第五章2  『聖拳の異端審問官ベルナール・ギー②』

 カグラの意識は朦朧ともうろうとしている。

 自分のアイデンティティーを保つ事ができない。

 空中に浮いたようにふわふわとした気持ち。


 大切にしていた全てがデタラメのインチキだと

 もはや、カグラはしてしまった。


 いや、元より……カグラの中で、ベルナール・ギーが

 言うような考えが全くなかった訳では無い。


 ――違う、カグラも薄々は、気づいていた。


 その現実に目を瞑りつぶり見えない振りをしてきた。

 そのたまりにたまった逃避の付けを今、全額請求されている。


 ――それでも、カグラは立ち上がる。


 自分の全てが虚構にまみれた、

 贋物がんぶつだと理解して、なお立ち上がる。


 ――何故ならなぜなら


「……それがお前を、今ここで――見逃す理由にはならねぇ」


 ――神楽流、水浸の型――空木うつぎ


 カグラは目の前の男に向けて、空木うつぎを繰り出す。

 ……その技をまるでくだらないとばかりに、

 ベルナール・ギーはカグラのその技を、

 ノーガードで受けきる。

 

 掌底は確実にベルナール・ギーの腹部を

 打ち抜いているが手応えは――ない。


 白い革の装丁の本のページをめくる。


 そして、目的のページを見つけ……ケタケタと

 笑いながら、そのページに書かれている文を


「ぷっくっく。神楽流、水浸の型――空木うつぎ。いやあ、笑っちゃいますよ。人間を構成する物質の70%は水分だから、その水に衝撃を伝わらせることによって体を内部から破壊するよろい通しの技。アホくさい。よろい通しも、かぶと割りも、全部デタラメ……人間には実現不可能だって知りませんでしたぁ? ぷっくっく。あなたの曾祖父さんひいじいさん、漫画の読み過ぎだったんじゃないですかねぇ? 太古の昔より脈々と受け継がれる愚かしさと、妄想癖が神楽の血脈の正体。全て妄想捏造もうそうねつぞうインチキゴミカス神楽流の正体っ!」


 カグラは、もうこの男の言葉に何も――答えない。


 下らないと言われようがなんと言われようが、

 彼は、その流派の実存を信じ

 ……毎日、鍛錬を怠らなかった。


 ……その一途いちずな努力が、口先の言葉如きごときに否定できるはずなど――ない!


 カグラは、その場でステップを踏む。

 それは、まるでボクサーのフットワーク。


 ……確かに、儀式用の破邪の祭法には、

 こんな近代的な、足の運びはないだろ。

 だからこれは彼の言うとおりインチキ、デタラメ。


 ――だがその事実は殺傷力とは一切の因果関係は無い。


 カグラは、ボクシングのように地面の上で、

 華麗にステップを踏み、高速の左ジャブを繰り出す。


 ――ベルナール・ギーはこれを顎に食らう。


 ただの素早いジャブ……ベルナール・ギーは

 ほんの一瞬、ぐるりと目が反転……意識を失い、

 膝を地に付ける。


 ――神聖なる異端審問官が、膝を付かされた。

 その事実を理解し、怒りのあまり膝をついたままの体制で、

 カグラを睨みつけにらみつけようと顔を上げる。


 だが、それは、無手の殺し合いにおいてあまりに軽率な行動。

 まるで、自分の顔を蹴り上げてくださいと懇願しているようなものである。


 顎を上に上げたことで、カグラが蹴り上げるための

 最高の隙を作ってしまった。


 カグラは、まるでベルナール・ギーの

 顎をサッカーボールを蹴り上げるかのように、

 ただただ強烈に、下方から上方に蹴り上げた。


 ベルナール・ギーは、目の奥で火花が

 カチカチと光るのを感じた。


 顎を蹴り上げられ、訳も分からないままに、

 強制的にたちあがされた、ベルナール・ギーは

 なんとか体勢を立ち直そうと試みる。

 

 カグラはその立ち上がった、彼の右腕と襟元を

 優しく掴みつかみ、そして、

 

 ――一瞬の弛緩しかんの後に、背負い、地面に叩きつける。

 絶対に受け身が取れない角度での、人を殺すための背負い投げ。


 ベルナール・ギーは後頭部と背中を、

 地面にしたたかに打ち付ける。


 いや――。


 これが人を殺めるための背負い投げというので

 あれば、当然これで終わるはずが無い……。

 

 ベルナール・ギーは朦朧ともうろうとした意識の中で、

 自身の目の前だけ、局所的な暗がりができた事に気がついた。

 ……違う。それは――カグラの靴底が生み出した影。


 気づいた時にはもう襲い、顔を守りきることもできずに、

 ただ、カグラの靴底がベルナール・ギーの顔面を踏み潰す。

 確実に人を殺すための技術。

 

 ベルナール・ギーは、舌の中でコロコロと

 踊る物体が無数にあることに気づく

 ……それは、すべて彼の前歯だ。


 遅れて、呼吸が儘ならないままならない

 という事実に気がついた。鼻腔びこう骨折。


 彼の自慢の整った長鼻が、見るも無惨にへし折られていた。

 モノクルは砕かれ、破片が眼球に突き刺さっている。


 ――彼は確かに言っていた。


 神楽流は、戦後の治安の悪い時期に、

 武器を持たない貧しい人々が生き残るために

 生み出した護身の術だと。


 だが、それが何を意味するかまでの理解は及ばなかった。

 警察機構の機能しない戦後の荒廃した時期に作られた護身の技、

 則ちすなわち――合理的な殺人術。


 凶器をもった相手に、身を守り生き延びるためには、

 相手を殺す以外に道は無い。中途半端に生かしておけば、

 復讐ふくしゅうに来て、今度は自分が確実に殺される。


 ……だから、後顧の憂いを作らぬように、確実に、

 きっちりと殺しきるというのが、神楽流の開祖。

 つもり、カグラの曾祖父そうそふ辿り着いたどりついた真理。


 ――究極の護身とは則ちすなわち、殺人。


 殺人こそ、究極の抑止力であり――護身。

 そのような思想で生み出された流派が神楽流。


 つまり、毎日身体の鍛錬および、神楽流の演舞の

 鍛錬を怠らなかったカグラは、無手で人を殺すための

 合理的なケンカ殺法を磨いていたことになる。


 ――突如、カグラの足下で激しい閃光せんこう


 ベルナール・ギーがポケットから取り出した、

 スタングレネードがおびただしい光を放つ。


 ……生き延びるために手段を問わないのは、

 ベルナール・ギーも同様である。


 多くの人間をを心身ともに苦しめて殺し、

 自身は愉悦の中で幸せに長く生きる。


 それこそ生の充足、生の実感を得る方法。

 ――それこそが彼の生み出した哲学。


 ベルナール・ギーは、みっともなく

 地面を這いずりはいずり

 10メートルほどの距離を稼ぐことに成功した。


 カグラから可能な限り距離を取り、胸元をまさぐる。

 人間を……確実に殺せる、最も信頼に足る兵器。


 ――銃


 ベルナール・ギーは、真鍮しんちゅう

 の奢侈しゃしな拳銃を抜き――構える。


 10メートル……無手では埋める事が出来ない

 リーチではあるが、逆に拳銃を持つ者にとっては、

 外す事が難しいという絶妙な間合い。

 それはプライドの高い彼が、惨めに地を這いはい生み出した距離。


 片眼かためを失い、前歯全部を失い、

 鼻をへし折られても、まだ戦闘継続を

 求める彼は、通常ならざる者という事である。


「ひっひっひ。でめぇも、これでおべぇもおじまいよ。死ね……ガグラ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る