第22話 ハンガーお預かり事件

 7月の下旬にさしかかって、学生はそろそろ夏休みになる頃になった。一年前までは、40日に渡る長期休暇前のこの時期が楽しみだったわけだけれど、勤めに出ると、何の関係も無くなるわけで、一年経っただけであるというのに、去年いた場所から、随分遠くまで来てしまったものだと思った。そうやって、感慨にふけった振りをして遊んでいたある日のこと、20代半ばの男性の引き取り客が来て、品物をお渡しすると、


「あの……これと一緒に預けたハンガーを返してもらいたいんですけど」


 と言い出した。わたしは思わず、隣にいた遠野さんと顔を見合わせた。彼の言っていることが分からなかったわけだけれど、どうやら、遠野さんも同じようだった。


「あの、当店で、お客様のハンガーをお預かりしたんですね?」


 遠野さんが確かめるように尋ねると、客は、戸惑った顔をした。向こうからしてみれば、当然に返してもらえると思っていたところ、その前段階を踏まれたのだから当たり前かもしれないが、とはいえ、戸惑いはこちらも同じである。


 というのも、店では、お客様の私物を預かるなどというサービスは行っていないからだ。それを盾にとって、わたしだったら、


「お客様の勘違いじゃないでしょうか」


 とまず言ってしまっただろうところを、遠野さんはさすがだった。


「お預けになったのは、こちらのお品ものと同じ日にちですね……とすると、二日前ですね。申し訳ありません、お客様、お預かりしたハンガーですが、今当店には保管されていないようです。何か手違いがあったのかもしれません。一両日中にご連絡差し上げますので、お時間をいただけないでしょうか」


 そう言って、客がぶつぶつ言おうとするのを遮るように、


「本当に申し訳ありませんっ」


 としっかりと頭を下げた。わたしもつられて下げるようにすると、女二人に頭を下げさせて傲然としている男という図を周囲の人から見られることに恐れをなしたのか、彼は、


「わ、分かりました。ご連絡、お待ちしてますから」


 そう言って、慌てて、クリーニング品とともに帰っていった。


「二日前ね」


 頭を上げた遠野さんは、


「その日に入ってたの、沢口さんじゃなかったっけ?」


 と続けた。シフトを確認すると、確かに沢口さんが入っている日だった。沢口さんは研修中なので、必ず指導役として誰か付くことになっており、もう一人は藤井さんだった。


「先に藤井さんに確かめてみるね」


 遠野さんはそう言った。これが彼女の偉いところだとわたしは思った。ミスが沢口さんのものである可能性が高いけれど、そうではない可能性もある。沢口さんのものと決めつけないための所作である。もしも、沢口さんと一緒に入っていたのが、藤井さんではなく店長だとしても、やはり店長に先に電話をしたことだろう。


 案の定、藤井さんは、そんなことはしていない旨、電話越しに答えたようである。


「お休みのところ、申し訳ありませんでした」


 遠野さんは電話を切った。そうして、沢口さんに電話をしたところ、しかし、沢口さんにも覚えがないようである。とすると、やはり、客が勘違いをしているということになるが、


「結論を出す前に、監視カメラの映像を確認してみるわ」


 遠野さんはそう言って、


「忙しくなったら手伝うから、カウンターお願い」


 奥に引っ込んだ。店には、トラブル防止のため、カウンターを見下ろせる位置にカメラがついていて、その映像は一定期間保管されるようになっている。二日前の、その客が来た時間を確認すれば、真実は明らかになるというわけだ。


 客足はそれほど速くはなく、遠野さんの作業の間、彼女を呼ぶ必要は無かった。遠野さんは、30分ほどして帰ってくると、


「やっぱり、沢口さんだったみたい」


 と言った。例の客が、クリーニング品とともに出したハンガーを受け取る際に、はっきりと、


「こちらでお預かりします」


 と言って、受け取っている映像が残っていた。


「忘れてたのかな、沢口さん」


 わたしが考えながら言うと、


「あるいは、自分のミスをごまかすために嘘をついたか」


 遠野さんがすぐに続けた。公正な彼女は、沢口さんに対して悪意を持たないわけだけれど、かといって、好意的な解釈もしないのだった。


「確かめてみるわ」


 遠野さんはそう言うと、もう一度、沢口さんに電話をかけた。監視カメラの映像の件を告げると、思い出したようで、どうやら、客のハンガーを、


「こちらで処分します」


 と言うべきところを、間違えて、お預かりします、と言ってしまったようである。しかも、そのハンガーは、その日のうちに捨ててしまったということだった。


「すごく薄汚れたものだったので」


 というのが沢口さんの談である。薄汚れていようがピカピカだろうが、とにかく、あちらの所有物をこちらが処分してしまったことは間違いない。


 とりあえずマネージャーに電話することにした。わたしとマネージャーの間にあった一件を知っているのだろう、遠野さんが「わたしが電話するよ」と気を遣ってくれたけれど、もともとわたしが受け付けた客なのに、遠野さんばかりに働かせていては申し訳が立たないので、今後の対応はわたしが担当させてもらうことにした。


 マネージャーとは、前回の一件であまり話したい気持ちではなかったが、とはいえ、自然と話したい気持ちになる時など無いわけだから、無理にも話すしかない。事の顛末てんまつを伝えると、マネージャーは、何も言わなかったが、深いため息をついて、


「同じようなハンガーを買って、そのお客様にお渡ししてくれないかな」


 とだけ答えた。


「もしも、直接渡しに来いとか言ったら、ぼくが行くから」


 それなら初めから直接渡しに行ってくれればいいのに、と思ったけれど、そんなことは言わなかった。わたしだって、少しは学習する。


 続いて客に電話すると、当然のことながら、不機嫌な声を返された。わたしが、失われたハンガーが祖父の形見か何かではないことを願いつつ、弁償を申し出ると、電話の向こうで少しの沈黙があったあとに、


「分かりました」


 とだけ答えられた。近く来店の予定があるか尋ねると、二日後に行くと言う。わたしは、シフトを確認した。沢口さんは入っておらず、やはり、わたしと遠野さんの組だった。


「ま、人生そんなもんよ。気にしない、気にしない。そのうち、いいことあるって」


 遠野さんは明るく言ったが、わたしは、その「そのうち」ができれば同じ週の内とか、せめては月が変わる前に来てくれないものだろうか、と天にいますクリーニングの神様に――日本は八百万やおよろずの国なのだから、そういう神様がいたっていいハズ――両手を合わせて祈りを捧げた。

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