第63話
「でもそれからすぐに部屋見つかったり仕事始めたりしたわけじゃないんでしょ?」
「まあな」
歩いているうちに、当初の音乃の希望通り、水族館に行くことにした。
歩いて行ける場所であったから、スマホ片手に道を調べ、のんびりと目的地へ向かうのだったが、ターナの足取りはと言えばそんな長閑な空気に相応しくない、やや重めのものだった。
「…ここから先が、今まで音乃に言いたくなかった内容になる。つまり…」
「あんまり他人様に胸張って語れる真似をしてなかった、ってことね。大丈夫、ターナのことは分かってるから、それくらいで嫌ったりはしないって。怒りはするかもしれないけど」
「そういうヤツだな、お前は。まあいい、分かっていて言うなら大分気は楽だしな」
「そーいうこと。あ、何か飲み物でも買う?」
道ばたの自動販売機の前で立ち止まり、ターナの返事も待たずに財布を取り出している。
「…今ならそうやって簡単に喉の渇きも癒やせるのだけどな」
聞こえないように呟いたつもりで、音乃にも声は届かなかっただろうと思う。
音乃は少し考えてミニボトルの冷たい緑茶と…それからカルピスのボタンを避けてミネラルウォーターのボタンを押し、二人分の飲料を買っていた。
「はい。水でいーよね?」
「ああ…というか先にカルピスで迷わなかったか?」
少し離れた場所で待っていたターナには、音乃の指先に逡巡に似たものを見て取り、ついそんなことを尋ねてしまう。
「喉渇いている時に甘いもの飲むとさ、余計に喉渇かない?」
「分からなくもないが、それがどうかしたか」
「どうっていうか…うーん、なんか説明が難しいんだけど。喉が渇いていると、それ以外のことってどうでもよくなるよね、ってこと、かな?そんな気分の時ってあるでしょ」
「…まあ、なくはないな」
「だから別にさ、私に言い淀むようなことなんか無いと思うよ?」
「……音乃…」
きっと音乃は、ターナがあの頃無性に囚われていた餓えや渇きに似た苦しさのことなど、まだ話してもいないのだから気付いてはいないだろう。
けれど、きっと音乃がそれを知っても、ターナは自分の誇りを謗る憐れみなどとは無縁の想いが自分に向けられるだろうことをのみ確信し、差し出されたペットボトルを受け取る。それは、炎天下の道端という立地のせいか冷たくはなく、けれどキャップを切って口に含むと却って乾いた喉に馴染むように、咽頭を水が下っていった。
「…そうだな。そして渇きが癒えたのならその分、口だって滑らかになるものさ」
「それは流石に軽すぎる気はするけど。でも、それくらいの方がいいのかもね」
口の端に浮かんだ笑みは、決して自虐のものではない。
楽しかろう筈も無い話ではある。だがそこに幾何かの懐かしさを覚えながら、ターナは語り始めた。
・・・・・
上半身を捻ったり腕を回してみたりして、動きを妨げないか確かめてみる。
悪くない、というよりも身にまとった少しくたびれた、表に皮革が誂えられたこの上着は、どこか自分の好みに合うような気がする。
”…いくらか重くはある、が。仕方ないな”
そして袖や裾の内には、この世界で見繕った金属の糸や軽く固い板…ターナにはその正体が分からなかったのだが…を折り込み、流石に自身の力から生み出す鎧にはほど遠いものの、この世界において悪目立ちせず、この身を苛む危害から自分を守るために役立つだろうと思える品を工夫出来たように思う。
下半身はスリムなジーンズ。肌着は女性のものと思われるものを入手し、上着の下も清潔なものを身につけている。少なくとも装いだけで人目をひくようなことは無さそうだった。
それらがどんなものであるのか、知識は全て竜の娘の力を駆使した。
簡単なことではなかったが、少なくとも故国の言葉に彼女自身の認識を載せて伝えるやり方、ターナに伝えられる言葉に載せられた話し手の認識を上手く交換して会話を成立させることなら当初から当たり前のように出来た。もとより異界において交渉を容易にすべくある力である。当然のことだ。
ただ、ターナに後ろめたい点があるとすれば、この世界の常識や知識をターナの存在を認めさせず得るために、会話とは言い難いやりとりをこの地の住人に強いたこと…ではなく、単純に、その過程において金銭を供せしめたことだろう。
暴力を振るったわけではないにしても、その意に沿わぬ形であるのだから、大なりと言えども財産を奪ったことに違いは無い。
そして身につけたものの大半はそうして得た小銭だの紙幣だのといったもので購ったものの、革の上着に至っては、追い剥ぎまがいに奪い取ったものでもあるのだ。ただし、ターナによからぬ下心を抱いて襲いかかって来た相手から、であったから、さほど心が痛むこともなかったが。
”悪く思うなよ、いずれ礼はさせてもらうさ…といっても無理な話か”
だから心の内の呟きは、そんな憐れな不埒者以外に向けたものだが、実のところ当の本人も本気でそう考えているわけではない。
ただ、筋の悪そうな者共から金品を巻き上げるのならば、それほど心が痛むこともないとは思っている。
”さて、行動には気をつけて。今日の被害者は、と……いるな”
周囲の認識を捉え、血を見るほどではないにしても多くの人が眉をひそめそうな場面を探す。
本来であればありがたい話ではあろうが、ターナにとっては面倒なことに、この世界は治安に関しては故国とは比べものにならないらしい。ターナに自責の念を抱かせないほどの暴力沙汰には事欠く有様だった。
”遠くない。こっちか”
ただ有り難いことに…いや、ターナの被害者とその更に被害者にとっては全く有り難くない話ではあったが、今日はすぐに見つかったようだった。
駅前の、帰宅の道を急ぐ勤め人の流れに逆らって歩く。
監視カメラ、という厄介なものがあるのは承知しているから、こんな場所で派手な動きをするつもりはないし、それは不逞の輩にしても同じことだ。つまり、わざわざターナが目立ちたくない場所で不法を働いてくれるのだから、ありがたい話だ、と皮肉に口元を歪めつつ、伝播されてきた悪意と暴力の気配の発生源に辿り着いた。
そこは商店街の脇道から更に奥まった路地に入り、どこかの商店の裏と思しき場所だ。
怯えた男性の声と、明らかにそれを楽しむような複数の下卑た声。
ターナにはそれで充分だった。
”おい”
そうしてやることは、いつも同じ。
誰も助けに来ない状況で、財布だかなんだか知らないが、彼にとっての大事なものであろうそれを奪おうとする、大抵の場合は男達。
声をかける、その者共は振り返りターナを見る。時に好色な目付きで興味をターナに向けようとする場合もあるが、以後はもう呆れるくらい繰り返した真似だ。会話をする間も勿体なく、ターナは素手でその者たちを打ち倒し、財布の中身を頂戴する。
あとは、その場にいた人間の認識から、ターナの存在を消し去れば全て終わる。ただそれだけだった。
今日の実入りは悪くなかった、と自分で稼いだわけでもない現金の存在を懐に覚えながら、商店街の人いきれの中を歩く。
稼ぎ場に向かう時は人の流れに逆らっていたのだから、今は流れに従って駅前から商店街を抜けて家々の立ち並ぶ方へ向かっていることになる。
ただし、ターナのねぐらはそちらにはないのだから、特に当ても目的も無くそうしていることになる。
それにしても、こうして物理的に満たされると、心にも余裕というものが生まれる。
何日か前、食事どころか喉の渇きを治す手立てさえ分からず、フラフラと街を彷徨っていたことを思うと隔日の感がある。
”…くくっ”
我が身の変遷の有様を思うと、我知らず笑みも漏れ出る。
今日は何を食おうか。食事の質については間違い無く故国を上回る。というより、ターナの場合身の回りのこと全てに倦んだ暮らしであったから、何を食べても砂を噛むようなものだった。
それが、好きなものを好きなだけ食べても構わない、今だ。よもや身の振り方も定めず、逃げ出すように訪うた世界でこうも安定した暮らしが待っているとは思わなかった。寝るところさえなんとかすれば、生きていくのに何の不備も無い。
悪くは、ない。
そんな思いで夜の街を歩き回る自分の姿に、何の疑問も覚えなかった。
・・・・・
「…思ってたよりアレだった件について」
「そーいうだろうとは思ったけどな」
気がつけば、隣を歩いていた音乃との距離が、半歩分ほど離れている気がする。流石にドン引きさせてしまったな、とは思うが、歩みの遅い二人が二、三歩歩くうちにそれは元に戻り、むしろ音乃は気遣わしげに並んで歩くターナの顔を下から覗き込むようにしていた。
「あの頃、別に人助けをしているつもりは無かったが、悪事を働いているつもりも無かったんだ。よく考えれば汗顔の至りなんだがな。あそこで弱者から金品を巻き上げてる奴原から財布を失敬したところで、結局あいつらはまた同じようなことを繰り返すだけさ。その上前をはねるわたしは、同じことをやっていただけに過ぎない」
「ん、まあ私としてはさ、ターナがそうしないと生きていけなかったというだけで許せそうな気はするけど。無実の人から強盗してたわけじゃないんでしょ?」
「音乃がそうしてわたしを擁護してくれるのはありがたいが、それをおかしいとちっとも思わなかったのが、わたし自身の卑しさってものさ。それを早い内に気付かされたことに、まだ救いがあったと思うのだけどな」
流石に苦笑しつつ、ターナは横の音乃から目を逸らし、遠くを見るような眼差しになる。
そろそろ行き先の水族館の建物が、目に入ってきていた。
・・・・・
それは、とても褒められない行状がほとんど日課とも言えそうになっていた頃のことだった。
いつも通りに獲物を探して見つけ当てる。いつも通りでないとしたら、日の落ちてない時刻と場所が広いとは言えない公園の片隅だった、という点か。
そして一見してそういう場面と思えないくらいに、ターナには思える場にいたのは、怯えた…その点に限ればいつも通りだったが…少年が一人とそれを囲む、年の頃は自分と大差無さそうな少女が三人、という図だった。
ただし少女達の方は、明らかに分別のつけ方を何処かに置き忘れてきたような、実際のところは学校の制服を着崩していただけなのだろうが、ターナにはどこかちぐはぐに思える装いでいた。
少年の方は、と言えばこれが見事なまでに世慣れぬ風で、その割には妙に意志の固そうな表情だった。しかし結局は少女達に取り囲まれていたことで分かる通り、絡まれていることに違いは無いようだ。
(…何があるのか知らないが。少し声をかけてみるか)
ターナとて鬼畜ではない。
あまり素行の良さそうな少女達ではないが、婦女子を相手にしていつもの通りに振る舞う気にもなれず、まずは声をかけてみようかと、一団の後背に近付いてみた。
”…おい、何をしている?”
せいぜい善人の振る舞いと思われるよう、極力穏やかな意識を載せたつもりだったが、認識を直接伝えるという直截的なやり方がここでは災いしたと言える。ターナの言葉に載せた認識は、その場にいた四人にとっては恐ろしく好戦的な臭いのするものになってしまっていた。
「…な、なんだテメェは……」
「よ、ヨソ者が首突っこんでいいトコじゃね…えぞっ!」
「ケガしねえうちにどっか行っちまえ!」
それを受け、目に見えた反発がターナを襲う。伝わらないよう、内心でため息をつく。
こちらに向けた認識をそのままに感知出来るターナにとっては、そんな威勢のいい言葉も空虚の一言で斬って捨てるだけの内容でしかない。
そして取り囲まれていた少年の方は、と言えば、こちらを見て「救われた」という喜色の欠片でも表情に浮かべて…いるのかと思えば。
「………あ、ああ…」
そうではなく、ターナの顔を見てむしろひきつけでも起こさんばかりの怯えた顔をしていた。
(…なんだ、失礼な奴だな。助けに来た、とまでは言わないが、自力で窮地を脱する切っ掛けくらいにはなりそうなものを)
との不満が顔にでも出ていたか。件の三人の娘は、相手にされていないとでも思ってか、ターナの一声で見せた振る舞いなど忘れたように、こちらに向き直っていきり立つ。
「おい無視してんじゃねえぞ!あたしらはこの坊ちゃんが道に迷ってたところを助けてやっただけだ!」
「そうそう、どこのどいつだか知らねーけどな、テメぇみたいな白ブタには関係ねえんだよ!」
「助けてやったついでに手間賃ははずんでもらうけどなー。なあ?坊ちゃん!」
「………」
こちらが一人でしかも自分たちと大して歳の差も無いと見てだろうか。口が動く程に虚勢は増し、ターナはその意味の無さに頭の痛い思いがする。
ただ、絡まれていたであろう少年の反応だけは気になる。
身なりはよく、なるほどお金を持っていそうではあった。
歩いてくる時に辺りの空気を嗅いでみたが、この辺りはそう治安の悪い場所というわけでもなさそうだ。あくまでもターナ基準で、だったが。
それがこんな目に遭っている、という事態には何ごとかの事情があるのだろう、とこちらを向こうともしない少年の認識を無理矢理に引っとらえてみた。
(なるほど、家出少年か。それもそこそこの家の者のようだな)
小遣い稼ぎをしたい不良少女の、格好の獲物というわけだった。
であれば、ターナのやることは一つだ。この少年に恩を売っておいて、損は無い。
そう判断して、ターナは無造作に歩を運び、三人の少女の前に立つ。
「…?なんだおま…いてぇっ?!」
一人目は腕をとって捻り上げ、地面に転がした。
二人目は足を払い、転倒させる。
三人目には…。
「…ひっ?!」
…この世界にやってきてから、初めて取り出した、愛刀の刃を首筋に押しつけて言った。
”何がしたいのか分からんがな。この少年は預かった。さっさとこの二人を連れてここから立ち去れ”
愉悦と嘲りを込めた認識を伝えると、蒼白な面を忙しく上下させたあと、三人目の少女は残る二人を………放置して、一人脱兎の如く駆け逃げていく。
それに気付いた二人の方も、ターナには目もくれず、「覚えてろ」などという捨て台詞も残さなかったのがいっそ天晴れな逃げっぷりを披露しながら、文字通り一目散にいち早く逃げた少女を追いかけていった。見捨てたことを批難したりはしていなかったが、多分追いついた時にちょっとした喧嘩にでもなることだろう。
(……あ、しまった。こちらのことを忘れさせておかなかったか)
彼女らの逃げっぷりがあまりにも見物だったせいか、ターナはいつもやっている、こちらのことを捉えられる認識から遠ざけることをしておかなかったことに気付いた、が、まあいいかと愛刀を消す。どうせ何が出来るわけでもないのだ。
(ま、それよりだな)
”おい、少年。こっちにも打算があって助けたのだから別に構わないが、それでも礼の一つくらい言ってもらわないと、手間を無駄にするというものだ。何か言うことはないのか?”
…自分で言った通り、親切で助けに入ったつもりはない。だが、黙って立ち去られても面白いわけがない。
こちらに背を向けて、というより抜けた腰を引きずるように四つん這いになっていた少年の背中を見ながら、声をかける。
”……仕方ないな。おい、せめてこちらを向いて何か一言くらい言えないのか?どんな教育を受けてきたんだ、お前は……”
震える四肢を必死で繰って、ターナから逃げようとしていた姿の横に回り、その顔をのぞき込む。
ここまで怯えられるとどんな顔をしているのか。そんな単純な好奇心からだった。
だが。
「………あ、ああ、たっ、たす…………ひっ、ひいっ、ひっ…」
…本当の恐怖に陥った人間の表情というものを、そこに見た気がする。
小便を漏らしてこそいないようだが、ターナの顔を見た少年は顔中の筋肉を引き攣らせて、ターナから逃れようと意のままにならない体を必死に動かしている。
必然的にターナからは、腰を抜かして後ずさるように見えるが、その無様な様子を嗤う気にもなれなかった。
少年は後ずさるうちに木に当たり、慌ててその木を抱くようにぎこちなく立ち上がると、その有様の異様さに思わずターナが目を逸らした瞬間、足を絡ませ五歩ごとに転びながらも必死にターナの視界から消えようと、命懸けにも見える逃走を図り…そして成したのだった。
”……なんだってんだ。人の顔を見てあそこまで怯えて。失礼な話だな、全く”
失望のようなものがあったことは否定しない。
しかし、別に上手くいかなかったからといって損をするわけでもないのに、ターナの胸中に去来していたそれは、酷く自分の焦りや不安を喚起するものだったと言える。
その正体を掴めず、仕方なく立ち上がり、それから今日のねぐらを探しに歩き始めた。ただ今日のところは、安らげる場を得たとしても、どうも眠れそうにはないという予感だけは、確かにあった。
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