春と冬の境目は形無きものに気付く季節。

桜居 あいいろ

第1話 

 その扉を開けた時、僕の姿は消えるのです。

 白く儚い湯気のように、僕の姿は消えるのです。


 扉の先には雑踏があって、たかが木の板一枚でも僕には重く感じる。多少眠い目を床に向けて扉を開く。

 体より先に入った腕から先が霧のように消えていく。

 うっすらと灯油のにおいが立ち込めた教室に入ると、僕のメガネが軽く曇った。

 数人が僕に目を合わせるけど何も言わない。

 僕は笑顔で「おはよう」と言って教室の隅で話している自分のグループの輪に飛び込む。

 窓際は少し寒い。外と中の寒暖差のせいで窓は結露していた。

 僕はみんなの前ではいつも笑顔を絶やさない。笑顔の仮面でいつも自分を守っている。でも、特別絶やす必要もないくらい人前では楽しく日々を過ごしている。

 けど時々、ちょっとしたことが、僕が独りになったときに身体を乗っ取る。

 話の中でまれに感じる疎外感。僕がまるで存在しないかのように進められていく時間。体育のサッカーでパスをもらえずに、僕以外でゲームが進められていく。そんな感じ。

 僕は時々相手に見えていないんだと思う。そんな時、どんな顔をして彼らの話を聞いていればよいのだろう。どんな反応をすればよいのだろう。いっそ無視してくれた方が楽なのに、そんなことさえ考えたこともある。

 時々僕は苦しくなって、用事だ、と言ってその空間から出る。彼らは笑顔で「行ってらっしゃい」と声をかける。彼らは僕がいないとき、何を話し、どんな時間を過ごすのだろうか。その笑顔はどういう意味なのだろうか。


 今朝は学校についた記憶がない。考え事をしていると、よくあることだから、特に気にしなかった。窓の外を眺める。空は灰色で、お世辞にも良い天気とは言えない。

 今日も僕は空間を去った。いつもと同じように笑顔で手を振られた。僕も取って付けたように振り返す。

 まだ始業まで時間があったから、中庭のベンチへ向かった。マフラーを持ってきてよかった。教室で温まったはずの身体は、もう冷え始めてきた。

 昨日雨が降ったからか僕が腰かけたベンチは、少し水を含んでいた。曇り空と湿った空気が僕の体を包み込む。

 僕は目の前の自販機で缶コーヒーを買った。スロットが7778と指した。期待した僕をあざ笑うかのように赤い表示がプツリと消えた。

 少しイラついた。

 彼らも自販機もきっと悪くない。すべては僕の考え方のせいだ。そうして僕はいつも自己嫌悪に陥る。

 僕がいるグループには何かと目立つ奴が多い。スポーツ万能な奴、勉強ができる奴、コミュ力が高い奴、面白くて先生に気に入られている奴。

 彼らは一目置かれる。だから僕は羨望してしまう。彼らと僕が一緒にいると、美しいコントラストになって他人の目には映るのだろう。人間性の見せしめだ。

 でも、しょうがない。グループを抜けたら僕は一人だ。一人は嫌だ、と感じてしまう僕がいる。

 僕は彼らの努力や懸命に生きる姿にも嫉妬してしまう。彼らが何かに夢中になっているほど、中途半端な努力しかできない僕に嫌気がさして、体がむず痒くなる。僕がかつて吹奏楽部員だった時、「笑ってこらえて!」が見れなかったように。

 僕は誰かの努力にまで嫉妬してしまうようになっていた。一生懸命に何かに取り組む姿を見ると、僕がとてつもなく小さく、とてつもなく空虚に感じてしまうのだ。

 でも、何度も言うけど、これはしょうがないことだ。ここでは目立つやつ、上手いやつが正義だ。

 僕は空虚という感情は好きではない。僕の時間を無駄遣いしているように感じるのに、何もする気が起こらないという葛藤を強いられるからだ。

 年末に感じる今年への名残惜しさは特に堪える。大晦日だけ感じているその空虚さを一日一日に対しては無かった名残惜しさと比べて、一日ずつを無駄にした感情が襲ってくる。

 そんなことを考えながら、僕は空を見上げて長く息を吐く。白い煙が僕の目の前で消えていく。

 何分経っただろうか。指先が少し冷えてきた。

 僕はさっき買った缶コーヒーのタブに手をかけた。缶特有の音が中庭に響き、僕の鼓膜を震わす。

 缶コーヒーを開けると白く長い湯気が上がった。そして僕の前に四角い物体を形成し始めた。僕は不思議に思って、それをじっと見つめる。それはスクリーンとなり、何かの影を映し始めた。

 初めは全体が白く曇っていて輪郭がぼやけていたが、少しずつはっきりとし、ほんのり色づき始めた。

 僕の真横にうっすらと映ったのは同い年くらいの女の子だった。赤いチェックのマフラーを巻き、見ているこちらが寒くなるほど短く折ったスカートと短い紺色の靴下をはいていた。

 「もう、開けるの遅いよ。待ちくたびれちゃったんだから。」

 彼女は不平不満を口にしながら冷えて赤くなった指先に息を吹きかけた。その息は美しく僕らの空間に溶け込むように消えた。

 湯気越しに彼女は見える。しかし実際に中庭にいるのは僕だけだ。

 僕はぼんやりした脳内で始業のチャイムを聞いた。

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