第9話

 松田さん宅を辞去して車を走らせ始めると河西さんが、

「私はもう職を退いた身なので、時間の自由はききますけれど、和瀬さんはそうはまいられないでしょ。せっかくですから、このままどなたかを訪ねてみませんこと」

 と提案してきた。急いで帰宅する用もなかったので承諾すると、

「手始めに福岡さんでも訪ねてみましょうか。和瀬さんも気心知れた方からのほうがやりやすいでしょうし」

 と重ねて提案してきた。さらに、私のこの役目への口説き文句にあった、これで最後の小説云々の一節は、その福岡さんからの助言であったと告げてきた。

「福岡さんには、いつまでたってもかなわないなぁ」

「いいコンビですわ」

「それを言うなら、長崎さんも含めてのトリオでしたけどね」

「あら。そうでしたわね」

 河西さんは明るく笑った。

 昼食にと、来るときに目にしていたコンビニでサンドイッチを買って、車を走らせながら食べた。

 車は、このままの陽気が続けば、来週末あたりに満開をむかえるのであろう桜並木の下を、山手に向かって快調に走り続けている。

 車に揺られながら、福岡さんと小倉さんにまつわる思い出に心を馳せた。そうしたのには、先ほど松田さんから、きちんと受け止めなければいけない事がらではないのかと言われたことも、大いに関係していた。


 二十二年前、同人誌に入会して三カ月目、初めて合評会に参加したときのことだ。

 暑い夏の日であった。

 自分の作品が同人誌に掲載されたのに、合評会に出ないのも失礼であろうという気持ちからの参加であった。

 合評会が終わると、河西さんの件の突然の申し入れのすぐ後に「よかったらお茶でもしていきませんか」と声をかけてきた人があった。それが福岡さんである。

 河西さんから離れるいい口実とばかりに、すぐに承諾して、福岡さんの後に続いた。

 会場近くの喫茶店にでも行くものかと思っていたら、さらに長崎さんを誘い、三人で車に乗り込み思いのほか遠くまで移動した。

 着いたのは『スワン』という小さな喫茶店であった。福岡さんの立ち居振る舞いから、馴染みの店であることはわかったけれど、なぜ馴染みになったのかが不思議なほど何の変哲もない店であった。

 一番奥のボックス席に着くと福岡さんは、

「ちゃんと認められて掲載されたんだから気にすることはないよ」

 私の顔を真っ直ぐに見つめてくる。

 福岡さんは、注文もしていないのに出てきたトマトジュースに、たっぷりとタバスコを入れ、ストローを使わず、じかにグラスに口をつけて飲んだ。

 福岡さんが、何を指してその言葉をかけてきたのか、合評会では私の作品に厳しい批評がいくつもついていたので、思い当たることが多すぎて特定できなかった。その思いが顔に出ていたものか、

「もしかして、世界征服の暗闘のこと、知らなかった?」

 頬杖をついて私と福岡さんを交互に眺めていた長崎さんが言った。これまた注文もしていないのに出てきたアイスミルクをちびちびと舐めている。

「世界征服? それって、どなたかのSF小説か何かの話ですか」

 私は、レモンスカッシュを注文したのだけれど、それはまだ運ばれていなかった。

「いや、まぁ。知らなかったのなら、その方がいい」

 福岡さんは私から視線を外し、テーブルの上にあった小さな陶器製の灰皿を手元に引き寄せた。

「今、知ってしまいました。このまま真実を知らないでは、ちょっとも前に進めません」

 福岡さんは引き寄せたばかりの灰皿をまた元の位置に戻し、長崎さんと目配せをし合ってから、

「和瀬君の作品の、今回の同人誌掲載には、裏でちょっとした事件があったんだよ」

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