第6話

「ずいぶん眠そうですわね」

 河西さんは、私よりも年長であるにもかかわらず、まだ枯れていない色気のある笑みを浮かべていた。

 着物を連想させる和の雰囲気があふれた服を着ている。

 会うのは十二年ぶりだというのに、時の隔たりをまったく感じさせなかった。

 店内は空間的に贅沢な造りであった。

 観葉植物やパテーションなどで、ボックス席の多くがまるで個室のそれででもあるかのように配置されている。

 フロアー一杯に香ばしいコーヒーの香りが漂っている。

 静かにクラシック音楽が流れ、客の入りもほぼ満席で、人気のほどがうかがえる。

「はぁ、まぁ」

 なんとも情けない返事しか出てこない。

 さっそく気おされてもいる。

 心配した通りの寝不足で頭の芯も痛む。目が覚めただけでも、めっけものという有様である。

 昨日のままの服装で、上下ともに黒のジャージだ。

「昨夜も書かれていたのですね」

 まっすぐにみつめてくる視線に惑う。こちらの視線が宙をさまよう。それをやっとのことで河西さんの顔に戻して、

「天邪鬼なもので、書かないほうがいいときに限って書いてしまうんです。そんなことだから、小説は一向にものになりません」

「ものになりませんか」

「ええ。なりません」

 運ばれてきたコーヒーをさっそく口に運ぶ。確かにうまい。

「正直になろうとなさらないからじゃありませんこと」

 河西さんはコーヒーには手をつけず、まっすぐにみつめる視線も外さない。

「正直になる、ですか」

 それに対する答えは返ってこない。

 河西さんは、手提げバックから同人誌を取り出し、私の前に置いた。最新号だった。

 来る同人誌の五十五周年記念事業として、ひとりの同人の作品を選んで出版し、書店に並べるという企画が出たとのことだ。

 その予備審査の選考委員の任を私に担ってもらえないかとの依頼であった。

 その同人誌は私と同い年だ。

 河西さんの話によると、私は、とっくに退会したものと思っていたのだが、どうやら休会扱いにしてもらっているらしい。

 過去に一度、半年の休会から復帰したことがある。

 そんな経歴からの処置であろう。

 今回は退会を申し出てからすでに十二年。在籍した期間を二年も超えてしまっている。

「もし受けていただけるお気持ちがおありなら、これから私と一緒に事務局に行ってもらえませんか」

「事務局というと、今はどなたが」

「松田さんですよ。ずっとがんばっておられます」

 この同人誌の事務局は、代々その役を受け持った個人の自宅をそれにあてている。松田さんは私が退会を申し込んだときの事務局であった。

 私が在籍中に、ある雑誌の文学新人賞を受賞していた。

 晴れれば田畑を耕し、雨になれば小説を書き、本を読む。持たざる者からすれば、うらやましい生き方に見えた。

「失礼ですが和瀬さんは、これで最後と思える小説を書こうとしておられるでしょ?」

 なぜそれを知っている。とっさにそう思った。それを持ち出されては、こちらの心は動かさざるを得ない。

 それほどまでに私の心に刺さってくる言葉であった。

 四年前に開頭手術を受けた。どの部位か執刀医に詳しくは訊かなかったけれど、いずれにしても脳の一部が切り取られた。

 そうなった私は、そもそもの私なのだろうか。

 その手術の後遺症で、左足が寒暖を感じなくなっている。風呂に入ると、てきめんに分かる。ただし寒暖を感じないというだけで触感も痛感もある。だから本当に一部分だけの欠落。

 けれども、だからこそ何かそこに、大げさだけど、神の啓示のようなものを感じてしまう。

「私も選考委員にと推され、荷が重すぎると悩みもしましたけれど、結局お引き受けすることにいたしました。和瀬さん、一緒にこのお仕事をやってみませんか。いえ、ぜひ一緒にやっていただきたいと思っております」

 河西さんはそれまで手をつけずにいたコーヒーを、やっと口に運んだ。

「河西さんが選考委員に選ばれたのはわかりますが、なぜ私なのですか。私なんかに資格があるとは思えないのですが」

「和瀬さんならば、公平な眼で見て、ふさわしい人を選んでくれるだろうと思われたからではないでしょうか」

「それは、かいかぶりというものです」

 同人誌の合評会に初めて参加したときのことを思い出して、苦いものが口の中に広がった。

 私はその同人誌への入り口からして、ある人物に恨まれての参加であった。

「和瀬さんがまさにお書きになろうとお思いになっている小説にも、きっとこのお仕事は役立つと思います。ご一緒していただけますよね」

 死は、漠然としたものでなく、かなり輪郭がはっきりとしてきている。ならば生あるうちにやれることをすべてやってしまいたい。

 それもまた、いいわけであろうか。

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