第64話

 どこで体を休めるのか、はその日の実入りに依った。

 満足いくほどの現金が手元にあればホテルなどを使うこともあったし、そうでなければマンガ喫茶のような場所、それさえも難しければ雨風をしのげればそれでいい、とばかりに適当な雑居ビルの屋上の物陰にでも登って過ごすことが多い。

 今日のところは…といえば、あてが外れて懐具合は充分とも言えず、本来であれば二十四時間客を受け入れる場所のどこかで休むべきところだったが、そうすると自分が酷く惨めになりそうな思いがする。


 (…やってられるか!くそっ、こんな金、全部使ってしまうか)


 正体の掴めない苛立ちを懐に抱えると、ターナは食事もいつもより上等なものを食べ、そして顔も覚えていない誰かから奪った財布の中身を確認すると、前に一度泊まったことのある新しめなビジネスホテルに宿を決めた。


 ”一泊、部屋は空いているか?”


 エントランスに入ると、ちょうどどこかの団体客を捌いた直後とみえ、そこには人の賑わいの残り香のようなものが感じられる。

 わけもなくそんな匂いに苛立ち、カウンターの向こうにいたフロントの男性を睨み付けるように来意を告げた。


 「お一人様でいらっしゃいますか?」

 ”ああ”


 そんなもの見れば分かるだろう、と怒鳴りつけたくなるのを堪えて、愛想の無い返事をする。

 男はカウンターの向こうにある端末を操作し、空き部屋を確認しているようだ。

 その作業の合間にターナに向ける視線には、あからさまにターナを値踏みする様子が見てとれる。腹立ち紛れにその認識を確認してみた。


 若い外国人の女性がたいした荷物も持たず、ホテルの部屋をとろうとしている。旅行でなければ客でもとろうというのか。


 そんな風に見られていた。


 ”…別に売りをしようってわけじゃない。予定していた場所に辿り着けず、急にこの辺りで泊まる必要が出来ただけだ”

 「い、いえ…そのようなことは…失礼しました」


 言い当てられて動揺でもしたのか、男性は少し覚束無くなった手付きで端末の操作を続ける。

 そんな様子をじっと見ていたターナだったが、言わずもがなのことを言ってしまったかと内心でため息をついた。


 「…お待たせしました。その…ただ今空きはビジネススイートが一部屋だけございますが、いかがなさいますか?」

 ”いくらだ?”


 戻ってきた答えと財布の中身を付き合わせる。どうにか支払える金額だった。恐らく、そう言えば諦めるとでも思ったのだろう。


 ”それでいい。現金で頼む”

 「…かしこまりました。こちらにご記入をお願い致します」


 無表情を装った、その向こうの諦め顔。そんなものを見て取って、正直いい気味だと思った。




 部屋に入ると、身の回りのものを詰めた小振りのリュックをベッドの上に放り投げた。

 確かにスイートを名乗るだけあり、ターナがひとりで使うには無駄なスペースの多い、贅沢な部屋だった。

 腹を満たしてから宿を取ったから、もう今日はすることもない。

 体の疲れよりも精神的にくたびれた心持ちだったから、とにかくシャワーでも浴びて気分転換するか、とバスルームに入る。


 (…こんな場所で湯を浴びるのを当たり前にしてた時期もあったな)


 ターナは本来育ちは悪くない。が、それを良しとしない生活を長く続けていたから、今の自分には似つかわしく思えない、やけに広いバスルームだ。

 着替えを用意し、着衣を全て脱ぐとバスタブに湯を張る。シャワーブースとバスタブが分かれているから、湯がたまるまでの間に汗を流せるのが気に入った。

 備え付けのソープとシャンプーで体を洗い、ちょうどいい具合にバスタブに湯がたまったのを確認すると、ふと鏡に目が行く。

 そういえば、ここしばらくじっと鏡を見たことなど無かったな、と洗面台の前に立ち、ガラスの向こうにある自分の身姿を眺めた。

 娘らしくない、と言われることはしょっちゅうだったが、改めて見ると否定は出来ない気がする。

 背丈は標準的で肌にも若々しい張りがある。シャンプーで汗や泥を洗い流した銀髪はアミーリェティシアの家系の特徴で、母や姉と共通の美しいものだ。

 ただ、同じ年頃の娘たちに比べるとどうしてもターナの体は起伏が乏しい。

 腰の辺りなどは素晴らしく引き締まり、鍛えた四肢も伸びやかであるのだが、平坦な胸回りだけはどうしようもなかった。それで少年と間違われたことも再三だったし、この世界に来て最初に会話した男にも最後まで誤解されたままだったものだ。

 ただ、ターナが気に入らなかったのはそんな自分の体つきのことではない。


 (………誰だ、お前は)


 鏡の中にあるのは間違いなく自分の顔。

 だがターナは、それが自分のものであると、どうしても思えなかった。思いたく、なかった。

 暗く、濁った瞳。周囲の全てを睨め付けるような据わった眼差しを、一体いつからするようになったのか。

 思ったのは、腐っている、という一言だ。

 そして記憶にない自分の顔に、嫌になるほど見せつけられてきた、自分たち竜の娘を祀りあげていた人間たちの顔が、重なる。

 あれを、自分は憎んでいたのではないか。一つ世界にあるものをいいように弄ぶだけの愚物だと蔑んでいたのではないか。

 振り返り、自分がいる場所を確かめる。

 ここにあるものはみな、ターナが手に入れたものではない。ホテルの設備だ、ということではない。誰かから奪ってきたもので、今自分はここにいる。

 力は、自分のものだ。けれどそれはターナが望んで得たものではなく、努めて得たものでさえなく、世界に生まれ落ちた時に持たされたものだ。

 そんなものをいいように扱って、身をこの世界に置いている。それは、自分が憎んできた存在と同じことをしていることに、なるのではないか。


 (…違う!)


 奥歯を固く噛んで発した声にならない慟哭は、しかしターナをしずめるものとなり得ない。

 否定して、見下して、そして逃げ出した自分に、目を背けたくなる今の姿を否定する資格は、あるのか。


 この世界にやってきて、ターナに賢しげな言葉をかけた男のことが不意に思い出される。

 彼は、何と言ったか。

 世界にいる自分は共存も対立もする。共に在るのであれば、幸福になるのも不幸になるのも同じくなるものだ、と?


 (…つまり、生きている限り世界とやらとは、縁を切ることも出来ないということか)


 縁。

 この国において何度か耳にし、その考え方に納得はせずとも引っかかるものがあった言葉。

 良くも悪くも認めざるをえない、繋がり。

 ターナはそんな風に解釈し、今はその理解が自分と世界の間にあるものを、最も的確に表現しているようにも思う。


 (……くくく…)


 鏡の向こうの、暗く澱んだ眼は間違い無く自分のものだ。認めたくは無いが、故国を後にしてからやってきた結果が、これだ。

 世界と自分。鏡に映る己が顔と、自分。

 切り捨てることも、否定することも出来ないのであれば、今は認めるしかあるまい。

 くらい笑いは気分を明るくたかぶらせることはないが、それでも不思議と今の自分から逃れようという気にもならずにいられた。

 どうせ、自分はここにあるのだ。なら、このクソったれな世界にターネァリィスという存在を刻んでくれる。


 洗面台に腕を預けて佇む。

 水滴の滴る銀色の前髪の間から覗く灰色の瞳は、昏さこそ相変わらずだったが、少しは自分のことを好きになれそうな、そんな予感をもたらす光を帯びているかのようだった。



   ・・・・・



 「大人二枚でー。あ、ここは私が出すよ」

 「…学割とか無いのか?」

 「どうなんだろ?けど私だけ学割にするとターナより安くなるよ?」

 「安いならそれに越したことないんじゃないか?」

 「まあそこは年上のやっすいプライドとかそーいう感じのもので…あ、スミマセン、大人二枚で」


 夏休み中の水族館ともなると、家族連れか何かで賑わうものかと思ったが、決して小さいとは言えない市営の水族館は人いきれに包まれる、という有様にはほど遠い。

 東京から離れればこんなものなのかな、などとターナは思うが、それでも入場券の券売所は何人か並ぶ程の客の入りはあるようで、窓口で揉める二人は後ろの子供から急かされてしまうのだった。


 慌てて二人分のチケットを購入し、中に入る。

 今日は八月としては割に涼しく、浜風の通る道を歩いてきたのだからいつぞやの上野でのような茹だる暑さではないにしても、それでも冷房の利いた館内の空気は音乃にとって呼吸も楽になる思いのようだった。


 「…すずしー」

 「お前は本当に暑いのダメだなあ…」

 「まーねー…長野は街中はけっこー暑いんだけどさ、うちはもう高原みたいなとこだから暑いのはちょっとね」

 「そうか…いいところなのだろうな」

 「どうなのかなー…自分ではよく分からないから、遊びに来る?確かめに」


 そしたらうちの家族にも紹介しようか?とまで言われ、それがどんな場面になるのか想像してはみるが、居心地が良さそうとは到底思えず、ターナも苦笑して「ま、そのうちな」とはぐらかすだけだった。


 エントランスの先に進むと、日の差し込む廊下と展示ブースの入り口に分かれていたが、二人は示し合わせることもなく照明の暗いブースを選ぶ。もっとも、「順路」との表示に従っただけのことだったが。

 そしてしばらくはゆっくりと並んで歩きながら、通路の両端にある展示物や案内を一緒に眺める。

 会話は、それらに関するものだけで、ターナの過去の話について音乃の方から触れることはなかった。かといって上っ面だけが楽しい空虚な会話、ということもなく、いつも通りの気の置けないやりとりに終始していた。

 

 「…それで、ターナは何か変わったの?」


 だから、通路の両側に並ぶ展示物を覗き込むようにしながら音乃が尋ねたのも、ターナにはごく自然なことに思える。

 幾分気は重くなりながら、けれどそれから先の自分の選択が少しは誇らしく、今でも思っていることを示すように、音乃の背中を見つめながら話を続けた。

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