなかった。

 美智恵は当てもなく走った。気付いた時には階段を上りきって、屋上の入り口に来ていた。あんな事件のあった後である。当然、屋上への扉は閉鎖されている。薄暗いその場所に美智恵は倒れこみ、泣きじゃくる。

(みっちゃんが、怖いんだよ)

 美智恵の心の中で、香織のこの一言が繰り返される。この言葉が繰り返されるたびに、美智恵の心を突き刺していく。それから後の香織の言葉は思い出せないが、自分を非難していたことだけは分かっている。

「いや……いや……もう生きてけないよ……」

 うわ言のようにつぶやきながら、美智恵は泣き続けている。美智恵はこの受け入れがたい現実から、いつも一緒にいた香織との思い出に逃げようとした。目の前で香織が笑っている。

(みっちゃんが、怖いんだよ)

 目の前で香織が緊張している。

(みっちゃんが、怖いんだよ)

 目の前で香織が不安そうにしている。

(みっちゃんが、怖いんだよ)

 目の前で香織が怒っている。

(みっちゃんが、怖いんだよ)

 美智恵がどんなに逃げ出しても、そこにいる香織はその一言しか言わなかった。香織から突き立てられるその一言が、美智恵の心を何度でも引き裂く。美智恵にとって香織はただの友達ではない。姉のように頼もしく、妹のように可愛らしく、恋人のように愛おしい。自分より遥か高くに君臨する絶対的な存在、そしてそんな香織と一番の親友であるという自負こそが、美智恵にとって最大のアイデンティティーだったのだ。その香織から冷たく突き放されたという事実は、自身のアイデンティティーを否定されたも同然である。赤の他人からだったら全く響かなかっただろう。しかしそれを香織から――自分のアイデンティティーの中心から否定されたのである。もはや美智恵の心を支えるものは何もない。美智恵は屋上へのドアノブに手を掛ける。駿が一ヵ月半かけて踏破した自殺への道程を、美智恵はこの昼休みだけで踏破しつつあった。

(でも……香織はどう思うんだろう……)

 美智恵はドアノブに手を掛けたまま、香織のことを思い返していた。香織はあんな最低最悪の男が自殺した時さえ自分のせいだと落ち込んでいた。いや、最低最悪の男という認識は改めるべきかもしれない。付き合うに値しない男という程度だったのかもしれない。とにかく、あの男の自殺に香織が責任を感じて落ち込んでいるのは確かだ。そんな繊細な香織が、私が自殺したと知ったら?今以上に責任を感じて落ち込むだろう。香織の親友なんだから……そう思ってなくてもあいつよりは大事なはずだ。今でも。香織に辛い思いをさせるなら、私だってあの男と同罪だ。私が散々否定してきたあの男と。いや、もうすでに同罪だ。香織にあんな言葉を言わせてしまったのだから。もうこれ以上香織に辛い思いをさせることは許されない。だから、私が自殺することも許されない。でも香織に嫌われたまま生きていくなんて、そんなの耐えられない!それなら死んだ方がマシ、でもそれは許されない。香織と私がこれ以上どっちも傷つかないためには……。

 美智恵は自問自答に一段落着けると、ドアノブから手を離し、その場に座り込んでまたすすり泣きした。昼休みが終わるまで、美智恵はその場を動かなかった。



 その日の放課後。

「香織……」

 美智恵が香織の前に立つ。その表情に昼休みまでのような怒りや憎悪はない。

「その……ごめんなさい!私、香織のこと何にも分かってなかった。今までずっと香織のために、香織のためにって動いてきたけど、それを香織が嫌がってるなんて考えもしなかった。こんなこと今更謝ってどうにかなることじゃないかもしれないけど……今まで、本当にごめん!」

 美智恵は香織の前で深々と頭を下げる。もちろん謝罪のためだが、香織を直視しているとまた泣き出してしまうとも考えていた。当の香織は少しの間困惑し、立ち尽くしていた。

「みっちゃん……顔上げて?私もう怒ってないよ」

 それでもストレートに謝罪してきた者を冷たくあしらえるほど、香織は冷徹にはなれなかった。美智恵が顔を上げると、香織が微笑んでいる。それを見た彼女はもう涙を抑えることができなかった。

「かぁおりいいぃぃぃ!!」

 美智恵は我慢できず、香織に思い切り抱きついて泣きじゃくる。香織も彼女の背中に腕を回し、優しく頭を撫でる。

「かおりぃ……ごめんね……」

「うん……」

「香織に嫌われたら……私……私……もう生きてけないから……」

「うん……大丈夫だよ」

 香織は聞き役に徹し、美智恵が落ち着くのをそのまま待つ。結局、彼女は十分近く泣き続けていた。

「あっ、部活遅れちゃうよ、急ご!」

「えっ、もうそんな時間!?香織、ごめんね」

「いいからいいから、行こ!」

 香織は美智恵の手を取って走り出す。部活にはギリギリ遅刻せずに済んだ。



 駿の自殺から二ヶ月弱、この日は駿の四十九日が執り行われた。神原東中からは、二年四組の生徒とその他希望者が授業を休んで四十九日に参加することになっている。二年四組以外にも駿には数名の友人がいたはずなのだが、希望者は現れなかった。この時期になると、二年四組の生徒達は立ち直ったとまでは言えないものの、日常を取り戻していた。それは駿の死に対して心の中で折り合いをつけたということでは決してない。駿の死という事実に蓋をして、そんな事件など初めからなかったかのように振る舞うことで自分達の心を誤魔化しているだけだった。二年四組にはこの一件について話したがる生徒はいなかったし、そのことを話題にしてはいけないという空気が言葉にせずとも共有されていた。

 そんなタイミングで行われた四十九日である。忘れたふりをすることで真実から目を背けてきた子供達は、今再びその真実を突きつけられることになったのだ。授業が休みになったからといって浮かれる者は誰もいなかった。法要が一通り終わり、学校に戻ってくると、小沢が二年四組の生徒達を集めた。

「さっきお寺でも聞いたと思うけど、四十九日っていうのは亡くなった人を悼むことに区切りをつけましょう、っていう行事なんだ。でも、それは春山くんが亡くなったってことを忘れていいよっていうことじゃない。みんなこの事件の当事者なんだ。私も含めてね。これまでも春山くんの自殺について色々考えてきたと思う。反省したり後悔したりもしたと思う。みんなにはどうかその思いを忘れないで欲しい。私達はみんなどこかで間違っていたんだ。クラスの仲間が自殺したんだから、私達が正しかっただなんてことは絶対ない。取り返しのつかないほどに間違っていた私達にできることは、これ以上こんな間違ったことが起こらないようにすることだけだ。そのためにも、今回の事件を忘れちゃいけないし、春山くんに対してどう接するべきだったのか、これからもずっと考え続けて欲しい。もちろん、私もそうするつもりだ。だからみんなも、今回の事件についてはこれからも忘れないで、ずっと心の片隅で悩み続けて欲しいんだ。いいね?」

 普段なら生徒達から返事が帰ってくる場面だが、彼らは皆うつむいて黙っていた。普段こんな態度を取るようなら小沢も注意するのだが、今回はそうしなかった。

「それじゃあみんな、気をつけて帰りなさい。部活には行かなくてもいいようになってるけど、途中参加するかは各自で判断してね」

 小沢のこの発言を機に、二年四組の生徒達は散り散りになっていく。大半はそのまま帰るようだが、中には部活に行く者もいた。彼らが勤勉さゆえに部活に行ったのかと問われるとそういうわけではなく、何かに打ち込んで気持ちを紛らわせたいだけだった。そして、香織と美智恵は……。

「ねえ香織、部活……行く?」

「……今日は、やめとく」

 さぼるようで気が引けるが、今の香織には何かに打ち込むだけの心理的な余裕はなかった。

「じゃあ、帰ろっか」

「……うん」

 二人はゆっくりと歩き始める。

 下校中の二人はなかなか口を利かなかった。普段なら美智恵がくどいぐらいに話しかけてくるものだが、今日はそうならなかった。後悔と反省を二人ともしているからこそ、駿の一件は話題にしづらかった。楽しい話題が出てくれば良かったのだが、それも出てきそうになかった。

「ねえ、香織……」

「うん?」

「私達ってさ……いつになったら許してもらえるのかな?」

 それでも、話さずにはいられなかった。気分が沈んだとしても、いや、あえて気分を沈ませるためにも、駿のことを話題にせずにはいられなかった。

「誰に?」

「春山……かな?」

「もう遅いんじゃない、相手がいないんだから」

「うん……そうなんだけどね、そういうことじゃないっていうか……」

「……やっぱりさ、先生の言ったとおりなんだよ。春山くんのこと忘れて生きるなんてしちゃいけないし、多分できないと思う。許されるとかっていうのも、そういうことなんじゃないかな」

「……そうだね」

 話に区切りがつくと、二人の間にはまたしても沈黙が訪れる。

「……ねえ、みっちゃん……」

「香織?」

 今度は香織の方から話しかけてきた。

「私さ、春山くんの告白を受け入れるべきだったのかな……?」

「!……そ、れは……えっと……」

 美智恵はぎょっとした後、うろたえていた。

「それは、しなくて、良かったんじゃないかな……」

 美智恵は必死に言葉を選別して、少しずつ搾り出していった。

「そうかな……」

「そうだよ。もし受け入れてても、あの頃の私じゃそんなこと絶対に許せなかったはずだから……」

「許せないって、私を?」

「違う違う違う違う違う!春山を!」

 美智恵は焦ったような素振りで、大袈裟に言い直す。

「それに香織、春山のこと好きじゃなかったでしょ?」

「……うん」

 香織は少しぶすっとした表情で吐き捨てる。その不機嫌さは美智恵でなければ見逃してしまう程に、わずかしか現れなかった。

「意地悪な言い方してごめんね。でも、好きでもないのに付き合うなんてやっぱりおかしいよ。春山じゃ……」

 出かけた言葉を、美智恵は飲み込んだ。これ以上のことを口に出す資格など自分には無いと判断したのだった。

「……結局、こうなっちゃったのかな……?」

 美智恵が言いよどんだのを察して、香織の方から話を続ける。

「多分ね。私が変わらなきゃ、何も変わらなかったんだと思う」

「そっか……」

 二人の話はここで途切れ、両者の間には再び沈黙が訪れる。今度は二人とも話を切り出せなかった。話したい、話すべき事はまだまだあるはずなのに、言葉として出て来そうになかった。そして、そうこうしているうちに、普段別れている交差点まで来てしまった。

「じゃあね、みっちゃん」

 香織はそう言って、美智恵の家路とは別方向の横断歩道を歩いていく。

「……香織!」

 美智恵は少し離れた香織にも聞こえるような声で呼び止める。香織はそれに応えて、横断歩道の真ん中で振り返る。

「……香織、またね」

「うん、またね」

 もっと他にかけるべき言葉があったはずなのだが、美智恵の口からは二言しか出てこなかった。香織はまた前を向き直り、点滅し始めた信号に気付いて小走りになる。美智恵はその後ろ姿が見えなくなるまで、交差点で立ち尽くしていた。香織の後ろ姿は、途中で何か思い出したかのように歩みを遅らせたが、立ち止まらず、振り返らずに美智恵の視界から消えていった。

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