第19話

 =====


 数日後にあの女性が窓口に現れた時、万全の自信があったわけではない。しかし、前回とは違う結果を出そうと心に期するものがあった。

 まず、望月さんに退席をお願いした。一緒に居てもどのみち役には立たないし、むしろ僕がやろうとしていることの邪魔になる。僕がこれまで連続して問題が発生した相手であることを告げると、彼女はあっさりと退席を承諾してくれた。


「先日は失礼しました」

 女性に対し僕は深々と頭を下げる。我ながらごく自然に出来たと思う。

 戦前世代の人間は、公務員という者に対して軽い蔑視感情を持っている例が多いらしい。その理由と言えば、当時は人間が生産を行い、そこから徴収した税が公務員の活動原資となっていたからだそうだ。僕としても、生産を行う側の立場が上という意識は素朴な感情として理解できる。

 勿論、税というものが存在しない現代社会においては少々時代錯誤な感性ではあるのだが、それを言い出しても仕方がない。接遇においては相手の好みに合わせるのが原則だ。


 彼女の世代に対しては割と効果が高い態度だったはずだが、それだけで簡単に軟化するような相手では無かった。女性は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「あらあら。どこで練習をしてきたのかしら」

 皮肉な口調に動じず、僕はもう一度一礼した。

「にわか仕込みの態度に意味は無いわよ。それより私に対する提案は、きちんと準備をしているのかしら」

「はい。準備してあります」

 そう言って僕は資料を呼び出した。

「今回はサンプルを増やしてみました。その中から絞り込むやり方を提案します」

 ずらりと花の映像を並べる。

「そのため、ご希望の花を幾つか選んで頂けませんでしょうか。よりイメージに近い物件をご提示出来ると思いますので」


 選択させることで嗜好に関する追加情報を得る。同時に、女性自身を選択に関わらせることで提案を拒否しづらくするという古典的な交渉テクニック。だが、女性はちらりと画面を見ただけで吐き捨てた。

「どれも気に入らないわね」

 冷たい一言。以前ならそれだけで心が折れただろう。しかし、僕は踏みとどまって冷静を装う。

「失礼しました。では、こちらをご覧ください」

 僕は新たにイメージ映像を呼び出した。

「これから流れる映像のうち、一番、ご自身にとって心地良いと思われるものを選んで頂けませんでしょうか。あるいは、選択が難しいようでしたら眺めて頂ければ結構です。こちらで計測いたしますから」


 女性の表情に怒気が走る。

「止めなさい」

 僕は直ぐに映像を止めた。

「失礼しました。お気に召しませんでしたか」

「一体、いつ私が心理計測に同意したの?」

「ご不快でしたら申し訳ありません。ですがご安心ください。まだ計測は開始しておりませんので」

 ただし、と僕は付け加えた。あくまでも、丁寧な口調で。

「この窓口では、業務上必要な範囲での計測及び記録保全が認められております。その点はご容赦ください」


 動じない僕の様子に、女性は不審の念を抱いたようだった。それに気付かぬ振りをして、僕は用意した次の資料を映し出す。正直、僕はそこまで神経が太くない。にこやかな笑みを浮かべようと努力したが、僅かに表情が硬くなる。それを見た女性が少し考え込んだ。


「では、次のご説明ですが」

「待ちなさい」

 女性は僕の発言を遮った。僕は口をつぐみ、姿勢を正して次の言葉を待つ。

 暫し考え込んだ後、女性は平板な声で呟いた。

「私は本物が好きなの。手で触れた時の感触。そばに立った時の空気」

 彼女はそこで一度言葉を切る。

「あなたが私の担当として相応しいか知るために、聞いておきたいわ。あなた自身は、それに触れたことがあるかしら? もしあったのならその時、どんな風に感じたか言ってみなさい」

 一呼吸を置いてから、僕はその問いかけに答える。

「先日、限界区域の中で経験しました。ですが、イメージとはかなり違っていましたね。地面は泥だらけで変な匂いがするし、不愉快な羽音の虫が一杯寄ってきたり。ええ、自然の中にある花畑はVRとは別物なんだと感じました」

 沈黙する女性に対し、僕は会心の笑みを向けて見せる。

「気は済みましたか?」

 女性は、腹立たしげに眉根を寄る。

「わざとやったのね」

「ええ。申し訳ありませんが、確認をしたかったので」


 視界の端に写るエラー表示。AIが発言内容の再確認を求めている。

 先ほど彼女が行った話し方は、典型的なチューリングテストのそれだった。相手がAIであることを見破るための会話法。

 AIは主語及び目的語を省略した会話の理解能力が極端に低い。あの会話から、彼女が花のことを語っているという結論を導き出すのは困難なのだ。

 同様に言葉の同義性を把握する能力にも難があるAIは、「花」という質問に対して「花畑」という言葉で回答をしない。会話の範疇を拡大解釈し、土の匂いや虫について語ることもない。勿論、テンプレート的なやり取りを別として、だが。


「AI流はお嫌いですか」

 僕がやったのは、AIによる対応の真似事だった。

 素人の演劇レベルとは言え、これでも頑張ったのだ。事前に女性との問答を想定してシミュレーションを繰り返した。

「とは言え、お気持ちは分かります。結構、鬱陶しいものですね」

 試してみて分かったのは、AIが話の流れ、そして相手の気分を完全に無視する傾向だった。否定的な言動を返されても、単に目先の話題を変えて交渉を先に進ませようとする。どこまで拒否しても平然と次の提案を繰り出す様は、なかなかに気持ちが悪い。


「AIは限界のある道具よ。「すみません」の一言を付け加えるぐらいのことは出来るけれど、それは成功率が高い会話パターンを模倣しているだけ。申し訳ないという感情を持っているわけではないから、連続して拒否を続けるような極端な場面では欠点が浮き彫りになるわ。まるで精神病患者のように、こちらの事情を無視して自己流の解決を押し付けようとする」

 女性は嫌味な口調で付け加えた。

「もっとも、AIでなくても似たような反応が返ってくることはあるわね」

 僕は失礼にならない程度の笑みを浮かべ、頭を下げた。

 もう腹は立たない。ようやく本題に入ることが出来るのだから。


「自分で考えろ。ずっと、そう言っていたんですね」

 女性の沈黙は、肯定を表していた。

「従来の受付記録を確認しました。そういった視点で見れば直ぐに分かります。今まではレーティングとAIの指示ばかり注意していたので気づけませんでしたが」

 女性は繰り返し言っていた。僕自身が考えたのか、と。

 自分で考えずAIの提案をそのまま読み上げているだけだと指摘していたのだ。

 それに気づけたのは、あの老人のお陰かも知れない。他者に対する興味。相手が何者であるのか、知ろうとすることが重要だと。


「驚いたわ。少しは知性があるみたいね」

 女性の毒舌に僕は苦笑する。

「こちらこそ驚いています。通常、そういった傾向はレーティングに残ってしまうものですけど、痕跡がまるで無い」

 僕は自分の推測を口にする。

「判定が動かないよう、日常生活の行動で数値を調整していたということですか」

「どんな風にカウントされるのかを知っていれば難しいことではないわ。会話におけるレーティングの動きは所詮、観測結果の足し算と引き算よ。極端に言えば、使用される単語の頻度をカウントしているだけ」


 いや、それだって難しいだろうと僕は思う。レーティングシステムに対して欺瞞行動をとろうとする人は多い。しかし、そのために日々の言動を制御し続けるには並大抵でない精神力が必要で、誤差レベル以上の影響を及ぼせないのが普通だ。ここまで綺麗に数字をコントロールできた例を僕は知らない。


「ご要望については、なんとか対応したいと思っています。しかし、一つ教えて頂けませんでしょうか?」

 実のところ、ここから先にはちょっと問題があった。僕は標準の業務手順から逸脱しつつある。覚悟はしていたが、最後の一歩を踏み出すには勇気が必要だ。

 僕は呼吸を整えてから、用意していた質問を投げかける。

「何故なんです? ご自身もプログラマーなのに」

 女性は何も答えない。

「僕はVR音楽の愛用者です。あの分野は、あなたが生み出したと聞いています」

 返答が無いままに僕は続ける。

「そして、その知見はレーティングシステムの開発にも大きく生かされた。あなたは、レーティングシステムの創始者、その一人と言ってもいい」


 女性は顔を顰めた。

「なのに何故、AIを嫌うのでしょうか。それとも、僕の見方が間違っていますか?」

 彼女は、右手を挙げて僕を制した。

「こちらからも、幾つか質問があるわ」

「なんでしょうか」

「まず一つ目。個人履歴の検索には許可が必要なはずだけれど、それは取ったのかしら?」

「あなたの名前はプログラムの開発史に載っています。公的資料からの一般検索で十分でした」

「そう。じゃあ二つ目よ。その質問に答える必要があるのかしら。あなたの個人的な興味を満足させるために」

「そうですね。個人的に興味が無いとは言いませんが」

 僕は大真面目な表情で、彼女に視線を合わせる。

「今回の相談では、あなたの要望を州が把握しきれていないところに問題があります。その解決を図るための提案ですね。ひょっとしたら、プライベートな部分を知ることで何か解決のヒントが得られるかも知れませんし」

 女性は厳しい視線で僕を睨んだ。

「あなたは、あくまでもこれが業務の一環だと言い張るのね」

「ええ。来庁者の相談を多角的な視点から解決しようとするのは、別におかしなことではありません。ですが―――」


 僕は初めて、話の主導権を握ることに成功した。

「良かったら、少し話相手になって頂けないでしょうか。僕の興味を満たすための雑談として。記録を取らずに」

 女性の顔に広がる驚きの表情。

「雑談?」

「ええ。休暇を取りますので」

 僕は自分がそんな提案の出来るタイプだとは思っていなかった。しかし、やってみると案外あっさり言い出せるものだ。良し悪しは別として、指導担当が行った教育の賜物だろう。

「そんなことが出来るの?」

 心の中に残る躊躇いを僕は振り捨てる。どうせ無茶苦茶をしているのだ。開き直った方が早い。

「出来れば、そちらからの要望という形にしてもらえると有り難いです」

 僕は笑顔で付け加えた。

「自己都合でも出来そうなんですが、それだと僕の評価値に悪影響があるので」

 十数秒の後、女性はゆっくりと口を開いた。

「見かけに似合わず、厚かましいのね」

 僕に皮肉な笑みを向ける。

「いいわ。その代り私の要望にはきちんとあなたが対処すること。それが条件よ」

「約束します」

 そう言って僕は手順を説明した。老人の時と同じ手。これから行われる会話は、プライベートなそれとして扱われる。


 僕の申請記録を確認してから、女性は話を再開した。

「あなたはさっき私をレーティングシステムの創始者。その一人だと言ったわね」

「ええ、記録でもそう表現されています」

「とんでもない誤解ね。そもそもあなた、レーティングシステムをどんなものだと思っているの?」

 改めてそう言われると明快な定義を示すのは難しかった。

「あらゆる分野について、科学的な手法で評価を下すためのシステム、ですよね」

「あれは、史上最大の人類活動のアーカイブよ。ありとあらゆる人間の行動を記録する。収集したデータを分析することで様々な活用が可能となるけれど、それは二次的な要素でしかないわ。本質的には、膨大し続ける巨大な記録の塊」

 彼女は詩を唄うように言った。

「それは幾つかの要因が組み合わさって生まれたわ。戦前に吹き荒れた不合理で独善的過ぎた物事の評価に対する反省。エネルギー不足への対応。人間の物理的移動の必要性を低減させると共に、単なる快楽のために貴重な資源を浪費しないためのVRシステムの開発。発展するAIにより人間の活動を代替させることで、より効率的な社会維持システムを構築することの必要性。社会を変革させるために作られた、複合的な要素の集合体でもあるわ。私が関わったのは、源流のほんの一部だけ。とても創始者なんて名乗ることはできないわ」

「ですが、大きな功績があったと」

 彼女の眼が細まる。

「はっきり言ってしまえば不愉快なのよ。だからその呼び方はしないで欲しいわ」

 分かりましたと頭を下げながら、僕は気を引き締める。

「私の研究、その中心はVR音楽だった。あなたはあれが好きだと言ったわね」

「はい」

「じゃあ、VR音楽がどんなものなのか言ってみなさい」

「個人的な理解、でよろしいですか?」

「それで十分よ」


 完全にテストを受ける側に落とされてしまった僕は、それでも検索機能に頼らず、自分の記憶で答えを探す。

「精神は、映像や音楽から大きな影響を受けます。ただし、その受け方は個人によって、更には聴く瞬間の様々な状況で大きく違ってくる。聴き手の精神状態を分析してから映像と音楽を流し、その変化をモニタリング。提供する内容を適宜修正しつつ、望む精神状態に誘導するのがVR音楽の特徴です。重要なのは全般的な傾向と対象者の個性のすり合わせで、その調整に関する理論が、あなたのプログラムの革新的な部分だと聞いています」

 一瞬の沈黙の後、女性はせせら笑いを浮かべた。

「それは宣伝文句ね。実際には、精神の分析なんていう芸当は出来ないわ」

 人差し指でコツコツと自らの側頭部を叩いて見せる。

「我々は「精神とは何か」という問いに対する答えをまだ持っていないわ。実際に計測出来るのは脳の活動部位とホルモンの分泌状況だけ。だから観測をしながら、脳内麻薬を引き出しやすい音響と光の点滅パターンを使って脳内状況を変化させてみるの」

「結果として同じことなのではないですか? 気分を変化させるには、なんらかの物質的な媒介が必要ですし」

「方向性も何もなく、ただ変化させているだけなのよ。けれどストレスを感じている脳は、穏やかな変化を与えると自分でバランスを回復し始める可能性が高い。そして、それを勝手に心地良いと感じていくの。聴いている曲はほぼ無関係。あれは音響パターンを紛れ込ませるだけのダミーよ」


 女性は驚く僕の表情を十分に楽しんだ。

「全ては錯覚なのよ。ほとんど無意味な、過去作品のアレンジでしかない音楽を流しているだけなのに、気分が変化したという事実がそれを世界最高の演奏であるように感じさせる」

 ショックが無かったと言えば嘘になる。僕はこれまで、幾度となくVR音楽を聴いてきた。その実感と、女性の語る言葉には大きな落差があった。

「戦後、人類が消費可能な資源は激減したわ。いっそのこと、そのまま争いを続けて人口を減らし続けた方が良いとまで言われたぐらいに。でも、誰も黙って殺されてくれない状況ではそれも出来なかった。各国の政府は、自国の人間を中長期的に安楽死する方法を考え出す必要に迫られたのよ」


 現在の世界人口は三十八億人。今後三十年以内に、これを更に半数にすることが求められている。化石エネルギーを消費することなく、かつ、人類全体に十分な福祉・保健体制を供給するには、それが限界とされているからだ。


「生産性の向上。そして何よりも人間の欲望を制御すること。無限に増大する人間の欲望を全て満たすには、この星の力では足りない」」

 女性の声が静かに熱を帯びる。昏い炎のように。

「だけど単に欲望を押さえつけても意味はない。それは歴史が証明しているわ。結局は争いが起きるだけ。何かを与えて昇華させなければいけない。その点、無限にコピーできるデジタルデータは、資源を無意味に消費することなく人々に満足を与えることが出来る理想的な媒体だった。当時AIと並んで、VR技術の開発は非常に重要視されていたわ。ただの娯楽でなく、人類が生き延びるための手段として」


 彼女の顔が苦々し気に歪んだ。

「私はレーティングシステム本体の開発には関わっていないわ。行っていたのは、人間社会を変質させる技術の追求」

 その言葉は、どこか禍々しい響きを帯びていた。

「どういう意味でしょうか」

 僕の質問に対し、女性は直接の回答をしてくれなかった。

「戦前ではね、レーティングシステムや、現代のようなAIの活用は原理的に不可能と言われていたのよ。なぜだかわかるかしら」

「性能……容量や、処理速度の問題でしょうか」

 女性は首を横に振る。

「そんな技術的な問題は、いずれ克服可能だと分かっていたわ。問題にされたのは、情報量の不足よ」

 情報量?

「それこそ技術的な問題ではないのでしょうか。なぜ原理的に不可能という話になるんですか」

 女性の口元が笑みの形に広がる。

「当時の人間は、ネットワーク回線の外で生活をしていたのよ。だから収集できる情報量に限界があった。人間の生活の断片しか見ることの出来ないAIは、発揮できる能力も限定的でしかないと言われていたの」

 予想外の答えに、思わず声を上げそうになる。

「AIは未だに言葉の意味を理解できない。理解できないのに実用的な会話能力を持つのは、人間の会話を真似するだけの十分なサンプルがあるから。人間の会話の過半数がVR世界の中で行われているからこそ、その能力を維持できているのよ」


 現代では、人間の活動時間の六割以上がVR空間の中で行われている。動作も、会話の内容も全て記録可能な世界の中で。

「だからこそ私の研究は重要視された。人間をVR世界に閉じ込めること。それがこのシステムの前提だったから。人の脳をどうやって気持ちよく誤解させるか。音楽分野で先鞭をつけた、快適化のための様々な技術。それが最初の扉を開けるためのキーだったのよ」

 笑いと共に、呪詛にも似た言葉が吐き出される。

「VRの要点はデフォルメ。心地よい部分を強調し、不快な部分を削り取る。同時に人間が主要に感じる要素を重点的に、より精緻に設定するの。それは本物ではないけれど、脳を興奮させる効果という点では本物以上よ。塩分と脂肪分過多の食材が、何よりも人の食欲を刺激するように」


 酔ったような高揚と共に彼女は何かを嘲笑った。

「より効果的だったのは、そこでは全てを数字に変換して把握できるようにしたことよ。現実世界では曖昧で複雑過ぎる物事の数々を、平均値や標準偏差を使ってそれらしい数に変えて与えた」

 僕の心の奥底に、じわりと恐怖が湧いた。

 数字を、与えた?

「人間は自分が何かを理解できないという事実を許せない。進化の中で生まれたバグね。だから理解不可能な現実よりも、理解できる嘘の方を真実だと思い込む。その点において数字は恐ろしいほど優秀よ。どんな低脳でも数の大小さえ理解できる頭があれば、まるで自分が全てを理解しているような全能感を得ることが出来る」


 正常な狂気。彼女から感じたのはそんな空気だった。

「計測した数字を与えてもらえる世界。それは人間にとって一種の理想郷なの。その安逸を好んだ人々がVR世界で長期間過ごすように仕向けて、その行動を計測してそれをまた数字に置き換えていく」

 まるで異質な神々のように超然とした視点で、女性は現代の社会を語った。

「私たちは成功したわ。でもそれは、野生生物を檻に入れて観察するのに似ている。観測対象を変質させて得た記録。そこから生み出された数字に何の意味があるのかしら」


「ですが、それでも効果はあります。VRだけじゃない。現実世界における様々な分野にだって、レーティングは有効に機能しているじゃありませんか」

 僕の反論を、女性は鼻で笑う。

「それなりに苦労して構築したシステムだもの。一定の有用性はあるわ。それでも平均値に意味は無く、過去の正解は未来に適用できないという事実は変わらない。あれが有効に見えるのは、むしろ自己暗示の産物なのよ」

 暗示。僕にはそうとは思えなかった。しかし、ほんの数分前と同じように。彼女は残酷にその言葉を僕に突きつける。

「すべては錯覚なのよ。貨幣経済の中で見つけられた発見。人間は権威と共に特定の数字を提示されると、それを正しいと信じ込む。私たちは世界を正しく数字に変換したのではないわ。受け入れられそうな数字を勝手に設定して、それを世界に割り振っただけ」

 限りない悪意を秘めた瞳。

「正しいと権威づけた数字を提示され、周囲もそれを正しいと認める。そうするとね、人間はそれを信じ込んでいくの。あとはその人が何か行動を起こしたとき、「成功」を「数字」として与えてあげれば完璧。数字が増えていくという、安易に得られる達成感。結局は承認欲求と自己正当化を満たすことが重要で、信仰を得るには何よりも確実なのよ」


「そんな、それではまるで―――」

 それは思考のショートカット。

 真実を探し出す努力を放棄して、簡単な「正解」を与えていく行為だ。

「あなたは、新たな宗教を造ったのだと?」

 彼女は微笑んだ。僕に与える恐怖はそのままで。

「そうよ。私たちは新たな神を生み出したの。レーティングシステム。祝福された数字を与える超越者。そうね。残念なのは従来と同様に、これも紛い物でしかないことかしら」

 僕は思わず叫んだ。

「紛い物だと言うなら、なぜそんなものを造ったんですか!」


 その問いかけこそ、彼女が求めていたものだった。

「必要だったからよ。人間には新たに信じる「正しさ」が必要だった。無軌道な消費を抑制するために、VR世界の中に人間を閉じ込める必要があった。生産を効率化し、社会を維持・管理するコストを低減するために、AIが有効な世界を構築する必要があった」

 そこにあるのは微塵も揺るがない信念。あるいは信仰。

「後悔はあるわ。だけど、もう一度過去に戻れるとしても、私は同じ道を選ぶでしょうね」

「意味が分かりません。だとしたらなぜあなたは、そんなにも」

 そう、この世界を憎んでいるのか。自らが生み出した世界を。

「私達は全力を尽くしたわ。やれるだけの努力をした。それでも、出来上がったものの下らなさに愕然としたのよ。この程度が人類の限界だなんて」


 そして彼女は、唐突に話題を変えた。

「シンギュラリティという言葉を知っているかしら?」

 彼女の経歴を残した記録の中で、僕はその言葉を見ていた。

「本来の意味は特異点。ですがあなたが指しているのは、古い用法でしょう。AIが人間よりも高度な知能を獲得するという意味でしたか」

 AIは部分的には人間よりも遥かに高度な作業を行える。だが同時に、五歳の子供でも出来ることが、AIには不可能ということだってある。どちらが上であるという比較が無意味であるとして、使用されなくなった概念だ。

「それは、遠くない将来に訪れるわ」

 女性は静かに断言する。

「VRの世界、そのルールでなければ社会生活を行えない人間が増えている。その多くはAI以下の対人接触能力しか持っていない。例えば、そうね」

 女性は僕に視線を合わせる。心の奥底を覗き込むかのように。

「今の私の感情は、どんな数字で表現されているのかしら」


 無意識に視線が動き、その値をチェックしてしまった。

「本来、感情とはアナログなものです。いくつかのパラメーターの合計ではない。表示されている数字はあくまでも参考で、感情を完全に表現できているとは思いません」

「でも大まかには合っている。そう思っているのではなくて?」

 そう。確かにそうなのだ。窓口業務の実感として、この数字はほぼ正しい。大きくデフォルメされているがゆえに、対象の理解を簡単にさせてくれる。

「いずれ人間は、感情を数値でしか表現できなくなるでしょうね。愛情も、憎悪も。そういった一切合切を含めて」

「まさか」

 数字で表せるものと、そうでないものの差ぐらいは誰だって理解できる。僕はそう言いたかった。

「これは推測じゃないわ。証明された事実。実例は既にあるのよ」

 女性は憐れむような視線で僕を見た。

「物事の価値という要素だって本来はアナログで、数値で表現できるようなものではないわ。だけど人間は貨幣という概念を生み出して、それを数値化した。数字で無ければそれを理解出来ないほど退化してしまった個体も珍しくない。環境負荷ポイントの数字に換算しなければ物事の価値を理解できない人間なんて、山ほどいるでしょう? もう既に、証明された道のりなの」


 彼女は講義を締めくくるかのように、声を下げる。

「真のシンギュラリティは、もうすぐ訪れるわ。それはAIの進化ではなくて、人類の知性がAIのレベルにまで低下することで実現する」

 無限の確信を持って、彼女は語った。

「生活の主体をVR空間に移した人々は、その中で生きやすいように自分たちを変化させる。そして人間が唯一AIに対して持っている優位性、現実世界への対処能力も失っていく。そのとき知性は、巧妙な模倣と完全に同じ意味になるのでしょうね」


「人間にとって知性はかけがえのないものです。あなたが言うほど簡単に、失われていくようなものでしょうか」

 圧倒されつつ、辛うじて絞り出した反論を女性は軽く踏みつぶした。

「それはナイーブに過ぎる意見よ。これまでも、これからも。人間は不要と感じればどんなものでも捨て去っていく。何一つ例外は無いわ」

 ぱん、と軽く手が打ち鳴らされた。

「これが私たちの造り出した世界。まったく大した出来でしょ。それを認識させられるのは一種の拷問なのよ。だから私はレーティングシステムも、AIも、それを信じる無能共も虫唾が走るほどに嫌い」


 彼女は僕を正面から見つめた。

「長くなったけれど、これがあなたの質問への答えよ。雑談はここまで。ここから先は仕事として対応してもらえるかしら」

 意地悪そうな笑顔。心から愉しそうな。

「次はあなたが責任を果たす番よ」

 正直なところまるで自信は無かった。しかし同時に、僕は何かを掴んだような気にもなっていた。だから大真面目な表情で一礼をしたのだ。

「ご期待に沿えるよう、努力します」

「ええ。期待しているわ。あなたの知性を見せてくれることを」

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