3

 僕は本当におかしくなってしまったのだろうか。咄嗟に浮かんだ考えはそれだった。


 その異形としか形容できないそいつは、口のような器官を大きく広げていた。その中から腐った生ゴミのような匂いと下水道の匂いがした。明らかに生き物が発してよい匂いではなかった。


 恐怖と嫌悪感に支配された僕の神経は、脳から発せられる今すぐ逃げろという信号をキャッチ出来ずにいた。


 よく見るとヌラヌラと光る体躯は、両生類を彷彿とさせた。しかしながら形状は明らかに僕が知っているどの生物とも合致せず、生き物というよりは化け物という言葉相応しかった。


 終わった。僕はそう思った。人生に終止符が打たれたように感じた。余命宣告なんかよりよっぽど残酷で、より絶望的で、そして確実な死が目の前にあった。


 何かに食べられて死ぬなんて、この現代に生きている人類の何%が体験できる出来事だろう。進化を遂げ、野生から脱却した人類が、数億年ぶりに何かに補食されて死ぬ記念日になるだろう。あぁ、全くもってつまらない。僕は結局そういう運命だったのだろうか。


 その異形と対峙したまま、僕は涙を流していた。嗚咽などそこにはなかった。あるのは頬を伝う涙だけだった。


 そいつはゆっくりとその悪臭漂う顎を振り下ろした。


 ガチンッッ!


 無機質で絶望的な金属音が鳴り響いた。


 ………しかし、僕は生きていた。


「正義の味方っていうのは、簡単に諦めないだろう?」


 そんな声が僕の耳に響いた。


 いつの間にか異形から数メートル下がった場所にいた僕は、餌を噛み砕けずに苛立ちを隠せないそいつをしっかりと認識することができた。


 明らかに境内に、いやこの世にいてはいけないそいつは、空振りして噛み合わせた顎をガチガチと鳴らし、再び僕を補食しようと飛びかかる。


 目で追えないスピードではないにしろ、圧倒的なそのスピードは僕を食い殺すには十分すぎるもの……のはずだった。


 その数メートルを一瞬で潰す脚力は、一人のによって食い止められていた。


 彼女は異形の上顎を掴み、軽々と食い止めていた。しかしよく見れば、上顎を掴んだその両手は牙に犯され、血を滲ませていた。


「手、手が!……」


 咄嗟の僕の反応に、彼女は声だけで答えた。


「人の心配をしている余裕があるのか。流石は正義の味方志望だな」


 クスクスと笑いながら、驚嘆を孕んだ声でそう言った。


 僕は尻餅をついたような情けない格好で、彼女を見つめた。


 そこにいたのは、明らかにあの日会った少女出会った。怖いほど美しく整った相貌に、華奢な体。あの日見た彼女そのものだった。


 しかし、違う点も幾つかあった。


 まず彼女の手足だ。まるで皮が向けてしまったように筋肉繊維が見えており、その四肢の色は人間のそれと違い赤く染まっている訳ではなく、黒ずんでいた。そして、特質すべきはその腕はまるで数百年生きた樹木のように、所々突起が見受けられた。


 そしてもうひとつは額に生える2対のであった。


 以前、彼女は異形と格闘を繰り広げていた。押し合いのような状態が続けられる。力は拮抗しているようであったが、彼女の表情には少なからずの余裕が窺えた。


 そして一瞬、ほんの瞬きの間、その拮抗は動きを見せる。


 その足と呼べるのかわからない器官を使い、力を込め始める異形。境内の地面はメリメリと捲れていた。それは明らかに力を込めている証拠であった。完全に方をつけに来ている。そう感じさせる気迫があった。


 彼女はその力に少し押されぎみになっていた。華奢な体躯がじわじわと後退していく。


 普通に考えればそこで終わるはずであろう。僕もそう思っていたし、きっと異形もそう感じたのだろう。人間とは明らかに駆け離れたその顔には、勝利の笑みのような下品な光沢があった。


 しかしながら彼女もまた、勝利を確信するような笑みを浮かべていたことに僕は気付いた。


 明らかに力負けし始めた彼女が次にとった行動は、だった。


 常人であれば、力を入れられればそれ以上の力ないしそれなりの抵抗力を見せ、抗おうとするはずである。しかしながら、彼女が選んだ選択肢は脱力であった。


 そして、そこからは正に刹那の出来事であった。


 勿論脱力をした彼女は後ろに吹き飛ばされると思いきや、そうではなく後方に投げ飛ばされたのは異形の方であった。彼女は脱力と同時に腕を縮込ませ、その相手の力を利用し、上顎を掴んだ両腕を支点として境内の石畳にそいつを叩きつけた。


 グシャッッ!


 壮絶な音と共に異形は石畳に落下する。そいつが落下した部分の石畳がめくれ上がっており、その衝撃の凄まじさを物語っていた。


 異形はぐえっ?! という情けない声を上げ、先ほどまで勝利を確信していた厭らしい光沢を含んだ顔面は、苦痛に歪んでいた。


 自身の体重と有り余る力、そして彼女のほんの少しの力が加わった投げ技は、凶器と化した石畳も相まって異形の体を襲った。


 圧巻であった。自身の倍はあるであろうそいつを、意図も簡単に叩き付けた少女は、一仕事終えたという面持ちのまま、悶え苦しむ異形にゆっくりと歩みを進めた。


「合気だよ、合気」


 彼女は相変わらず尻餅をついている情けない僕に、そんな言葉を投げ掛けながら異形の前に仁王立ちする。


「僕、夢見てる?」


 僕のそんな突拍子もない発言に、彼女は今度こそ目を丸くして、その数秒後にケタケタと笑い声を上げた。


「まぁ、夢かもめしれんなぁ」


 そしてこう続けた。


……」


 異形の前で膝をつき、彼女はのたうち回る異形を左手で押さえ付けた。そして残る右手を振りかざし、マウントを取った格闘家のように拳を振り下ろした。


 ブチャッ という生物を潰す特有の音が鳴り響く。


 右手が化け物の内部を、何か捜し物を探すかのように掻き回していた。彼女の右手がそいつの内部を蹂躙する度に、化け物は故障した玩具のように、痙攣を繰り返していた。右手が差し込まれている傷口からは人間と同様に、鮮血が絶え間なく溢れだしていた。また、臓物の破片とおぼしき肉片も溢れていた。叩きつけられた際に出来た裂傷からも、ドクドクと血液らしき液体が溢れだし、境内は殺害現場のような様相を呈していた。


「ウッ?! オウェェッ……」


「吐くな、吐くなー」


 吐き気と闘う僕に、彼女はへらへらと笑いながら、臓物を掻き回しながら、声をかけた。正に異常としか思えなかった。


「お?! あったあった」


 まるで失せ物が見つかった少女のように、血に濡れた頬を綻ばせる。ずるりと引き出された彼女の右手に握られていたものは、1つの臓器のようなものであった。臓物を引きずり出された異形は、大きく痙攣を起こし、それ以上動くことはなかった。


 引きずり出された臓器は、人のものとは明らかに異なっているものの、何処と無く人のそれを彷彿とさせる見た目をしていた。サイズは拳くらいで、色は鮮血まみれているため紅色に見えるが、血流が途切れている隙間から覗く表面は、滑りのある黒であった。


 そして、彼女はおもむろにそれを


 一口であった。お菓子を頬張る子供のように、彼女はそれを一口で口に詰め込んだ。餌を蓄えるリスのような様相を呈した。美少女といっても差し支えない彼女が、口をモゴモゴさせている様子は大変可愛らしいものであるものの、真相を知っているもの側からしたら、とてもそんな悠長な感想に浸ってはいられなかった。


 静まりかえった境内の中、もちゃもちゃという咀嚼音を響かせる血だらけの少女という光景は、何故かある種の神聖さすら感じた。


 咀嚼を終え、その物を飲み込んだ彼女は、尻餅をつく僕の前へとやって来てしゃがみこんだ。


 彼女は血だらけになってはいたものの、僕が先ほどまで見ていた角や樹木のような腕はなかった。そこにいたのは、ただただ血に濡れた美しい女の子であった。


「正義の味方になりたいんだろう?」


 彼女はそう言った。


「……」


「正義の味方ってのはそう甘くないぞ?」


 その言い方は夢を諦めさせる教師のように、子供を諭す親のように、柔らかで、慈悲に溢れ、そして残酷だった。


 彼女の指す正義の味方という定義が僕にはわからなかった。しかし、明らかに彼女は僕を救ってくれたヒーローでもあった。


 絶望からどんな形であれ、僕を救ってくれたのは紛れもない彼女であった。彼女は一度目は僕を肯定して救ってくれた。そして二度目は命まで救ってくれた。これが僕の目指す正義の味方と合致したように思えた。


 何をもって正義の味方となるのかは未だに分からずにいる僕だが、この時ばかりはこれが正義の味方なのかもしれないと思った。


 日常生活を送っていて正義の味方になれるチャンスはそう巡ってこない。警察官や自衛官といった職業が正義の味方に限りなく近い存在であることはわかっている。しかしながらそれが完全なる正義の使者かと言われれば違うと僕は断言できるであろう。僕の考える正義は何だと問い詰めたとき、それは悪から市民を守るヒーローだと答えるだろう。あの日テレビで見たヒーローのように、あの日テレビで見た英雄のように、何処の誰だからわからない不特定多数の市民を救うべく、人知れず命を懸ける。僕はそんなヒーローに憧れたのだ。


「…………る」


「なんだ? はっきり聞こえないぞ?」


 何よりも僕には時間がない。余命がない僕には、このチャンスに飛び付かないことの方がおかしい。それにどうせ余命がないのなら、そう考えたときには思考は決まっていた。


「正義の味方になりたい。僕は正義の味方になりたいんだ!」


「貴様が思っているような正義はないかもしれないぞ?」


「それでもいい。僕は誰かを救いたい」


 きっと僕は自分の発言に溺れていた。自分に酔っていただけだろう。


 彼女はにやりと顔を歪ませた。


「ようこそ。正義の味方へ」

























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