第3話

 私は、いつものように書斎の座椅子にたっぷりと背をあずけていた。

 ほんの一時間前まで気分の落ち込みがひどくて、うつけのように放心状態でうずくまっていることしかできなかった。それが今は、七割がたは浮上している。もう長い付き合いの持病。医師から処方されている薬を服用し続けることで、低空飛行なりに日常生活がおくれるようになっていることは本当にありがたい。


 長四畳。フローリングの書斎。子供の頃からずっと夢見てきたものだ。早期退職制度で辞めた会社からの退職金で、子供たちに個別の部屋を作ってやるのに合わせてリフォームで手に入れた。左と後ろの二面は天井まで書架。これまでに読んできた本でびっしりと埋まっている。窓は正面のやや高い位置にひとつだけ。そこには夜空が広がっていた。


「穴ぐらのイメージなんですよ」


 リフォーム会社の担当者は若い女性だった。私の注文に少し首を傾げたけれど、さすがはプロだ。私のイメージどおりの書斎に仕上げてくれた。早くもそれから十二年が経つ。


 布団を外した電気こたつを机代わりにしている。パソコンを乗せ、ディスプレーに向かって大きな座椅子を置いている。


 キーボードの横のはがきに目を向ける。宛名は和瀬道夫。宛名書きにちょっとした工夫が必要だが、それさえ守れば、私のところにそれでちゃんと郵便物は届く。それでも、その名を使って郵便物を送ってくる相手は多くない。


 『近々お会いすることはできませんか。』


 用件だけ簡潔に書いてある。普段は時候のあいさつやらなにやら、心こまやかな文章を書いてよこす相手であったから、逆にその文章の切実さが伝わってくる。本当に会いたいのだ。届いたのは三日前。これまでに二人きりで会ったことはない。


 少し腰が引けるものがある。著作を出版するたびに贈ってもらっている。すでに六冊。読んだら感想を書きます、という文面の礼状をその度に送ったのは覚えているが、約束は一度も果たしていない。


 相手は河西加奈子。同人誌で知り合った。二十二年前、初めて参加した合評会終わりに近づいてくると、いきなり「私と寝てみませんか」と言って微笑んだ相手だ。私はあっけにとられ、その顔をまじまじとみつめ「いつか機会がありましたら」と、まぬけな返事をしたはずだ。


 いくらかの躊躇はあったものの、そのはがきを無視することもできず、昼間、仕事の合間にできた空き時間に電話をかけてみた。明日の日曜日、午前九時に、コーヒーの味が評判の喫茶店で会うことになった。用件はそのときにと、何も教えてもらえなかった。

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