第44話
「かっしー、おそーい!」
四百メートルという距離は、スピードスケートなら最も短い五百から更に百メートルも短い。
全力を出し切ったことに違いはないというのに、どーしてこうも距離の短い方は、終えた後に何も出来なくなるのか。
…と、呼吸すらギリギリでやってる、という態で倒れ込んだまま、音乃はぼやいた。
「…んー、タイム落ちてるねぇ。順調に伸ばしてると思ったけど、行き詰まり?」
トラックに倒れ込んで喘いでいる音乃を見下ろしながら、陸上同好会のマネージャーである
「見たところ前半は悪くなかったけど、後半の…特に最後の百が酷かったからねぇ…体調でも悪かったかな?」
「……ハァ、ハァ……ハァ、ハァ………あっ、あの………」
「あいよー、息が整うまで待つよん。あと、次の子が走れないからさっさと起きてどいてね。ほら」
と、差し出された手を掴み、どうにか体を起こす。
体中の酸素を使い切った後の感覚は嫌いではないけれど、その時に動くことを強いられるのは正直言って、辛い。
とはいえ、珍しく日が落ちてからトラックが使える日なのだ。
他の同好会の部員の目もあるから、早く空けなければいけない。
ようやく新しい酸素が血を巡り始めたような錯覚を覚えながら、音乃はだるい体を無理矢理動かして、端にあるベンチに歩を向けるのだった。
「よっしゃー!ビールの、時間、だぁーっ!!」
「うら若い乙女がおっさんくせーよ、リツー」
「うっさいな、わたしゃこれが楽しみで陸上やってんだ。酒が呑めないんならライブハウスにでも入り浸っていた方がマシってもんよ!」
女子運動部のシャワー室の会話なんて、男子が見たら幻滅するに違い無いシロモノだよなあ、と思いながら冷たいシャワーで火照った体を冷ます。
まあ酒飲みの気持ちなど分からないが、夏の熱気が残る夕方過ぎに、全力で体を動かしてから浴びるシャワーの気持ちよさだけでも、確かに走る甲斐はあると思う。
「かっしー、タイム落ちてたんだって?どーしたよ」
「んー、カオ先輩には体調悪いんじゃ?って言われましたけど、まあ確かにちょっと寝不足だったというか…」
「まー、わたしらは部の連中と違って自分のタイムにしか興味無いしねぇ…どれどれ」
「どれどれ…じゃないですよリツ先輩、わたしの体なんか見て楽しいですか?」
シャワーブースの簡易扉の上からのぞき込んで音乃のお尻から下をまじまじと見ていた三年の
「いや、スケート選手の太ももってすげー、って聞くからさ。どんなもんかと思って」
「走ってる時に存分に見ればいーじゃないですか」
「ケツから見ないと意味ないじゃん…ほぇー、確かにこの筋肉はすげぇや。いくら?」
「百グラム三千円は下りませんねー。お金掛かってますよ?」
いい加減このノリにも慣れた音乃が言い返すと、律子は「マジか…」と絶句しながら引っ込んでいった。
まあ自分が払ったわけではないが、かけた時間を思うとそれくらいの価値はあるんじゃないかなー、と呑気に思う音乃だった。
とはいえ、スケートをやめてから大分経っていて、ぜい肉は思ったよりも増えている。
陸上同好会に入って鍛え直しつつあるといっても、そんなにすぐ元の力に戻るわけではない。
音乃は今のところタイムを計る機会の多い短距離中心でやっていて、計測する度に速くはなっているものの、全盛期に夏場のトレーニングで戯れに計ったタイムにすら、まだ遠く及ばない。
「…まあ、でも」
と、思う。
こうして少しずつでも前進していることが分かるのは、今の自分には結構必要なことなんじゃないか、とは思うのだ。
ターナとは、例の件以来顔を合わせていない、といっても、三日間ほどのことだが。
その間、電話では話をしたが、かろうじてぎこちない空気にはなっていなかった…と思う。
(…といってもなー。自己評価だけじゃなんとも言えないし…)
そこのところ、近しい第三者からはどう見えているのか、と同居しているマリャシェにこっそり聞いてみたくもあったが、ターナに見つからずに接触する手段が思いつかず、躊躇している最中である。
そしてこれからどうすればいいのか。
肝心要のその事にさっぱり答えを見出せず、ちょっとばかり逃げるように夏休みの練習に集中しているところは、少し後ろめたい今日この頃なのだった。
・・・・・
「しかし、さっさとやってきてやる気があると思えばその体たらくはどういうことだ」
「…うるさい。ジェレミーのくせに生意気だ」
「意味がわからん駄々をこねるな、阿呆。ほら、ヒマならこっちの書類の処理方法を教えろ」
空きの机にアゴをのせてだらけていたターナの目の先に、ジェレミーが役所に提出する書類を突き付ける。
「…なんだ、道路使用許可の申請だ?わたしに分かるわけがないだろう。ウエムラさんにでも訊いてくれ」
「ったく、役立たずだなあ、今のお前は。穀潰しという言葉知ってるか?」
「アメリカ人のくせにどうしてそんなに日本語の慣用句に堪能なのだ、お前は…」
それはまあ、スポーツ留学とはいえマジメに日本の国文学科を卒業したのだから、語彙に関してはターナなどよりもはるかに豊富なのである。日本語の口喧嘩でターナが勝てるはずもなかった。
「ターナも意外に言葉は知っていると思うけどな。どれ、見せてみ…ああ、これなら…こっちで説明しようか。ジェレミー、来てくれ」
「分かった」
通りがかった槙村という中年の所員にジェレミーはついていった。
鬱陶しいのが消えてせいせいするとばかりにターナは、大きく伸びをしてまた机に突っ伏した。
ここ数日はターナのような実力行使要員の出番もなく、むしろ机仕事が多い。
なので、どちらでも対処出来るジェレミー辺りは自分の仕事があって、流石に最年少のターナに面と向かって穀潰し呼ばわりする者はいないが、例えそうされても甘受しなければいけないような、立場なのだった。
(まあ、考えることも多いからなあ…助かると言えば、助かる)
そして今のターナが考えること、といえば当たり前だが音乃のことだ。
向こうから電話をしてくる、こちらからもなんとなく声が聞きたくなって電話をかける、というやりとりは日に一度二度とあるのだが、特に音乃がマリャシェとした話に触れるようなこともなく、元気でやってるか、ああ、ちゃんとご飯は食べてるか、わかってるお前はわたしの母親か…みたいないつもの会話にしか、なっていない。
(それはそれでつまらないわけではないんだが…なんとなく物足りないというか…うーん)
ならば自分から踏み込めばいいものをそうしない辺り、事情を知るマリャシェからするとどう見えるのか。
聞きたいような、聞きたくないような、そんな複雑な心理に翻弄されている今日この頃の、ターナなのだった。
”それでわたしに仲立ちを頼むというのも、少し筋違いのように思いますが”
”うるさい。そもそもあなたが音乃に妙なことを言ったお陰で起きた事態だろう。少しは責任をとろうという気にはならないのか”
”とは言いましてもね。わたしが口を挟まなければいつまで経っても今のまま、だったのではないですか?あなたはともかくネノが気の毒ですよ”
身内に対しては一般的に余計に辛辣になるのを除いても、ターナには少し理不尽に思えた。
大体なんなんだ。音乃にしたってもっとはっきり言葉で言えばいいものを。
こちらが意を汲んで行動するのを待つとか、本当に音乃らしくない。拒まれるのを怖がったとかそういうことじゃあるまいな。
そんな不満を察してか、マリャシェは憂いを湛えた声色で言う。
”…電話で話をしているのでしょう?あなたから言葉にすればいいでしょうに。それに直接会ってネノと認識を交換することぐらい、簡単に出来るのではないですか”
”……音乃はわたしがそれを出来るのを知っているんだ。そんなことをしたら…なんだか音乃に悪い気がする”
”あなたのネノに誠実であろうとする態度は立派だとは思いますが…それくらいやらないと関係は変わらないように見えるのですけれどね…”
”むー…”
結局、何を言おうがターナの方で音乃に伝わる行動をしていないのだから、説得力というものが何も無い。
そこのところは言われるまでもなく、自覚してなくはない。
だからと言って何が自分に出来るのか…。
”だ、大体だな。音乃の方だってわたしに何かそーいう意志を示したことはないのだぞ?こっ、言葉でその、わたしのことを………とか言ってくれれば考えることは出来るというものだっ!”
”足繁く通って食事の世話をしてもらい、記念日にはとても心のこもった贈り物をしてもらって言うことですか、それが”
”…ぐぬぬ”
無駄な抵抗だった。
”それにですね、ターナ。あなたはネノのことをどう思っているのです。認めるところを認めないと、わたしとしてもこれ以上助言は出来ませんよ”
”…何だか面白がっていないか?”
”そう思うのはあなたに後ろめたいところがある証しですよ。語るに落ちる、とはこのことです”
”………”
最早何も言い返せず、ターナは静かになってしまう。
音乃が食事を作りにきてくれていないため、ここ数日はターナが帰りに買ってくるコンビニ弁当の食事になっている。
マリャシェはターナのいない間に出歩くようなこともないようで、毎日部屋でターナの帰りを待っていて、そのことに申し訳なさはあるが、かといってここまで言いたい放題言われる筋合いは、あるのか?
…あるだろうなあ、と思う。
それに、マリャシェに関する問題もあるのだ。彼女自身、それを忘れられる身でもないのに、自分の青臭い悩みを一緒に考えてくれている。
”…何か、まとめて解決出来る方法でもないものか”
”まとめて、は無理でしょうけれど、あなたが目の前のことに目星をつけられないうちは他のことが手に着かないでしょうから、わたしとしても協力をするのは吝かではありません。それでターナ、提案があるのですが”
”提案?”
もうこの際どんな内容でも聞いてやろう、という気分で身を乗り出す。
”デートでもしてきなさい。いつもと違う場所にでも行けば、いつもと違う言葉も出てくるでしょう”
”……でぇと?”
”…という言葉があると聞きました”
そこは流石に気恥ずかしそうに言う。
故国でも親しい二人が出かけて交流や親愛の情を深める、という行為の総称として、それに似た表現はあったが、改めて口にすると照れがあるというところか。
”デート、か…うーん”
”あなたから誘えば、ネノにも考えが出てくるでしょう。直接誘うのが難しければわたしから声をかけますが?それくらいはさせてもらいますよ”
”…悪い考えではないと思うが…なんだか構えてしまって逆に上手くいかなそうな気がする”
”あのですね…”
この期に及んで往生際の悪いターナだった。
呆れかえったマリャシェと、煮え切らないターナ。
そんな図式で固まりきってしまうかと思った時、ターナのスマホがメールの着信を告げた。
”…と、誰だこんな時に……うん?レーニか?”
”レーニ、というと話にあった事件の女性ですね?”
”ああ。時々連絡をとりあっているが…済まない、ちょっと中断する”
”構いませんよ”
断りを入れて、スマホを操作する。
機械翻訳したと思われるどこかぎこちない日本語の本文を読むと、夏に遊びにくると言っていた件で、その予定を知らせるものだった。
”…来週か。随分急だが…”
”こちらに来るというのですか?”
”ああ。音乃にも同じ内容で行っているようだから、揃ってどこかに出かけるという話になるだろうな。マリャシェ、悪いとは思うが…”
”いいですよ。行ってきてください。というより、いい機会だと思います。ネノと何かしら関係を進めてきなさい”
”そー言うだろうとは思ったがな…”
どちらにしてもこの件で音乃と相談はしなければならないのだ。
口実が出来た、と言えば身も蓋もないが、緊張しながらではあるものの、早速音乃の番号を呼びだして、電話をかけ始めるターナと、それを優しく見守るマリャシェだった。
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