第18話 礼服はスーツの倍
会社の業績は上々のようであり、県内にまた新たな店舗を出すようである。そこの店長候補になっている人が、わたしの勤めている店に研修に来ることになった。すでに他店舗で数ヶ月勤務しているようだったが、店長になるに当たって、県内で一二を争う売り上げの店で、研鑽を積ませるというのが、会社の方針のようだった。
うちの会社では、店長になるかどうかというのは、基本的には希望制であって、なりたい人がなるというものだった。もちろん、あまりに不適格な人はなれなかったり、うちの店長のように会社からぜひにと請われたりする人もいるけれど。
「店長なんて大変よー。客と上司とその店の同僚に挟まれちゃって、それほどお給料が上がるわけでもないし。使われている方がよっぽど楽だわ」
サービス業にふさわしからざるメイクがほどこされた藤井さんは、この店のスタッフの一人である。
「まあ、もし上にいる人が、うちの店長みたいな人じゃなければ、自分でやった方がいいと思うかもしれないけどね」
そう言って、藤井さんは、今日も見事な細工がほどこされた爪をうっとりと見つめた。
「どう、これ? いいでしょ」
わたしは、小さな石が立体的に積み上げられて、ミニダンジョンのようなものが形成されているネイルを見て、うなずいた。
新店舗の店長候補として研修に入ってきたのは、20代後半の女性だった。沢口さんという彼女は、まるで柳のように線が細い女性で、スタイルはうらやましいけれど、一見して、このクレームワールドでモンスターカスタマーズとバチバチやり合えるのかどうか大いに疑問を持ってしまう人だった。
「よろしくお願いします。いろいろ教えてください」
沢口さんは、10歳ほども下のわたしにも丁寧に頭を下げてくれた。
聞いたところによると、最近、二人目のお子さんが生まれて、働きに出る必要性が高まって、うちの会社に入って、店長になることも希望したということだった。
「店長になればフルタイムで入れるし、手当もつくから」
確かにその通りだけれど、問題は、藤井さんの言うように、上乗せ分の金額が増加したストレスを相殺してくれるものかどうかということだろう。
しかし、事はそれ以前の問題であることが、それほど日数が経たないうちに明らかになった。
ある日、沢口さんがスーツとして預かったものが、礼服だったことが分かった。スーツと礼服では、値段が倍くらい違う。黒のスーツと礼服の違いは、紛らわしいと言えば紛らわしいけれど、黒の深みや、長く着られるような型になっているかどうか、という点で、クリーニングに携わっている人間ならまず間違えない。入社して4ヶ月のわたしでも間違えないのだから、よっぽどだった。
「わたしもそう思ったんだけど、お客様がスーツって言うから……」
沢口さんは気弱げな顔で言った。
さすがにわたしは沢口さんに注意することにした。これまで、一緒に店舗に入った人に対して面と向かって注意をしたことはなかったけれど、今回彼女は研修に来ているわけで、わたしは彼女とほとんどキャリアは変わらないけれど、少なくともこの店では先輩であるわけだから、注意しておくべきだと信じた。
「スーツと礼服がどうして料金が違うか、ご存知ですか?」
「それは……クリーニングの行程が何か違うんでしょ?」
その何かが問題なのだった。礼服は専用のプログラムで個別に洗って、手仕上げもする。だから、どうしても料金は高くなる。その料金分というのは、会社の売り上げとなって、それはわたしたちの給与になる。一着くらいの話で大げさと言えば大げさだけれど、もしも、
「あの店はスーツっていえば、スーツでやってくれるよ」
なんていうことが噂になって、そんな客ばかりが押し寄せてきたら、大変な話になる。
わたしは、沢口さんに、さっきの客に連絡して、お預かりしたのが礼服だったので、スーツと礼服の差額分を、引き取りに来たとき追加で徴収させてもらいたい旨を伝えるように指示した。我ながら、偉そうだとは思うけれど、彼女が研修に入っていたときのミスは、わたしのミスでもある。
「沢口さんが勝手にやったことで、わたしには関係ありませーん」
なんてことを言って済ませていたら、一緒に入っている意味が無い。
「でも、そんなことしたら、お客様はきっと怒るでしょう?」
それは当たり前である。人はお金をもらうときは喜ぶもので、お金を出すときは嫌がるものである。お金を出すのが相手のミスであれば、なおさらだろう。
あまりに沢口さんがグズグズしているので、わたしが代わりに電話することにした。研修に入ってきた人のミスが担当者のミスでもあるならば、代わって責任を果たさなければいけないだろう。
「さっきスーツだって言ったのに、今さら礼服とか、おかしいだろ!」
案の定、客は怒鳴り声を上げた。わたしは謝ったが、なかなか彼の怒りは治まらない。さんざんぐちぐちと言われたあと、しぶしぶではあるが、差額分を払うことを認めてくれた。
受話器を置いたわたしはどっと疲れが出るのを感じた。
「ごめんなさい、わたしのせいで……」
沢口さんは申し訳なさそうな顔をしていたが、わたしは、電話中に来ていた客のことが心配だった。40代くらいのでっぷりしたその女性客が持ってきたのは明らかにワンピースだったけれど、沢口さんは客に言われるままにワンピースよりも料金が低いチュニックで受け付けていたようだった。
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